メディアは伝えない

「裏返しのメディア論13」『季刊民族学』116号2006年夏

先住ハワイ人の古謡「オリ」の世界
 以前、ハワイに伝わる先住民族の伝統芸能のDVDを制作したとき、古謡であるオリ(チャント)の収録を試みたことがあった。オリをかんたんに説明するのはなかなか難しいが、表面的な類似性だけをみれば祝詞(のりと)や声明(しょうみょう)とでもいえば分かりやすいかも知れない。ハワイの伝統芸能といえば、フラが有名である。しかし、オリについては、あまり知られていない。しかし、ハワイでは先住民族の文化においては、オリはフラと一体のもので切り離すことはできないといわれている。そこで、DVDの制作にあたっては、フラだけではなく、オリの収録も不可欠だと考えた。
  知人を介してオリの収録に協力してくださる人物を捜したところ、最適の人物がみつかった。ハワイ島にあるハワイ大学ヒロ校のハワイアン研究学部の当時学部長であったカレナ・シルヴァ博士は、ハワイ語で唄われる古謡オリの有数の唄い手でもあった。そこで、博士の研究室を訪ね、博士が唄うオリを収録し、同時に、インタビューに答えていただくことになった。
 週末の閑散としたヒロ校のキャンパスは、朝の雨をたっぷりと含んだ芝生に青々とおおわれ、小鳥の声があちこちに響きわたり、12月とは思えぬ佇まいであった。その小鳥の声に耳を傾けながら、博士はオリの成り立ちについてまことに興味深い話をしてくれた。
 博士の話によると、先住ハワイ人が唄うオリは、唄だけを聞いても何が唄い込まれているのか意味が分からない場合が多いのだそうだ。もちろん、オリにはハワイ語で表された歌詞がある。しかし、それを唄うとき、原詞の音節をバラバラにして再結合させたり、また、クオロと呼ばれる鳥の声をまねる技法などを多用した装飾音を組み込んだりして、もともとの歌詞がどんな意味であったのか、まったく分からないようにしてしまうのだという。
 オリ自体は、儀式や宴など多くの人々の前で唄われるものであり、だれもがその美しい調べを享受することができるものである。しかし、それが意味するものが何であるかを知りうる立場には、厳然とした区別が設けられている。オリの意味は、師匠から認められた弟子へと秘伝されてきたのだというのである。

「意味は隠されている。それを意識せよ」
 オリは暗号なのか。もとの歌詞を知らない限りメッセージを解読できないという意味では、オリは暗号といえるかもしれない。しかし、もしオリが暗号なら、暗号化の手順である共通コードがしっかりとあり、それを共有すれば誰でも解読することができる。しかし、オリはそうではない。定められた暗号化の手順といったものはなく、結局、オリを作った唄い手と直伝された者にしか意味は分からないのである。西洋社会との接触を受ける以前の先住ハワイ人の社会にあっては唄はあきらかに霊的な力を発揮するメディアであったはずだ。先住ハワイ人の唄い手たちは、唄の意味が隠されているというオリのあり方こそが、真に唄に力を与える源泉だと考えたのかもしれない。そして、オリを聴く人々も、オリがそのような力を秘めていることに価値があるのだということを了解していたに違いない。
 このことを別の視点からみれば、「意味は隠されている。そのことを意識せよ」ということをかつての先住ハワイ人たちは、オリをとおしてつねに再確認していたといってよいだろう。
 しかし、ハワイが西洋文明と接して約200年の時が流れた今日、現実には、すでに多くのオリの意味が研究者や演奏家自らによって明らかにされ、私たちは、オリの意味を理解しながらその美しい響きを楽しむことができる。オリを記録した音楽テープやCDなどには、アルファベットで採譜されたハワイ語とその英文訳の歌詞カードが添付されており、それを読めばよいのである。
 このことをどう考えればよいのだろうか。選ばれた特権的なエリートにしか理解できなかったオリの意味が、メディアによってすべての人々の平等に開放されたと考えるのか、それとも、オリはメディアによってその力の源泉を失うべく仕向けられたと考えるのか。どちらの考え方も間違ってはいまい。しかし、どちらかといえば、私たちが価値を認め、力を注いできたメディアの機能とは、人々の平等に知識や情報を正しく効率的に伝達する存在としてのメディアであり、それを可能にする技術(テクノロジー)だったのではないだろうか。すべてを暴き、あまねく正確に伝達するメディアの力を追求してきた私たちは、そのメディアによって奪い取られた唄の力について忘れ、さらに、意味は隠されているものだという自覚を失ってしまったに違いない。

裏返してメディアを読むことの意味
 だが、ここでふたたび考えるべきことがある。オリのあり様が気づかせてくれるのは、「メディアは明らかに、かつ正確に伝えるべきだ」という誰もが疑い得ないようなメディアの「機能」が、けっしてメディアにとって不可欠な要素ではないことである。誤解を恐れずに言えば、「メディアは伝えない」のだ。そして、わたしたちはその事実についてあらためて自覚する必要があるのではなかろうか。その問いかけに自問自答する小さな営みがまさにこの「裏返しのメディア論」だったのだと思う。
 「メディアは伝えない」かもしれない、と考えるところからこの連載ははじまった。2002年、この連載の第1回では、ハリウッド映画、マーシャルローが描くイスラムのイメージの問題を取り上げた。多文化の共存という理想をかかげ、アラブ系住民に対するいわれなき差別に批判的な姿勢を貫く、ハリウッドの良心の発露とでもいえるようなこの映画は、それにもかかわらず、テロリストがテロの直前にイスラムの作法にしたがって沐浴をするひとつのシーンのために、多くの在米イスラム教徒たちが非難の声をあげたというエピソードである。映画が伝えようとする大きな主題は、たしかに非アラブ系の多数派の市民にとっては、アメリカの多文化主義や民主主義の健在を確認するために待望されていたものだったかもしれない。しかし、少数派のモスレムたちが注目したのは、そんな大きなテーマではなく、もっと切実で現実的な小さなシーンだった。かれらにとって「沐浴するテロリスト」という記号は絶対に受け入れられなかったのだ。それは、かれらの生存に直結していたからである。
 このエピソードは、メディアが「伝える」内容がじつは了解不能で偶発的なものであることを余すところなく提示している。送り手が想定したようにはけっして人々は受け取らないのだ。そして重要なのは、メディアがなにかを伝えたかということなのではなく、メディアをとおして、人々がそれぞれに異なった意味をそこから紡ぎ出したのかということなのである。
 連載の最後にあたって、あらためて確認しておきたいことがある。それは、メディアが提示する表象をどのように解釈し意味を与えるかは人々に任されているという厳然とした事実のことだ。人々のメディア行動とは、メディアからの情報を受動的に受け取るのではなく、メディアによって提示された記号を能動的にデコード/エンコードする過程なのだというのが、今日のメディア文化理論の共通認識だといわれる。たしかにそうなのだ。しかし、そのような人々の行動がメディア文化を享受する豊かな人々の自由で能動的な行為なのか、それとも、追いつめられた少数派の生死を賭けた必死の抵抗なのかについて、わたしたちは注意深くみきわめる必要があるかもしれない。
 デジタル化するメディア技術によってグローバル化する巨大メディアから毎日大量に世界に降り注ぐ情報の間隙をぬって、あるいはその情報に紛れ込んで、困難に直面する「辺境」世界の片隅に生きる先住者や、膨張する世界都市の路地裏で生きる少数派の人々の声がこだましてくる。巨大メディアによって押しつけられたイメージを修正する異議申し立ての声は小さく、多くの場合かき消されてきこえない。しかし、メディアを裏返しに透かしみることによって、わたしたちの想像力はその隠された声を鮮やかに復元し、あるいは再構築することができるに違いないのである。