「裏返しのメディア論」連載2

映画が映画を語るとき
〜ノスタルジーの向こう側に〜

『季刊・民族学』no.102, 2002秋



 「映画だ」と一人の少年がつぶやくのだ。
 台湾の田舎町で野外映画が上映されることになった。夕暮れの広場に白布が張られ、ときおり風に揺れる画面に明々と映像が映し出される。それを見つけた少年がその言葉を発するのである。
 実は、この少年も野外映画もそれ自体が映画の一シーンなのである。そのシーンは、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督の「恋恋風塵」にある。「恋恋風塵」は、幼なじみの男女の失恋の物語を台湾の地方都市の風景の中で描いた侯監督の少年期四部作の一つに数えられる作品である。八七年に公開されると、映画全体を包み込んだノスタルジックな色調が日本でも評判を呼んだ。この野外映画のシーンは、ほとんど台詞がないにもかかわらず強い印象を掻きたてる映像として作品の中に挿入されている。
 映画の中で「人々が映画を観る」情景がどのように描かれているのか。そんな興味をもって気を付けて映画を観ていると、実にたくさんの映画が、映画を観るという人々の行為を描写している。それは映画館という具体的な場所であることがほとんどなのだが、中には、今言ったような野外映画だったり、個人のプライベートシアターだったり、映画会社の試写室だったりする。いずれにせよ、映画の中で上映される映画とそれを観る人々の振る舞いは、往事の映画を取り巻く風俗や文化、時代の雰囲気といったものと密接に結びつき、人々をノスタルジックな思いに駆り立てずにはおかない。
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 たとえば、ジョセッペ・トルナトーレの「ニューシネマパラダイス」(伊・仏/八九年)や山田洋二の「虹をつかむ男」(松竹/九六年)などのように、地方都市の映画館とそれを取り巻く人々の人生模様を題材にした映画がある。「ニューシネマパラダイス」では、イタリア・シチリアの小さな港町にある同名の映画館を舞台に、監督の分身とも言うべき少年が成長していく姿と、それを見守る映写技師との交流がほろ苦く描かれている。この映画の雰囲気に憧れて、ロケ地であるシチリア島のパラッツォアドリアーノという小さな村の広場を訪れる旅行者も少なくないと言う。
 「ニューシネマパラダイス」を意識して製作されたと思われる「虹をつかむ男」も、経営に苦労しながらもひたむきに上映を続ける地方映画館とそこに生きる人々の姿を情感たっぷりに描いている。(ただし、興行的にも、作品のできという点でも、両者には大きな開きがあるといわざるをえないが。)この映画の舞台であるオデオン座のロケ地となったのは、徳島県美馬郡脇町の実在する映画館で、寅さん映画のロケ地と同様に、地元からは町興しへの熱い期待がこの作品に掛けられたようだ。
 映画への思い入れは世界共通らしい。日本からみれば極北のアイスランドでも、フリドリック・トール・フリドリクソンが監督した「ムービーデイズ」(アイスランド=ドイツ=デンマーク/九四年)が、六〇年代のレイキャビクに暮らした映画好きの少年と老人との交流をいくつもの象徴的なエピソードを重ねながら描いている。
 さらにもう一つ加えれば、今年公開されたフランク・ダラボン監督の「マジェスティック」も、「赤狩り」で悪名高いマッカーシズムが吹き荒れる五〇年代のアメリカを舞台にした記憶喪失の映画人が田舎の映画館の再建に取り組むという物語である。
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 これら映画館が舞台の作品以外にも、作品のストーリーとはあまり関係しないものの、きわめて印象的なシーンとして映画の中に映画が挿入されているものも多い。
 たとえば、先述の侯孝賢の「恋恋風塵」がそうだ。映写機やスクリーンを準備する若者たちや揺れるスクリーンに結ぶ光の濃淡が甘酸っぱい感傷を脳裏一杯に広げてくれる。野外映画で上映されるは、台湾映画の父として敬愛される李行(リー・シン)がメガフォンをとった六〇年代の名作『あひるを飼う家』であろうか。
 異色の作品を挙げれば、カヨ・マタノ・ハッタが監督し、工藤夕貴が主演した「ビクチャー・ブライド」(米/九四年)には、ハワイのサトウキビ・プランテーションで働く日本人移民たちがつかの間の娯楽に日本のチャンバラ映画を観るシーンが挿入されている。工藤夕貴が暮らす労働者キャンプに旅の一座が映画を携えて興行にやってくる。一座の弁士役を勤めるのは、晩年の三船敏郎だ。トラックの荷台に仁王立ちした三船のサムライ然とした身のこなしがいい。ハワイの日本人移民たちを慰めるため、日本映画ははるばる太平洋を渡ったのである。
 こういう映画をみていると、私自身の子ども時代、悪ガキたちと連れだって夏休みの一夜、近所の労働者社宅の広場で組合主催の野外映画を観た懐かしい日々が蘇ってくる。埃臭い夏草の上に腰掛けて観たのは、たしかティラノザウルスとステゴザウルスが闘うクレーアニメーションの恐竜映画だった。
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 映画の中で映画をみせる映画は、なぜこうもノスタルジックなのであろうか。一つには、それが映画製作者自身の若い日の経験と分かちがたく結びついているからであろう。さらに、それは私たち自身にとっても、映画が私たちの青春の日々や思い出と深く結びついているからでもある。映画が自らを言及するとき、そこに共通して流れているのは、かつて若かった日々に私たちを魅了した映画のすばらしさと魅力であり、どんな映画も生来善なるものだという神話なのである。
 しかし、である。記憶の中の映画をそのような思い出の宝箱に感傷とともに納めてしまってもよいものだろうか。私たちの観てきた映画は、そのように、清潔で安全で生来善なる存在であったのだろうか。
 ノスタルジックな感情を少し傍らにおいて考えれば、私たちが生きてきた時代の映画には、もっとダイナミックで触れれば切れるような何かがあったはずである。
 二〇世紀の初頭、映画がこの世に送り出されたとき、映画はもっと危険で反体制的な存在だった。そうでなければ、革命ロシアのヴェルトフやエイゼンシュテインなどの俊英がこぞってカメラを手にすることはなかったろうし、映画に対する官憲の呵責ない検閲や弾圧もなかったろう。また、映画は、もっと猥雑で不健全な存在だった。そうでなければ、モラルの番人を自認するキリスト教保守派がハリウッドを目の敵にすることもなかったろう。さらに、映画はもっと性悪で人間の悪意に易々と奉仕する存在だった。そうでなければ、ナチスはけっしてリーフェンシュタールに「美の祭典」「民族の祭典」を撮らせはしなかったろう。
 私たちが生きた時代の映画は、かくも危険で猥雑で性悪だったのである。そのことを私たちは、もう一度胸にしっかりと刻み込んでおかねばならない。しかし、だからこそメディアは魅力的であり、没頭する価値がある。
 「ニューシネマパラダイス」は、神父が映写技師に命じて映画を検閲するシーンから始まる。そして、ラストシーンで、主人公が映写技師から遺品として託されたフィルムを映写室で観る。すると、接吻、抱擁、裸体、乳房・・・。それは検閲された箇所ばかりを延々とつなぎ合わせたフィルムだった。
 映写技師のその心意気やよし。メディアに関わる者の真骨頂をそこにみたい。