太平洋「探検」とメディア



『講座・世界歴史12 遭遇と発見』岩波書店、1999年2月




一 「探検」のまなざしとしてのメディア

1 「探検」のイメージ
 「南洋探検」ということばがわれわれに共通したある種のイメージを抱かせるとすれば、そのこと自体、すでにわれわれ自身が、一八世紀後半のヨーロッパに展開したひとつの歴史的な物語の支配下にあることを暗示しているのかも知れない。
 この時代における博物学に代表される科学主義とイギリス海軍に象徴される覇権主義の二面性を合わせ持った「南洋探検」像は、今日に至るまで、われわれをとらえ続けている。キャプテン・クックの航海における科学的成果を集成して一七七八年にロンドンで出版された『世界周航の間における観察』の出版広告が声高に語るように、「南洋探検」は、「科学に益をなし、かつ、人類の知識をさらに蓄積させる」ような「地球、海洋、大気、動植物、そしてとりわけ人類を包含する自然の探求を目的とする」[文献(1)]壮大な航海をイメージさせるのである。
 クックの航海に象徴されるような「南洋探検」のイメージは、今日でも支配的である。現代のアメリカを代表する批評家であるブアスティンですら、クックは、「報われない発見にとりくむことができる、世界でも例のない偉大な航海者」であると書いている。[文献(2)]
 しかし、クックに代表される一八世紀後半の太平洋探検について、その社会文化史的な意味を批判的に再評価するさまざまな試みが今日なされていることも事実である。たとえば、サーリンズは、クックがハワイ島ケアラケクア湾で遭遇した死に至る事件について歴史人類学的な解釈を行う中で、ポリネシア先住民族の側から見たクック像を描き出そうとしている。[文献(3)]また、デニングは、それら航海者たちの、本国や太平洋先住者たちを意識した探検者然とした演技的振る舞いについて詳細に分析している。[文献(4)]

2 「探検」から「観光」へ
 正確にいえば、一八世紀は、少なくとも太平洋に関してこのような探検が実態として機能した最後の世紀であったといってよい。一六世紀初頭のマゼランの太平洋横断に始まり、それに続くメンダーニャ、一七世紀のタスマン、一八世紀のウォリス、ブーゲンヴィル、そしてクックに至る太平洋への「探検」的接近は、この時代を最後として急速に植民地主義の実利的関心によって置き換えられていったからである。クックの評伝を書いたウィジィによれば、そのような実利主義は、クックの航海においてもすでに顕著な傾向であった。[文献(5)]その後、太平洋への航海は、植民地行政官や貿易商人、宣教師へとその主役を交代するのである。
 一方、これらの「南洋探検」を支えた科学主義の申し子としての博物学精神も、一九世紀に入ると、バーバーの言葉を借りれば、「万人が博物学者」[文献(6)]を自称するような大衆化の時代に突入するようになる。新興ブルジョワジーやその婦人たちの趣味の領域にまで拡散した博物学は、太平洋から植民地行政官や貿易商人、宣教師たちによって持ち帰られた収集品に対する関心をたかめさせ、大英博物館をはじめ多くの博物館が「南洋探検」の成果として、これらの珍奇な品々を展示した。こうして、博物学精神は容易にブルジョワの珍奇趣味へと交代された。この時代より二〇世紀のベル・エポックにおける太平洋観光の登場までは、ほんの数十年の時間的隔たりしかないのである。
 二〇世紀に入ると、太平洋への本格的観光が開始され、観光客が新たな「南洋探検」の主客に躍り出る。観光客は、二〇世紀における太平洋に対する西洋からの視線を代表する一群の人々であったといってよい。
 クックに代表される一八世紀末の探検家たちの業績の科学的意義と偉大さについては、今日でもその評価は揺るぎないものとしても、それらに特権的価値付与を行うことからしばらく身を離して、探検であれ、観光であれ、太平洋への「探検」のまなざしが社会的に組織化されていく過程を検討することが必要であろう。探検も、観光も、それぞれの時代においてともに太平洋世界に注がれる外部からのまなざしとしてきわめて重要な意味を持ったからである。

3 「探検」のまなざし
 「探検」という行為が、社会的に成立する領域を考えてみたい。まず、そこには、探検家であれ、観光客であれ、「探検」のまなざしの主体(観察者・見る側)とそのまなざしの対象として未知なる世界、ここでは太平洋とその先住者(被観察者・見られる側)が存在する。しかし、それだけでは「探検」的行為は完結しない。「探検」が社会的な意味を持つには、その探検によって獲得された情報が記録され、伝達されねばならない。たとえば、クックの航海が行われた一八世紀後半の世界では、伝達の対象(情報の受け手)は、第一義的にヨーロッパの社会であった。探検の主体は、たんに観察者であるにとどまらず、伝達者(情報の送り手)としての機能を果たすことを社会的に求められた。
 このように、探検的行為が社会的行為として存在するには、情報の伝達が重要な意味を持ち、そこに近代の情報技術としてのメディアが深く関わる余地が生じる。実際、メディアの利用は、探検にとって不可欠の要素であった。たとえば、クックの航海が行われた時代の大英帝国の海軍では、航海に際した記録の種類や様式、その報告や保存の方法について厳格な規定が設けられていた。また、科学調査に際しては、カメラのない時代の映像的記録者として特別に訓練を受けた画家を同行させることが常態化していた。実際、クックの航海では科学調査を統括したバンクスが同行したパーキンソンらの画家たちがその役割を果たした。彼らの描いたスケッチをもとに、エングレービングの技術によって銅版画が作成され、クックの『世界航海記』にはそれらの版画が大量に収録されている。また、一九世紀後半以降に行われた探検には、写真家が必ず公式記録を撮影するために参加した。
 太平洋に対するヨーロッパ世界からの「探検」のまなざしは、クックの『世界周航記』と銅版画の時代の後、一九世紀に入ると、多くの植民地経営に関わる実務家や宣教師たちの報告書や世紀末の紀行家たちの紀行文学によって引き継がれた。この時代には、現地から直接持ち帰られた品物を展示する博物館や万国博覧会も重要なメディアとなった。一九世紀後半には、写真がメディアの主要な位置を占めるようになる。さらに、二〇世紀に入ると、とりわけアメリカにおける都市消費社会の成立によって登場した大衆消費者の欲求に応えるべく、「探検」のまなざしは、大量生産によって造りだされた多様なマスメディアとその送り手たちによって受け継がれていった。グラフ雑誌、映画、ラジオ、テレビなどがその主役である。大衆消費者は、ある時には観光客となり、「探検」のまなざしの主体としても重要な役割を演じた。
 「探検」のまなざしは、資本主義とそのヒンターランドの拡大に応じて、太平洋を舞台に急速にその規模と多様性を増大させた。それは、探検家から実務家へ、さらに観光客へという主体の変化を一つの変数とし、また、急速に発達する近代メディアをもう一つの変数としながら、変化を遂げていったといってよいだろう。ここでメディアの力は重要である。結論的にいえば、メディアの制度的技術的制約と産業的要求が、探検的まなざしを支配するようになったからである。

二 一八世紀の太平洋探検と印刷メディア

1 出版物としての『世界周航記』
 クックの航海については、すでに多くの研究が行われている。ここでは、それらの研究を下敷きにして、『世界周航記』のメディアとしての性格に着目したい。
 先述のウィジィの評伝によれば、クックが最初に自らの航海の成果について発表したのは、帰路のバタヴィアから海軍省の本部とロイヤル・ソサエティあてに送った科学的報告書であった。これをもとに帰国後、クックはさらに詳細だが地味な報告をロイヤル・ソサエティ発行の『フィロソフィカル・トランザクション (Phylosophical Transaction)』という雑誌に発表している。
 一方、著名な『世界周航記』は、これとはまったく異なった次元の出版であった。当時の海軍の手続きでは、航海終了後、艦長は自らの航海日誌を含め乗組員全員の日誌を集め、公式のシップ・ログとともに、海軍省本部に提出することになっていた。海軍省は、これらの資料を当時ロンドンの文壇で名をあげつつあったジョン・ホークスワースにあずけ、公式の航海記録の執筆を依頼する。海軍省が出版を急いだ理由は、同時期、太平洋に進出していたフランスに先だって「発見」の事実を公表することにあったといわれる。
 この出版には、当時のイギリスにおける出版産業の動向が深く関わっていた。近代出版の黎明期にあった一八世紀後半のイギリスの出版業界は、拡大の時代を迎えていた。書籍出版は、一八世紀後半には市場を全国化し順調にその規模を拡大させていた。書籍価格の低下もあって、小説などの娯楽目的の出版物が広く市場に出回るようになり、著作権法も一七一〇年に制定され、著作者の権利は広く保護された。職業としての売文業がこの時期に成立し、出版業者によってその版権が売買された。印刷技術の向上に伴い、書籍の出版部数も一回に一〇〇〇冊を超えるものが現れるようになった。[文献(7)]その結果、イニスによれば、「大勢の三文文士たちが、ペンの奴隷となり、鋏と糊を使って航海記や旅行記、歴ものや博物誌を作成」[文献(8)]するようになった。もちろん、これらの書籍の主要な購買層が都市の富裕階層であったことはいうまでもないが、書籍が一般大衆に普及する素地が固まりつつあったのである。クックの航海は、このようなロンドンの出版業界にとって有力な素材を提供するものとなった。
 出版を請け負ったのはロンドンの出版業者であった。ビーグルホールによれば、六〇七五ポンドの原稿料がホークスワースに支払われ、この額は、航海に際して支払われたクックの報酬と匹敵したという。[文献(9)]著作権者としてのホークスワースの利権が、航海をした当事者のクックをも凌ぐものであったことはなんら驚くに足らない。そして、その内容は、アリステア・マクリーンの言葉を借りれば、ほとんど「パロディー」といってよいものであった。[文献(10)]
 しかし、他方、『世界周航記』の脅威的な普及は、ホークスワースが当時のイギリス読者層の好奇心に応え脚色したことによってもたらされた。商品としての『世界周航記』が、クックが報告する価値があると自ら信じたことではなく、読者がクックに対して何を報告してほしいかに深く関わっていたのは当然であった。

2 図像の中の先住民族−楽園人から野蛮人へ
 メディアとしての『世界周航記』が、読者に広く受け入れられたもう一つの要因は、それに精巧な図版が大量に折り込まれていたことである。これらの大量の図版は、クックたちが航海の途中に遭遇した未知の植物、動物、民族などを精緻なエングレービング印刷によって再現するものであった。図版のもとになるスケッチは、クックの航海の主催者であったバンクスが同行したシドニー・パーキンソンら二名の画家が描いたものであった。[文献(11)]『世界周航記』に収録された図版は、これらのスケッチの一部を収録したものに過ぎなかったが、しかし、それでも、ヨーロッパの読者に強烈な印象を与えた。
 写真という記録手法がなかった当時、訓練された画家によるスケッチは、映像を記録し伝達するためのほとんど唯一の手段であった。しかし、ここで、留意しなければならないことは、パーキンソンらのスケッチが『世界周航記』の挿し絵として印刷されるまでの過程で変容が加えられたことである。『世界周航記』に収録されているエングレービングの図版は、非常に写実的で刻銘なものである。しかし、実際、パーキンソンが記録したスケッチは、あいまいなデッサンの上に印刷の際の色指定が施されたきわめてラフなものであった。描く必要のある対象は膨大であり、丁寧にすべてのスケッチを仕上げる時間的余裕はなかったのである。エングレービング印刷では、画家のスケッチを参考にしながら何人もの彫版師が直接銅版を彫る。そのため誤って正像を彫版し、植物のつるの巻きが逆になることもあった。
 さらに、パーキンソンを含めバンクスが同行した画家たち帰路全員が病死してしまったため、人物の微妙な輪郭やスケッチの細部について直接確認をとることができなかった彫版師たちは、想像で補いながら図版を作成せざるを得なかった。したがって、『世界周航記』の図版には、当時のヨーロッパの人々が「太平洋」に抱いていたさまざまなイメージや期待が混入した。エングレービングの特徴である克明な線刻は、それらのイメージに明確な形象を与える役割を果たしたのである。
 B・スミスは、この時期のヨーロッパから見た太平洋イメージについて詳細な検討を行っている。[文献(12)]スミスによれば、王立アカデミーの設立の趣旨に盛り込まれた新古典主義的な自然観が、クックを太平洋に送り出す企図の背後に色濃く漂っていたという。ソサエティー諸島の発見に際して、まるでギリシャ神話の神々のような島民の存在が報告され、それが熱帯におけるアルカディアの存在を期待する新古典主義に追い風となった。もちろん、その後の実証的な調査がそれらの熱を急速に冷やしはしたものの、自然を、環境、動植物、人間の完全な調和の内に想定する新古典主義の自然観は、とりわけ探検に随行した多くの記録画家たちの仕事に強い影響を与えた。たとえば、風景画を描く際は、それが完成された自然環境の一つの典型を象徴するように動植物や気象にまで配慮し、その絵に含めるべき構成要素を吟味することが求められた。
 クックの『世界周航記』に掲載された挿し絵にも、その影響が顕著に見られる。たとえば、当時フレンドリー・アイランドと名付けられたトンガに上陸する探検隊を迎える島民たちは、まるでギリシア神話の神々のような表情に描き出された。(図1)
 しかし、太平洋に対する自然科学的な接近についてみれば、このような自然観は一九世紀に入ると、ダーウィンの進化論に取って替わられた。その結果、太平洋は進化論的自然観の検証の場として注目を浴びるようになる。一方、すでに明らかなように進化論的な自然観は、スペンサーらの社会進化論へと展開されていくが、この社会進化論的な認識は、太平洋の先住民族に対するヨーロッパからのまなざしにも強く投影された。太平洋の先住民族は、進化の段階で劣る野蛮で下等な民族とみなされるようになった。これに加えて、探検の時代に続いて本格的に展開されるようになったロンドン伝導協会による太平洋宣教は、食人や生け贄、人狩りの風習を異教徒の野蛮とみなし、太平洋の先住民族に対する社会進化論的な見方を(もちろん、彼ら自身は進化論を受け入れることはなかったが)結果的に強化させた。[文献(13)]
 ラヴジョイとヴォアスは、一九三五年に発表したプリミティヴィズムに関する著名な論文の中で、太平洋先住民族に対するヨーロッパ人の見方には、ソフト・プリミティヴィズムとハード・プリミティヴィズムの二つが存在したことを指摘している。[文献(14)]つまり、新古典主義の自然観を投影し先住民族を「楽園」の住人に例える前者(たとえば、ソサエティ諸島の人々に対する見方)と、進化論の立場に立って先住者を野蛮師する後者(たとえば、マオリ人やオーストラリア・アボリジニーに対する見方)である。そして、この二つのイメージは、結局、太平洋の先住民族に対するイメージの基底を形成し、それ以降の訪問者たちに連綿と引き継がれることになるのである。

三 一九世紀の太平洋へのまなざし−博物館、博覧会、紀行写真

1 キリスト教伝導と博物館
 一九世紀の太平洋世界に対する「探検」のまなざしは、もっぱら植民地主義と深い関連のもとにあった。覇権を握ったのはイギリスであった。その優位は、マオリ人との長い戦争の末、一八四〇年のワイタンギ条約締結によってアオテアロアが英領ニュージーランドとなり、一八五〇年にオーストラリア植民地政府が成立することによって確立された。もちろん、欧米の列強はそれぞれ太平洋世界の分割に加わった。フランスは、タヒチ、ニューカレドニア、ニューヘブリデス(現ヴァヌアツ)にその勢力圏を確保し、遅れて参入したアメリカは、一八九九年にハワイと東サモアを領有した。ドイツも第一次世界大戦まではミクロネシアと北ニューギニアを領有した。
 植民地支配の進展に伴って、植民者、行政官、貿易商人、宣教師などが、この時代の「探検」のまなざしの主体を担った。なかでも、宣教師たちの活動は眼を見張った。太平洋の各地へと送り込まれた宣教師たちから大量の情報がロンドン伝導協会へと送られてきた。協会は、これらの情報の中から宣教師たちが経験した冒険談を集めて出版したり、また、宣教師たちが描いたスケッチを集めて『ミッショナリー・スケッチズ』と呼ばれる絵入り新聞も発行した。これらのメディアは、もっぱら先住民族の野蛮な信仰とその偶像を紹介すると同時に、キリスト教への改宗の成果を華々しく謳った。さらに、伝導協会は、その収集品を展示するため、ロンドン伝導博物館も設立した。[文献(15)]
 博物館は、これら植民地関係者が現地から持ち帰った品物を展示する効果的なメディアだった。大英博物館が設立されたのは一七五三年であったが、クックの航海の後の一七七八年に、その航海の成果を展示するため、「南海の間」が開設された。
 一九世紀にはいると、民族学が博物館の重要なテーマとなってくる。一八四五年には、大英博物館内に民族誌ギャラリーが開設された。この時期、民族学をテーマとした博物館を開設したのはイギリスだけではない。一八六二年にはオランダのライデン民族学博物館、一八六八年には、ドイツのミュンヘン民族学博物館、一八七八年にはフランスのパリ・トロカデロ民族学博物館、がそれぞれ開館した。太平洋でも、イギリスの太平洋支配の橋頭堡であったオーストラリアのシドニーに博物館が開設された。[文献(16)]大英博物館の太平洋関連展示について系統的な調査を行った林勲男の研究によると、大英博物館の民族誌ギャラリーでは展示品は大陸ごとに大まかに区分された。[文献(17)]太平洋関係の展示品の中心は、植民地行政官や宣教師らからの寄贈品であったが、そのラベルには必ず収集者名が記され、寄贈者のロイアリティへの配慮が示された。また、展示技法は、ヨーロッパ貴族たちの道楽だった「珍品陳列室」の伝統を踏襲していた。[文献(18)](図2)
 一八五九年にダーウィンの『種の起源』が出版され、一九世紀後半には、進化論的な認識が定着を見せるようになると博物館における展示品の分類や展示にもそれが反映されるようになった。博物館に展示された太平洋先住民族のさまざまな物品は、ヨーロッパの人々に自らの文明の優位を「科学」的に確認させる体験型のメディアとして機能したのである。
 万国博覧会も、進化論的な文明観を普及させるメディアとして重要な意味をもった。博覧会では、人間展示と称するイベントも催され、たとえば、一八八九年のパリ万博では、ニューカレドニアとハワイから連れてこられた島民たちを人間展示した。[文献(19)]ヨーロッパの工業製品と太平洋の先住民族を同じ空間に並置させることで、太平洋は、ヨーロッパの進歩を計る尺度として利用された。

2 紀行写真の中の太平洋
 一方、これら植民地から送られてくる写真は、太平洋についての情報源としてきわめて重要な役割を担うようになる。
 一八三九年にフランス・アカデミーにおいて初めて発表されたダゲレオタイプと呼ばれる写真は、一九世紀後半には、植民地の拡大を反映して、エキゾチシズムを売り物にする旅行写真家という職業を成立させる。たとえば、作家のマキシム・デュ=カンは一八四九年に清書物語の舞台であるエジプト、パレスチナを訪問し、撮影した数多くの遺跡の写真をパリに持ち帰り、『エジプト・ヌピア・パレスティナとシリア』をフランスの出版業者から出版し好評を博した。デュ=カン以外にも、ジョン・B・グリーン、フェリックス・ティナール、フランシス・フリスなどのオリエント趣味の紀行写真、また、サミュエル・ボーンのインド紀行写真やジャポニスムの影響が色濃いアーノルド・ゲンゼの日本紀行写真など、紀行写真は急速に一般化した。[文献(20)]
 これらの紀行写真家たちはロマン主義的な傾向を強く示し、近代化によって衰退の危機にあった過去の遺跡や伝統的習俗の記録を精力的に行ったが、そのような傾向は、他方で、歴史・遺跡観光(ヘリテージ・ツーリズム)と容易に結合するものだった。一九世紀末には、写真技術の急速な発達もあって、ステレオ写真やカルテ・ド・ヴィジットなどの観光写真の大量販売と消費が行われるようになる。このような観光写真は、一九世紀末のヨーロッパにおけるアールヌーボーの隆盛に伴う絵はがきの流行と相まって、いっそう活発に製作販売されるようになっていった。
 太平洋においても、すでにヨーロッパの影響を著しく受けていたハワイやオーストラリアなどの地域で写真は急速に普及した。ハワイでは、一八四五年にすでにダゲレオ・タイプによる人物撮影の広告が新聞に掲載されたといわれる。[文献(21)]また、別の記録では、一八四六年一二月二三日に、フランス人セノール・ルブリュがハワイにダゲレオ・タイプを持ち込んだとされている。[文献(22)]その後、クリスチャン・ヒードマン、レイ・J・ベイカーなど多くの写真家がハワイで職業写真家として活動した。彼らの被写体は、当初は、宣教師やハワイ王家の家族などの肖像写真が主だったが、その後、観光写真の撮影が彼らの活動の重要な部分を占めるようになっていった。自然や風景、先住民族の風俗を熱かったこれら観光写真は、アメリカ本土やヨーロッパ向けに販売された。
 一方、一九世紀に入って行われたメラネシアへの探検には、記録手段として写真が活用された。ジョン・W・リンドは、一八八五年に行われたP・スクラッチレィのニューギニア探検の公式写真家として参加し、多くの記録写真を撮影した。[文献(23)]しかし、これらの探検の記録の中に登場するメラネシア人たちも、やがて観光写真の主題として登場するようになる。
 忘れてはならないのは、この時期、すでに、ポリネシアを筆頭として多くの太平洋島嶼地域はキリスト教による「改宗」が完了していたという事実である。観光写真に登場する「未開」の先住民族の大半は、すでにキリスト教徒であった。しかし、彼らは観光写真の中においては、「異教徒」として演技することを求められた。ポリネシアについては、女性が観光写真の主たる被写体となった。たとえば、ハワイではハワイ人女性が上半身裸体でフラのポーズをとる写真がアメリカ人男性向けに販売された。[文献(24)]また、オーストラリアやメラネシアについては、オーストラリア・アボリジニーやニューギニアのメラネシア人たちが野蛮な「未開」民族のモデルとして被写体になった。前者がソフト・プリミティヴィズムと「楽園幻想」を視覚化するものなら、後者は食人や人狩りなどのハード・プリミティヴィズムの視覚的イメージを代表した。
 技術的には野外撮影にそれほどの困難はなかったはずなのに、多くの写真がスタジオで撮影された。スタジオでは、かきわりの背景の前に鉢植えの熱帯植物が配置され、ヨーロッパ人の「楽園幻想」を再現するように創作された衣装を身につけた先住民のモデルが撮影されたのである。ハワイやタヒチ、クック諸島のポリネシア女性が、性的に挑発的なポーズをとった写真は、これらのスタジオ写真の一つの典型を示すものであった。[文献(25)]

四 二〇世紀の太平洋へのまなざし−観光と映画

1 民族誌映画からハリウッドへ
 二〇世紀前半において太平洋の楽園イメージを拡散させ、人々を観光へと誘うための最大のメディアは、映画だといっても過言ではなかろう。「探検」のまなざしは映画と不可分の関係にあったといってよい。辺境の自然や民族を映像に留めようという試みは、映画のもつ可能性への挑戦でもあった。たとえば、アイルランド出身のロバート・フラハティは、カナダのハドソン湾で過酷な自然条件の中で一五カ月にわたって極北の先住民と生活をともにし、その生活誌を映像化した「ナヌーク」(一九二二年)を製作し、映画の世界に民族誌ドキュメンタリーという新たな分野を開拓した。このような試みこそ、映画における「探検」のまなざしの本質とでもいえるものであった。厳しい自然とそこで生活する人々の生活がこれら民族誌ドキュメンタリー映画の主題であった。
 しかし、それはともすれば、先住民族の珍奇な風習や自然の驚異をことさら強調する演出となって現れた。「ナヌーク」の成功の後、フラハティはパラマウントの資金を得て、太平洋の先住民を主題にした記録映画「モアナ」の製作をマルケサス諸島で行ったが、その中で、巨大イカの襲来を演出したり、人々に西洋との接触以前の衣装を着用するよう求めた。「モアナ」は興業的には成功しなかったが、パラマウントは、「モアナ」で撮影したフィルムを使って、ラブロマンス映画「南海の白影」(一九二八年)を製作させた。[文献(26)]白人の近代文明によって衰退していく先住民の生活や風俗を描くこの映画は、ヨーロッパで最初に公開され成功を収めた。ロマン主義的なノスタルジーがこれらの映画に共通するトーンであった。
 宣教師たちが撲滅の対象としたプリミティビズムを映像によって再現することが、これら映画人の最大の目標だったといってよい。アメリカやヨーロッパの観客たちは、映画の中に再現された「野生」を追体験することで、かつて探検家や宣教師たちが「探検」したように、彼らも「探検」への欲求を充足させたのである。そして、太平洋への観光が彼らにとっての「探検」だった。
 太平洋の自然と先住民族に対してハリウッドが寄せる関心は、アメリカによるハワイ併合と観光開発政策によって加速される。一九世紀末から二〇世紀前半にかけて、太平洋への観光は急速にその地域と規模を広げた。ハワイでは、一九〇三年に観光誘致を専門に行うプロモーション・コミッティが設置され、つづいて、ホノルル港の改修、ワイキキの整備、西海岸への大型客船の就航など急速に観光地としての性格を強めた。[文献(27)]また、イギリスが総督府を置いたフィジーでも一九一四年にグランド・パシフィック・ホテルが開業する[文献(28)]など、積極的な観光客の誘致が開始されたのである。

2 ミュージカル映画の中の太平洋
 観光開発を進める地元政府にとって、映画は重要な宣伝媒体であった。アメリカ本土だけでなく、「太平洋の楽園」のイメージを全世界に広める上でハリウッド製の映画の果たした役割はきわめて大きなものだった。
 ハリウッド映画は、一九二〇年代に入るまでに海外市場での覇権を確立していた。G・サドゥールによれば、第一次大戦後の一〇年間にアメリカ映画の世界の映画市場における占有率は六〇パーセント、極端な場合は九〇パーセントにも達したといわれる。[文献(29)]映画産業に投入される資本は、自動車や鉄鋼などに匹敵した。このような巨大な映画産業が、太平洋の楽園を映像化された商品として世界に販売を開始したのである。
 記録に残るハワイを題材に選んだ最古のハリウッド製映画は、一九一三年にユニバーサルが製作した「ザ・シャーク・ゴッド」と「ハワイアン・ラブ」である。これらに続いて、一九一五年には「アロハオエ」が製作された。「アロハオエ」は、エキゾチックなダンサーたちが踊るフラを紹介するものだった。ハワイ映画は、その後も増え続け、一九二〇年代ではシュミットの調査では一九本にも及んだ。[文献(30)]
 二〇年代に普及を始めたトーキーの技法がハワイ映画に本格的に使用されるようになったのは、三〇年代に入ってからである。トーキーの使用によって、フラの映像に音楽が加えられるようになった。ハワイ先住民たちの踊りや音楽はハリウッド映画にとって恰好の題材を提供したのである。
 一九三〇年代に入ると、この傾向はいっそう進み、音楽と踊りをふんだんに取り入れたミュージカル映画が次々と製作公開されていった。[文献(31)]美人女優のジャネット・マクドナルド主演の「レッツ・ゴー・ネイティブ」(一九三〇年)、アメリカ人実業家とハワイ人娘の恋を描いた「アロハ」(一九三一年)、キング・ヴィダー監督の「バード・オブ・パラダイス」(一九三二年)、白人農場主とハワイ人女性の恋を描く「ホワイト・ヒート」(一九三四年)、ビング・クロスビー主演の「ワイキキ・ウエディング」(一九三七年)、エレノア・パウエルが踊って歌う「ホノルル」(一九三九年)、ホテルのダンスバンドを題材にした「ハワイアン・ナイツ」(一九三九年)など、数多くのハワイを題材にしたミュージカル映画が製作された。ハワイ以外の太平洋が舞台の映画も製作された。たとえば、フラハティの「タブー」(一九三一年)、ジョン・フォードの「ハリケーン」(一九三七年)などがそうである。
 しかし、それらの映画のシーンの多くは、ロサンジェルスのスタジオやカリフォルニアの海岸で撮影された。実際に、太平洋でロケされることもあったが、それは一部のシーンだったし、また、そのようなシーンの多くもアメリカ領下にあったハワイで撮影されることが多かった。太平洋戦争が始まると、渡航制限もあって、ロサンジェルス製の南洋映画の数はさらに増えた。ハリウッドの南洋映画を分析したルイス・レイズの研究によれば、一九四五までに撮影されたハリウッド製の南洋映画二九本中、現地撮影をまったくされなかった映画が八本、一部でもハワイで撮影された南洋映画が一五本、実際の太平洋諸島で撮影された映画が六本となっている。[文献(32)]
 スタジオ内に仮設されたセットとしてのポリネシアの村での物語が、擬似イベントとして、アメリカの大衆にとっての太平洋体験の原型となったといえるだろう。その結果、映画セットのポリネシアの村にみられる空間構成は、戦後、実際のハワイに大量に建設されたリゾートホテルの空間構成に見事に投影された。
 一方、これらの映画が提供する「楽園」ハワイは、経済恐慌下の一九三〇年代のアメリカの一般大衆にとって、現実逃避的な役割を担うものであったかもしれない。というのも、これらのハワイ映画の中に登場してフラを披露する女優たちに共通したのは、いうまでもなく性的な訴求力であったからである。一九二六年の「フラ」に主演してストリップ・ショーまがいのフラを披露したクララ・ボウは、「フラ」を撮った翌年の二七年に「イット」でハリウッド製のセックス・シンボルとして脚光を浴びるようになった。[文献(33)]また、一九三〇年のレオ・マッケンリー監督のコメディー「レッツ・ゴー・ネイティブ」で主演したジャネット・マクドナルドも、フィラデルフィア生まれのブロンドのミュージカル女優だった。[文献(34)]「ホノルル」(一九三九年)では、主演女優であるエレノア・パウエルは、ビキニとセロファンの腰蓑という衣装で、背後からライトを浴びる中、激しく身体をスピンさせて下着まで露出させた。
 この時期のハリウッド映画は暗示的性表現を数多く使用した。たとえば、セロハンの腰蓑をつけさせたフラの踊り手たちのバックから照明を当て、下半身をシルエットで透かし見せるといった技法が使用された。このような暗示的性表現が行われたのは、キリスト教保守派団体からの攻撃をかわすためアメリカ映画製作者配給者協会(MPPDA)が一九三〇年に文書化した自主規制をクリアするためである。この規制によって肉体の露出は大幅に規制を受けたが、そのような規制をかいくぐるため、さまざまな間接的表現のテクニックが開発されることになったのである。[文献(35)]
 ハワイを題材とする映画は、ハリウッドの映画人にとって「もともと裸の未開人をありのまま撮る」という言い訳けが可能な都合のよい題材であった。また、フラとハワイアン音楽という組み合わせは、ミュージカル映画にとって最適の組み合わせでもあった。官能的で挑発的なフラ・ガールというステレオタイプは、このようにしてロサンジェルスのハリウッド・スタジオの中で生まれたといってよかった。

五 擬似環境としての太平洋−メディア観光産業複合体の形成

 太平洋の各地で観光化が進展するに従って、ヨーロッパやアメリカで流行するデザインや音楽が、ホテルやショービジネスなどの観光産業で大量に使用されるようになった。
 たとえば、一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて欧米で流行したアールヌーボー様式は、たとえば、ハワイなどでは、観光局の宣伝ポスターやホテルのステーショナリー・デザイン、客船のメニュー、土産絵はがきなどの商業デザインに使用され、アールヌーボー特有の女性像の流用がみられた。アール・ヌーボー風の女性画は、ハワイではフラ・ガールか、あるいは、リゾートにやってきた金持ちの白人女性を題材として描かれることが多かった。[文献(36)]すでに知られているように、絵はがきの流行はアールヌーボーによってもたらされたものといってよい。ファネッリとゴードリは、アールヌーボーの絵はがきを詳細に分析し、好んで描かれた女性画に共通する女性像を指摘している。[文献(37)]それによれば、その女性像は近代性と官能性という両義性に特徴づけられており、たとえば、スポーツをしたり、喫煙をしたりする新しい女性のイメージが提示される一方、それはエロティックな意味を同時に与えられ、喫煙がオーラル・セックスを暗示し、スポーツの際の身体に密着した衣服を描くことで裸体を想像させることができるものであった。
 ハワイ観光の商業デザインに描かれたフラ・ガールたちに共通するのは、もっぱら官能的イメージであったが、白人女性をテーマにしたものもあった。たとえば、ある写真雑誌の表紙には、先住民の男性を伴ってカヌーを漕ぎ出す大胆で積極的な白人女性のイメージが描かれている。(図3)フラ・ガールが白人男性にとってエロティシズムの対象であるなら、他方、野性的な先住民男性のイメージは、白人女性にとってのそれであるといえた。このような野性的な先住民イメージは、ハード・プリミティヴィズムの一変形と言ってもよいだろう。いずれにせよ、太平洋のイメージは、すでにヨーロッパやアメリカの観光につらなるビジネス自身によって生産され、消費される循環が成立したのである。
 それは、たとえば、ハワイアン音楽についてもいえる。アメリカ本土の音楽産業の支配の下で、本土の流行に従って、本土の作曲家によって「ハワイアン」音楽が量産されるシステムが二〇世紀前半に完成したのである。[文献(38)]ここに至って、観光客にとっての「探検」とは、メディアと観光産業によって生産されたイメージを確認するための一連の手続きと化したといってよい。このような状況は、近代のメディアが作り上げた擬似環境が、メディアの発達によってあたかも本来の環境のように人々に対して作用し始める状況、つまり、リップマンが現代メディアの基本的な特性として指摘した「擬似環境の環境化」という状況が出現したことを意味している。[文献(39)]
 メディアと観光は、このように二〇世紀における人々の「探検」のまなざしを支配するようになった。ここで、メディアと観光の資本主義的な複合をメディア観光産業複合体とかりに呼ぶことにしたい。[文献(40)]今日、「観光立国」をめざす多くの地域は、いわゆる工業化に遅れをとる地域であり、今後、これらの地域の発展を考える場合、メディア観光産業複合体の存在は、けっして無視できない重要な要素となることはまちがいない。その意味でも、このメディア観光産業複合体が形成された二〇世紀後半をあらためて振り返ってみる意義は大きいのである。

参考文献
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