マルチメディア教育事始め〜メディア工房の経験と教訓〜
『視聴覚教育』99.6

山中速人


第一回 マルチメディアのちから

魔法のパワー
 世の中には、そのことばを聞いただけで心がときめいたり、背筋が凛と伸びたりするような一種の魅力を持ったことばがあります。たとえば、「民主主義」や「人権」、「民族」などのようなことばがそうです。これらのことばは、特定の事柄を示す概念であるだけでなく、情念や熱情、愛着などを呼び覚ますパワーを秘めています。これから話題の中心になる「マルチメディア」も、そのような魅力、いやときめきと言ってもよいパワーを持っているのではないでしょうか。
 マルチメディアのパワーの源泉を考えてみましょう。まず、従来のメディア表現やその技法を根本的に変えそうな予感があります。それも、コンピュータというこれもすさまじいパワーを秘めた機械を駆使することによって実現されるまったく新しい表現の世界です。文字情報と映像情報と音声情報がコンピュータとそのネットワーク通信技術の上で融合し、渾然一体となってすばらしい表現世界を展開します。
 しかし、冷静に視聴覚教育の歴史を振り返れば、マルチメディアという概念は、そんなに新しいものではないのです。一例をあげれば、開発途上国の子どもたちの識字教育のために、教科書と紙芝居、あるいは文字の遊び歌のレコードを組み合わせようといった試みに対して、マルチメディア教育といった概念を当ててきました。今では、メディアミクスと呼ばれるこれらの手法は、ほんとうに多くの手法が提案され、実際に試みられてきたのです。ですから、この雑誌の以前からの読者の方々には、むしろ、マルチメディアといえば、このようなかつての試みを思い出される方も多いのではないでしょうか。
 しかし、今日、われわれが話題にするマルチメディアは、それとはほとんど別物であるといってよいほど異なります。それは、発展するデジタル技術という強力な前提条件の上に、文字や映像、音声など、これまで異なった媒体によって別個に提供されてきた情報をひとつの統合した媒体の上に表現しようという無限の可能性をかいま見せてくれるものだからです。
 しかし、マルチメディアのパワーは、社会的な文脈をみると、やや一人歩きしているように思われます。さきほど取り上げた「民主主義」や「人権」といった概念と同様、「マルチメディア」も、あまりに魅力的過ぎて、そのことばを聞いたとたん思考停止に陥ったり、とにかくお題目のように唱えていれば安心といった事態に立ち至ったりしている場合が多いのではないでしょうか。
 この連載は、教育の場でマルチメディアを実際に活用しようと考えている人々に役立つアイデアや技法を提供することにあるのですが、今回は、初回にあたって、これから否が応でもつきあうことになる「マルチメディア」のパワーについて考えておきたいと思います。何事でもそうですが、新しい技術や業を習得する際には、「はまり込む」ことが必要なのと同時に、ちょっと「離して見る」ことも必要なのですから。
 さて、大学などで実際に学生諸君を相手にマルチメディアについて語ったり議論したりしていると、面白い現象に気がつきます。
 私のゼミでは、地域のイメージについてフィールド調査を行い、卒業研究としてまとめるのを目標にしています。卒業研究では、それを論文の形で発表することも、CD-ROMなどの媒体を使ったマルチメディア形式の作品(卒業制作)に仕上げることも認められています。したがって、私のゼミに入ってくる学生諸君は、私からこんな質問をされることになります。
「あなたの卒業研究の最終成果物はどのような形態になりますか」
 ここで、多くの学生がマルチメディアを選択します。ゼミ学生の総数は一五名程度なのですが、毎年、大半の学生がマルチメディアの制作を希望するのです。論文を選択する学生は、きわめて少数です。もちろん、実際にマルチメディア作品を制作することは、大変な労力を要しますから、これらの学生のかなりの部分が途中で挫折します。昨年でも実際に卒業制作として曲がりなりにもマルチメディア作品と呼べるものを提出した学生は、三人に過ぎませんでした。しかし、希望を募る段階では、ほとんどの学生がマルチメディア作品の制作を希望するのです。
 どうしてこんなにマルチメディアは学生たちを引きつけるのでしょうか。
 消極的な理由をあげれば、そのひとつは、文字に対する忌避感です。私のところでは、卒業論文は二万字(原稿用紙五〇枚)の論述が要求されます。これが大変なのです。学生たちの普段の生活自体が文字文化からすでにかなり離れたところにありますから、二万字の論述というのは、学生たちにとってほとんどエベレスト登頂と同じ意味を持つのでしょう。
 そんなとき、マルチメディアの制作は簡単に見えるのです。彼らにとって映像や音楽は、日常の世界です。テレビを子守歌代わりに育ち、ウオークマンなしでは表を歩けない世代ですからマルチメディア作品なら簡単に作れるんじゃないかと思うのでしょう。
 ただ、実際に作業を始めてみると、鑑賞するのと制作するのとでは随分勝手が違うということが分かってきます。しかし、それでも、まだまだマルチメディアは熱く支持され続けます。「同じ苦労するならマルチメディア作品を作ってみたい」というのです。文字を二万字書く辛さには耐えられないが、マルチメディア作品を制作する苦労なら我慢できそうだというのです。

拡張する自己効力感
 マルチメディアが選択される理由は、たんに消極的に文字が嫌いだというだけではないようです。本来、マルチメディアという以上、そこには当然文字も含まれるわけで、文字がいやだからマルチメディアというのは不思議な議論です。私のゼミの場合では、作品制作に取りかかる前に実質二万字程度のコンテンツの提出を課しており、卒論を書くのと同様、いや、それ以上のハードルがあります。それでも、マルチメディアが選択されるのです。
 従来、表現としてのメディアの選択は、まずはじめに自分の表現したい内容(コンテンツ)があり、次にそれを表現する手段として媒体(メディア)を選択するものだという建前が主張されてきました。しかし、学生たちの行動をみるにつけ、内容とは無関係にマルチメディアを作りたいという現象がなぜ見られるのか考えざるを得なくなりました。表現内容の特性に基づいて表現メディアの選択を機能主義的に行おうとする従来の教育メディア論の発想では、この現象を説明することはできないからです。
 現代メディア論の草分け的存在であるM・マクルーハンが「メディアはメッセージだ」といった状況に類似した現実が、ここにはあります。学生たちにとって、とにかくマルチメディアでなければならないのです。彼らは、コンテンツそれ自体より、たとえばCD−ROMといった光り輝く虹色のディスクに封じ込められた何物かにこよなく魅力を感じているのかもしれません。現代の若者にとっては、それを自ら制作し、その操作能力を所有することが現代社会におけるもっとも確かな自己拡張の手段であるとみなされるのです。
 近年、教育心理学の分野で、子どもの学習行動を強化する要因として、以前からいわれている「動機づけ」に代わって「自己効力感」(self-efficacy)という概念が注目されるようになりました。「自己効力感」とは、自分が何かをするに値する有効な力を持っているという感覚といってよいでしょう。この議論を受け入れるなら、新しいメディアを支配できる力こそ、学生たちの「自己効力感」の源泉なのかもしれません。
 この傾向は、若者や学生だけにとどまりません。たとえば、教育する側についても当てはまるのではないでしょうか。新しいメディア機器の利用に積極的な教師はどこかまぶしく見えます。同じコンテンツなら、メディアが新しい方が有利なのです。実際、こんな現象も起こっています。一例をあげれば、私の友人の勤めている四国のある大学では複数開講されている同一タイトルの科目で、一方の科目はシラバスでビデオ利用を掲げ、他方は従来の教室授業だったのですが、なんと受講登録に一〇倍以上の開きがでたそうです。もちろん、ビデオ利用を掲げた方が一〇倍登録数が多かったのです。私の大学でも同じ様な事態を経験しています。
 もちろん、ビデオなどの映像で講義をした方が面白そうだし、聴いていて飽きが来なかろうと思います。でも、面白いとか、飽きないといった理由だけで映像教材がもてはやされているのではありません。映像に限らず教育にメディアを利用することを強力に支持するある種の社会的圧力が存在していると考えるべきでしょう。そこには、教育におけるメディア利用について批判を許さない何ものかがあるのです。
 考えてみれば、視聴覚機器などのメディアの重視は、近代教育において一貫して主張されてきたテーゼでした。新しいメディアが登場すると、国民教育の主体である近代国家は、その利用に常に積極的でした。たとえば写真、映画、ラジオ、テレビ、テープレコーダ、ビデオと近代メディアの発達は、その教育利用の歴史でもあります。近代科学の申し子である視聴覚メディアは、近代啓蒙主義といつも蜜月の関係にありました。
 このように、教育におけるメディア利用を絶対善とする構造は、それを使いこなしうる人々にある種の権力を与えます。フランスの社会思想家であるM・フーコーは、あらゆる人々が信じて疑がわないような原理の中に潜んでいるものこそ真の権力であるというようなことを述べていますが、この議論を借りるなら、メディアこそパワーの源泉であるといってよいのでしょう。
 マルチメディアに学生だけでなく、教員までが吸い寄せられるのは、こうしたことも原因のひとつなのでしょう。
 
メディア・リテラシーのパラドックス
 さて、ゼミの学生諸君を最初の授業の日に学内にあるメディア工房につれていき、上級生が制作したマルチメディア作品を見せたりすると、俄然やる気がでてきます。学生たちのなかには、自分の作品をCD-ROMに焼き込んで就職面接にもっていけば絶対注目されるなどということを考えている者もいます。メディアの操作能力を身につけることが、就職や昇進などで有利に働くと考えているのです。
 (ところで、このメディア工房というのは、マルチメディア制作のために機器が完備された教室のことで、パソコン教室とは別の考え方で構想され運営されています。そのわけや実際そこでどのような制作活動が行われているか。また、その具体的なテクニックなどについては、これからこの連載で触れていきます。)
 学生だけでなく一般に、メディア操作能力が就職や昇進に有利だと考えるのも、無理はありません。さきほど申し上げたように、メディア操作能力はパワーの源泉です。さらに、テレビのパソコンメーカーのCMは、インターネットができなければ取り残されるとぞと言った脅迫的な言辞を大量に繰り返します。ですから、そのような考え方には、初心者それもマルチメディア制作についてほとんど知識も技術も持ち合わせていない者ほど、強くとらわれてしまうのです。
 新しいメディアを征することは、グーテンベルグの印刷機械がそうであったように、従来の組織や社会体制の中の力関係を変化させる力を潜在的に持つのです。このメディアの力は、伝統的に力をもつ側がさらにその力を強化する際にも使われますが、他方、力のない側にとっては、より切実に決定的な意味をもつはずです。「社会学」を教える大学教員に対して、わたしが数年前に実施した調査でも、大学という場で構造的に力をもたない若手や女性の教員、専門ではなく一般教養を担当する教員など、いわば大学という場におけるマイノリティの側でメディア利用に対する積極性が認めらました。経験も実権ももたない若い教師にとって、メディアを征する力は、とりわけ、重要な自己拡張の手段に違いないからです。
 大げさに言うと、ここに近代の啓蒙主義の落とし穴が潜んでいます。つまり、啓蒙主義的な教育メディア観が、逆にメディア操作能力に対する過剰な信仰を生み、使える者と使えない者との間に新たな格差をもたらすといった皮肉な現象が生じてくるのです。
 しかし、ここでもうひとつ、それとは異なったベクトルをもつ興味深い現象が生じてきます。メディア工房でしばらく訓練を受け、自分でもマルチメディアのなんたるかが分かってくると学生たちの態度に変化が見られるようになります。つまり、マルチメディア制作の技術が身についてくるにつれて、当初の「就職競争で他人に差をつける」といった利己主義的な考え方は薄れていきます。そして、むしろ、できない友人がいれば親切に教えてあげようという愛他的な発想が生じてくるのです。
 メディア工房はすべての学生に開放していますので、そこに入り浸り、テクニックを研ぎ澄ます学生も育っているのですが、そのような学生は、自分のメディア操作能力を磨き上げ独占すればするほど、他者に対して高い競争力を維持できるはずですから、習得したメディア技術は人に教えないといった行動をとってもおかしくないはずです。しかし、実際は、そんな了見の狭い考え方を持つ学生はほとんどいませんし、彼らは、オタクといった呼ばれ方をされるのも嫌うようになります。
 もちろん、メディア工房を使うヘビーユーザーの中にはこれぞオタクの標本のような人物もいます。一日中、パソコンの画面を見つめて、チャットにはまっている学生もいるからです。しかし、私の経験からいえば、それはほんの少数派です。
 自分が苦心して手に入れた能力を惜しげもなく他人に分け与えようとするこれらの学生たちを見ていると、心が和みます。見渡してみると、コンピュータの世界には、こんな人たちが結構たくさんいるのです。最近、リナックスという優れた基本ソフトを開発して、ネットワークを通じて無料で世界中に配ったフィンランド出身の若者がいますが、彼のようなデジタル世界のボランティアといってよい素敵な人間たちが、この世界にはたくさんいるのです。パソコンの世界の広がりは、こんな人たちの活動に支えられているのでしょう。
 彼らをみていると思い出すことがあるのです。
 今から十数年前、日本でもようやく商業的なパソコン通信サービスが始まった頃、わたしは、文部省のある研究所でパソコン通信を使って遠隔で英語の学習指導をするという研究プロジェクトに参加していました。研究所に何本も電話回線を敷き、マイクロバックスというユニックスのミニコンをサーバーにして、自前のパソコン通信システムを立ち上げ、長野県のある地方都市に住む受講者が、それを経由して研究所にいる英語講師とパソコン通信で英語を学ぶのです。当時は、現地にアクセス・ポイント局もない状態でしたし、パソコン通信ソフトも漢字対応しておらず、長野から直接東京まで長距離電話でアクセスして、アルファベットだけで学習指導を受けるという困難な状態でした。受講生の家庭でも、ほとんどの電話が壁に直接接続され(モジュラージャックが普及したのはその後のことです)、それも玄関先に置かれていたので、冬季に寒い玄関先でパソコン通信と悪戦苦闘しているうちに風邪を引いた受講生が続出したという笑えない話もありました。
 実験としては、まったくの失敗に終わったこのプロジェクトでしたが、これらの受講生を対象に行った調査を通じて、興味深い事実が分かったのです。
 まず、受講生の多くが、不十分な通信環境を克服するために、互いに助け合いの努力をしていました。彼らの多くはこの時期にパソコン通信に挑戦しようと言うのですから、当時の平均的日本人よりはるかに進んだパソコン能力をもっている人々だといってよいでしょう。その彼らに対して、つぎに、「パソコンを操作する能力で、昇進や就職に差をつけることは妥当かどうか」を質問したところ、大半の人々が、差をつけるべきではないと答えたのです。ほかにも同じような種類の質問をしましたが、結果は、いずれも情報メディアの操作能力にもとづく格差に対して否定的な態度をこれらの人々は示しました。
 わたしは、この結果をみて、メディア能力をめぐる奇妙なパラドックスの存在を意識さざるを得ませんでした。つまり、メディア操作能力の低い人々、つまり、それによって差別される可能性の高い人々の側に、むしろメディア能力による差別を受け入れる傾向があるのに対して、メディア操作能力をもつ人々、つまり、優位な立場に立ちうる人々の側は、逆にメディア操作能力による差別が意味のないことであることに気づいているのです。

差別するためでなく
 メディア操作能力というものは、それをすでに手に入れてしまった人々にとっては、それがけっして魔法のパワーではなく、どこにでもある普通の技能の一つにすぎないということが理解されていると言うことなのでしょう。他方、能力を手に入れていない人々にとっては、その魔法の力を持たないことが決定的な意味を持ち、これが原因で自分が差別されることに納得させられてしまうのでしょう。これは、身分差別とどこか似ています。身分の高い側は、身分というものが実は実体のない存在だということを知っているのに対し、低い側は、それを受け入れざるを得ない過酷な現実に遭遇させられるからです。
 わたしは、もちろん、学生たちにより高いメディア操作能力を身につけてほしいと思っています。しかし、その能力を使って人を差別するような人間には絶対になってほしくないとも思っています。そのためには、メディア操作能力を身につけることで、マルチメディアのパワーがある種の幻想であることを見抜いてほしいと思うのですが、たんにそれだけでなく、積極的に自分が身につけた技能を多くの人々と分かち合い、メディア操作能力による差別と闘ってほしいと思うのです。差別をなくすことは、自分が差別しないというだけでなく、積極的に差別をなくす行動を起こさない限り、結局自分もその差別に加担することになるという教訓がここにも活きていると言うことなのでしょう。
 さて、ちょっと前置きが長すぎました。でも、これはこの連載を貫く大切な原理原則ですので、最初に是非書いておきたかったのです。それでは、次回から、本題に入っていきましょう。
(第一回終わり)


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