●私がお送りした反戦署名メイルに対する反応を巡って考えたこと

先日、私のもとに戦争反対を呼びかけるメイル署名活動のメイル(No War Petition  (末尾に日本語訳あり))が届きました。

そのメイルには、ご承知のとおり、ニューヨークのテロ事件をきっかけとしてアメリカが始めるかも知れない戦争に対して平和を呼びかけるメッセージがあり、それに賛同する人の署名をいわゆるチェーンメイルの形で集めようという趣旨が添えられていました。

私は、結局、そのメイルの趣旨を受け入れ、それを友人や知人に転送いたしました。そのことは、すでにご存じの通りです。

このメイルを転送するに当たって、気がかりなこともありました。そのひとつは、その方法がいわゆるチェインメイルであったことです。また、チェインメイルのため、付け加えられた翻訳が正確さを欠くような表現になっていたりしました。

通常、インターネットでの利用エチケットととして、いわゆるチェインメイルは、禁じ手です。普段、その種のメイルを受け取っても、私は、当然、反応はしません。無視するか、送り手にその旨を伝えて送り返すかします。

ただ、今回のメイルについては、私なりに考えた末、送信者の趣旨を受け入れ、そのメイルをご承知の通り転送いたしました。

すると、しばらくして、「これはチェインメイルだからよろしくない」と批判する反応が届くようになりました。ある意味では、そのような反応があることは、内心、予想していました。

しかし、そのような批判のメイルを現実に受け取ったあと、私は、ご迷惑を掛けたと反省をしながらも、そのような批判に対して、ある種の違和感というか、もどかしさを禁じ得ませんでした。

たしかに、インターネットの普及にともなって、非常識なメイルが横行し、いわゆるスパムメイルの洪水といった現象を引き起こしていることは、周知の通りです。ですから、それを防ぐためにいわゆるネチケットと呼ばれるルールの遵守が呼びかけられています。もちろん、そのようなルールを私は知っており、守っています。

しかし、今回の反戦署名については、そのようなネチケット・ルールに違反するかもしれないと思いつつも、その趣旨に賛同し、転送をいたしました。なぜそうしたかといえば、それは現在迫りくる戦争に対する恐れの方を、この反戦メイルが最大限発生させるかもしれないスパムメイルの恐れより、私がはるかに深刻に受け止めていたからと申し上げる以外ありません。

私は、批判のメイルに対して、およそつぎのようなメイルを差し上げました。

「・・・ネチケットに限らず、ルールというのは価値判断を排除して適用しなければ、手段としての合理性が失われ一般性が確保できません。だから、あなたがこのメイルのスパムメイル的性格に対する手段的合理性の判断にもとづいて否定的な態度を持たれるのは理解できます。
 ただ、ルールがなぜ一般性を確保する必要があるのかといえば、本来、それが市民社会の公共性を担保するという価値判断を前提としているからです。したがって、ルールの一般性にたいする判断は、価値合理性の判断がその不文律の前提としてあり、アプリオリに存在しているわけではないということもまた言えます。
 じぐざぐデモが道交法に触れると言って規制する立場と表現の自由の範囲だと言って反論する立場は、結局、公共性をめぐる価値判断によってしか、解けない問題だからです。
 もちろん、私は、今回のこの反戦ペティションに壮大な期待をしているわけはありません。しかし、この程度のメイルでも、私は、それを始めた人の趣旨に賛同し、それに、肯定的に答えようと思いました。・・・」

 それから、署名を順に書き加えるというやり方について、「HPを利用すべきだ」という批判もありましたが、これについても、私の見方はやや異なります。
 たしかに、署名を順に書き加えるというやり方はインターネット利用の技術としてみれば、稚拙だとの誹りを免れないでしょうが、順に書き加えられた署名をみることによって、私は、私に個人的につながる人々の名前を「チェイン」の中に発見することができ、また、それが見ず知らずの人々に連なっていることを知りました。それは、私にとって、たいへん心強く思える経験で、新聞社の世論調査がはじき出す無機的な数字や、HPでの署名集めによくあるような賛同人一覧といった単なる人名のリストと比して、はるかに実感を伴うものでした。反戦の意志のチェインを確認するという意味をそこに見いだすことができたのです。

 また、現実的にみれば、商用利用が進み強固になりつつあるインターネットは、電子装置としての脆弱さを残しつつも、この程度の反戦メイルをチェインする負荷には十分耐えると思います。

 ただ、これはあくまで私の見解です。このメイルの主催者は手の込んだいたずらをしているのかもしれず、また、隠された悪意があるかも知れません。ですから、皆様はどうか自由にご判断をしていただき、このメイルの呼びかけに対処していただきたいと思います。(きっといわれるまでもなく、そうされていることでしょうが)

むしろ、今回の戦争の脅威に抗して行われているインターネットを通じた署名活動に関しては、アメリカにおいて平和のための活動に長い間取り組んできたフレンズ・サービス・コミッティが関わる9ー11.PEACEORGのサイトなどをご参照されることをお薦めします。(http://www.9-11peace.org/petition.php3)

 そして、さらに付け加えれば、所詮メイルはメイルです。戦争を止めさせるためにたとえ微力でも市民ができることは他にもたくさんあるはずです。今、私は、どのような行動がとれるか、考えています。みなさんもぜひ考えていただければと思います。

 私の世代は、ヴェトナム戦争という残酷な現実の中で青春時代を過ごした世代です。当時、日本政府は、平和憲法があるにもかかわらず日米安保のもと間接的に戦争に荷担し、多くの日本企業は特需で潤いました。そのような状況の中で、たとえ戦争に心で反対していても、その意志を示さないならば戦争に荷担することと同義であるということを教訓として学びました。

 当時はインターネットのような強力なコミュニケーションの手段はなく、署名といえば街頭にたって呼びかけるか、大きな組織に頼るしかありませんでした。また、反戦の意思表示もデモやミニコミで表現するくらいしかありませんでした。しかし、1人の市民にとって、反戦の意志を表現するかどうかという次元で考えれば、教訓は今も変わっていないように思います。

 批判のメイルに対して私が感じたもうひとつのもどかしさは、「チェインメイルはネット社会の敵」と批判しながら、市民社会にとってさらに大きな厄災である戦争に対しては、自分の身に引きつけて考える意見やそれをどう意思表示するか(インターネットを使うかどうかは別として)について、ほとんど言及がなかったことです。

 個人的な体験になりますが、私は、80年代初頭、ソーシャルワーカーとしてアメリカでヴェトナム戦争難民のお世話をする仕事をしていました。その多くは、ラオスの山岳少数民族の人々で、CIAの手先として利用され、社会主義化したラオスから脱出してきた人々でした。タイの難民キャンプで何年も暮らし、ようやくアメリカにたどり着いたのです。ヴェトナム戦争はすでに終わり、多くのアメリカ人の記憶から消えようとしていましたが、難民たちの生活の困窮と苦しみは、消えることはありませんでした。ひとたび戦争が始まれば、それがどれほど長く多くの人々を傷つけることになるか、私は、少なくともその一端を熟知しているつもりです。

 しかし、残念ながら、それを止めることは容易ではなく、私の力は微力です。しかし、声を上げないことは私自身に対して許されないことだとも思っています。

 もちろん、戦争に反対するからといってすべての行動が許されるわけではないことはいうまでもありません。そのようなマキャベリズムを私はとりません。また、平常の手続きを越えた行動をするには、そのことに対する責任も発生するでしょう。

 しかし、危機的な事態が存在すると判断されるなら、責任を自覚しつつも柔軟に行動するべきであると私は考えます。戦争を防ぐための行動は、そのような事態のもっとも適当な例だと私は思います。私たちは、いつも原点に立ち返って、市民社会にとっての真の危機とは何かについて価値合理性にもとづく判断を行いながら、現実に対決していくことが必要だと思うのです。

 以上が、今回の反戦メイルについて私が考えたことのあらましです。長文、失礼いたしました。

2001年9月28日

山中速人