メディア時評 2008.6.11

 また起こってしまいました。秋葉原での無差別殺人事件です。

 こういうとき、メディアは、犯人を異常者であるとし、自分たちの「正常な」社会の外に排除し、そのような異常者だから、こんなとんでもない事件を起こすのだと理由付けするのが常です。池田小学校事件の犯人は、人格障害者だからという理由でした。今回もメディアは一生懸命それを繰り返そうとしています。しかし、それはあまりうまく行かないようです。薬物依存でもなく、人格障害の気配もなさそうだし・・・。

 ワイドショーでは、ナイフ店の防犯カメラに映った犯人の映像で、犯人がナイフを何度も突き刺すような動作をしているのをとらえて、「エキセントリックな犯人の性格の一端を示している」と解説者がコメントしていました。変質者だと言いたかったのでしょう。しかし、後で放送されたナイフ店の店員の談話で、その動作は、「青森では冬に雪かきを素手でこうやってやるんですよ」という会話に過ぎなかったことが分かりました。

 メディアにとって「犯人は異常者ではない」という事実が明らかになることがそんなに恐ろしいのかと思います。

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 それにしても、派遣労働先の企業で首切りされる不安が直接の引き金になっていることは明らかなのに、その実質的にトヨタそのものといってよい系列企業の人事担当者は、犯人の行動には自分たちの企業は関係ない、あくまで犯人の個人的な問題だと言い切っていました。そして、それに対するメディアの追求はありません。もう何年も前に家をでた犯人の親の道義的責任は追求されるのに、直接の引き金になった企業の道義的責任は放置されるのは、どうしてでしょう。

 派遣は使い捨て、モノに過ぎないと言う認識がメディアにもすっかりと定着しているからでしょうか。下請けをこき使い、正社員だけが高給をとるマスコミ企業のシステム。危険な戦場での取材は全部フリーランスのジャーナリストに丸投げして、自分たちは尻に帆をかけて安全な地域に逃げ出す。トヨタという大スポンサーの影に脅え、その下請け企業すら批判できない。こんなシステムにどっぷりつかったメディアエリートたち(彼らほど自分を勝ち組だと自認する人たちはいないでしょう)には、首切り企業の人事担当者の発言に疑問を感じる感性はなかったのでしょう。

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 たしかに、派遣労働の中で、疎外され不安に苛まれる若者がこのような無差別殺人者の予備軍だというのは乱暴な議論でしょう。凶悪犯罪は、統計的にみれば減少の一途を示しています。そして、このような大量殺人がこの社会に蔓延している問題状況との因果関係によって発生したとするなら、そのような犯罪はもっと大量に発生しているはずだからです。その意味では、今回の犯人を雇用していた企業の人事担当者のいうように、個人の問題だという論点は、間違ってはいません。

 しかし、だからといって、それは、今回のような凄惨な犯罪から、わたしたちが何も発見せず、レアケースとして無視してよいと言うことにはならないでしょう。わたしたちは、想像力を全開にして、この事件から私たちの社会が直面しているさまざまな問題をかんがえ、その解決のためにこの機会を使うべきなのです。

 社会はつねに専門家が注意深く吟味したデータにもとづいて客観的に認識を深めていくのではありません。たとえ統計的にはレアケースであっても、今回のような象徴的で暗示的な事件によって、多くの人びとがその背後にあるかもしれない社会の問題や変化に気づき、敏感に反応することによって、問題が発見され、解決に導かれることも事実だからです。

 今回の事件は、たとえば、交差点でたまたま人身事故が起こると、その交差点には信号機が設置されるという事実をかんがえみればよいと思います。客観的にみれば、事故が起こるのは交差点が危険だからだとは限りません。さまざまな要因が絡んでいます。しかし、そこにすむ人々は、その人身事故によって、問題に気づき、解決へと行動し、その結果、社会はその交差点に信号機をつけるのです。今回の事件で、わたしたちは、格差社会のもたらす問題や大企業が派遣労働者をいかにモノのように扱っているかという問題について、気づき、その問題をいかにすれば取り除くことができるかをかんがえる機会を与えられたと言うべきでしょう。

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 考えれば、この失われた10年の間、日本の勝ち組と呼ばれる企業は、労働運動を完全に無能力化し、経済格差を拡大させ、「新自由主義」の前に人々を屈服させてきました。その勝ち組企業の象徴であるトヨタが空前の利益をあげた頂点で、その生産ラインで酷使され、絶望した若い派遣労働者がまるで自爆テロのような惨劇を起こしました。勝ち組たちの押しつけたツケを無力で無関係な市民たちが払わされたといっても過言ではないでしょう。それは、金融工学で世界制覇を果たしたと誇らしげに勝利前言をした頂点のとき、その象徴としての貿易センターが911のテロで攻撃され、多くの無実の市民たちが犠牲になったのと酷似しているように思います。わたしたちは、このような黙示録的な象徴的事件から多くの警告と気づきをひきだすようプログラムされた感性をもってこの世に産まれてきているのかもしれません。

 そして、犠牲者の無念をいくら説いても、また、いくら犯人を非難しても真の心の安心はえられないでしょう。負け組は自己責任だ、犯人は異常者だと、自分たちとは違う世界の異人だといって排除している限り、心の深い底に不安はそのまま残されるのでしょう。そうではなく、負け組も、犯人も、ともに、私たちの世界の一部であり、ともに生きていかねばならないのだという事実をしっかりと認識するところから、始めなければならないのだと思います。彼らを異常だとして、心の中から排除しても、かれらの存在はなくなりません。金正日をいくら最低の人間だと非難しても、拉致被害者が帰ってこないのと、それは似ています。