イメージの中のモンスーン・アジア〜東南アジアを中心に〜
『モンスーン・アジアの村を歩く』家の光協会より

山中速人(社会学者)

はじめに〜オリエンタリズムと日本人

 フィールドワークに出かけるとき、現地についてあらかじめ知識を持たない方が予断のない見方ができるいう人がいます。先入観や予備知識がない方がよりよく対象を理解できるというのです。しかし、この考え方は、必ずしも正しくありません。そもそも人間は、物ごとを観察したり、理解したりするとき、無意識のうちに自分の中にある何らかの基準や先例を用いようとします。現地についてのより豊富な知識や情報があれば、それだけ現地を理解する手がかりも豊富になるからです。ですから、現地に出かける前に、十分な下調べをしておくことは大切なのです。

 しかし、ここで考えなければならない問題は、そのような豊富な知識や情報が逆に現地の理解の妨げになる場合があることです。多くの場合、そのような妨げが起こるのは、フィールドワークの前に手に入れた知識や情報を鵜呑みにして、実際に目の前にある現実とつき合わせる努力を怠るときです。既存の情報や知識とフィールドにおける現実とは、つねに緊張関係にあります。フィールドの現実を理解するには、既存の知識や情報が不可欠ですが、その知識や情報は、他方、つねにフィールドの現実によって書き換えられる宿命にあります。既存の知識や情報を絶対視せず、いつもカッコにくくりながら考えるという態度が求められるのです。このことを肝に銘じながら、フィールドワークに向かわねばなりません。

 そのような態度を養うためには、まず自分が現地について持っている知識や情報、イメージがどのようにして作られ、自分にもたらされたかを客観的に知っておくことが必要だと思います。この章では、モンスーン・アジアの村を歩くに当たって、モンスーン・アジアついてのイメージがどういうものであるか、また、それがどのように作られ、私たちにもたらされてきたかを考えておきたいと思います。その際、ここでは、モンスーン・アジアの中でも、もっとも日本人に親しみをもたれている東南アジアを中心に取り上げます。

 さて、東南アジアに対する日本人のイメージを考えるに当たって、最初に、私たちが「アジア」という言葉を使用すときの問題について考えておきましょう。私たちが「アジア」という言葉を使う際、その背後には、「西洋」という対抗軸が隠されていることが多いのではないでしょうか。つまり、「西洋」対「東洋」としての「アジア」です。

 このような「アジア」(=東洋)という言葉の使い方は、一つの文明観としての「オリエンタリズム」の反映でもあります。E・サイードは、その著書『オリエンタリズム』(一九八六年)の中で、オリエンタリズムとは、植民地主義を基底として、西洋が東洋を支配するために用意した思考の様式であるというようなことを述べていますが、私たちが「アジア」という言葉を何気なく使うときにも、そのような思考様式を含んでいないかどうか慎重に考えなければならないでしょう。

 現実が複雑なのは、このようなオリエンタリズムとしてのアジア観は、たんに西洋の側にだけ存在しているのではなく、近代化の過程の中で、日本人を含めてアジアの人々自体がそのような西洋的なアジア観を受け入れてきたという事実です。

 一例を挙げれば、渡部先生も問題として取り上げておられる「アジアは一つ」といった言い方。そこには、アジアを劣った地域と見なす西洋的な思考に反発し、西洋に劣らない独自の文明観をアジアに見いだそうとするまなざしがありましたが、そもそもそのような思考自体が、明らかに「西洋」対「東洋」というオリエンタリズムの二項対立を受け入れているといえます。アジアのイメージを論じた梶原景昭の言葉を借りれば、「欧米に対する一種の強迫観念は、近代に投げ込まれたアジアの宿命」であるかもしれません。(青木保、梶原景昭編『情報化社会の文化1・情報化とアジア・イメージ』一九九九年)

 近代日本の場合をみれば、アジアとどうつきあうかについて多くの議論がつねに繰り返されてきました。たとえば、福沢諭吉の「脱亜入欧」論は、日本を遅れたアジアの文明とは異なったものと考え、西洋の仲間として位置づけようとしました。一方、それと対抗して、日本をアジアの一員として明快に位置づけ、西洋の植民地主義に対してアジアの連帯を説くアジア主義思想がありました。宮崎滔天や北一輝に見られるアジア指向はこの範疇に入るでしょう。近代の日本とアジアの関係を研究してきた岡本幸治は、このような二項対立の図式を「『日本とアジア』か『アジアの日本』か」と表現していますが、アジアをどうとらえるかは、近代の日本にとってきわめて重要な問題だったのです。(岡本幸治『近代日本のアジア観』ミネルヴァ書房、一九九八年)

 いずれにせよ、近代の日本は、自分を西洋とアジアの中間に位置づけ、西洋を見るときにはアジアからのまなざしを持つ一方、アジアを見るときには西洋からのまなざしをもって見つめてきたと言ってよいかもしれません。今日でも、アジア観光のパンフレットやアジアを扱ったテレビCMの異国趣味(エキゾティシズム)を見るにつけ、そこに、西洋の側のまなざし、つまり、オリエンタリズムを認めることができます。

 オリエンタリズムに由来するアジアのイメージとは、サイードの言葉を借りれば、「ロマンスやエキゾチックな生き物、纏綿たる心象や風景、珍しい体験談の舞台」としてのアジアなのですが、多くの日本人にとっても、アジアは、エキゾティシズムの中に発見されるものといえるかもしれません。つまり、日本人にとってアジアは異境なのです。いや、もう少し正確に言うと、異境こそがアジアなのです。アジアにおいて、日本と異質な風景や事象に遭遇したとき、日本人はそれを「アジア」なものとして知覚するといってよいでしょう。このことは、日本人の東南アジア・イメージについても基本的に当てはまります。

戦後日本の東南アジア・イメージの変遷〜「混乱」から「活気」へ

 今日の東南アジアに対する日本人のイメージの形成を、戦中から戦後における日本と東南アジアの歴史的関係の変化をもとに考えてみたいと思います。

 戦争の経験は、日本人の東南アジア・イメージの形成に重要な影響を持ちました。東南アジアに限らず、アジアといえば、今日でも「大東亜戦争」を想像する人々はたくさんいます。第二次世界大戦を経験した世代にとって、戦争という強烈な体験の場となったアジアは、一言で言い尽くせない多様で複雑な意味をもった土地です。この時代を生きた日本人の東南アジア・イメージには、人々を戦争へと誘った大東亜共栄圏の夢と現実、光と影が深く投影されています。

 しかし、戦争が終わり、戦後の新しい世代が登場するにしたがって、アジアは彼ら戦後世代の脳裏からともすれば消えがちな対象となりました。敗戦によって、アメリカからモダンな消費文化が流れ込むようになると、若い世代、いや、戦争を経験した世代も、消費文化の源であるアメリカに関心を奪われ、アジアへの関心は遠退いていきました。戦争中のアジアへの侵略に対する反省と悔恨、さらに、戦後の冷戦の中で激動するアジア情勢に対する困惑が、「あつものに懲りてなますを吹く」あるいは「触らぬ神に祟りなし」的な心理を醸成したことも手伝っていたのでしょう。

 これに並行して、日本人自身の自己イメージも変化しました。アジアの盟主という意識は後退し、「日本は、古代以来、大陸アジアとは異なり、稲作文化を基調とする平和な単一民族社会であった」という自己像が浸透するようになりました。小熊英二の研究によれば、大陸への進出を国策とする昭和初期には、「日本は多民族国家である」という説が学問的にも広く認められていたそうです。(『単一民族神話の起源』一九九五年)しかし、戦後、単一民族という日本人像が支配的になるにしたがって、アジアは、一転して日本とは異質な存在としてとらえられるようになりました。

 さて、一方、戦後賠償の一環として出発した日本のアジア諸国への経済進出は、日本の急速な経済成長を反映して、日本とアジア諸国の関係を一衣帯水の関係に変え、その結果、日本国内のアジアに対する関心も徐々に高まっていきました。この時期の日本人のアジア観の形成にもっとも影響を与えた地域が、東南アジアでした。戦前、日本の徹底的な植民地支配や侵略の苦渋をなめた東アジア諸国と異なって、東南アジア諸国は、日本にとって相対的に受け入れてもらいやすい環境を持っていました。日本・アジア関係を長年ウォッチしてきたジャーナリストの若宮啓文は、日本は東南アジアを「アジア復帰の迂回路」として利用したと述べていますが、東南アジアは戦後の日本にとって戦前にもまして身近なアジアになりました。(『戦後保守のアジア観』一九九五年)

 これら東南アジア諸国は開発途上国であり、外資を導入して工業化することを至上課題としていました。日本の賠償が、その後、経済援助と言い換えられるようになると、日本人の多くは、経済的な優越感も手伝って、東南アジア諸国に対して心理的な優位を持つようになりました。戦争責任を常に問い続ける「気むずかしい」東アジア諸国とは対照的に、日本人にとって東南アジア諸国は、自尊心をくすぐる居心地のよい地域というイメージが定着していきました。

 しかし、経済発展を急ぐこれらの東南アジアの国々では、たとえばインドネシアのスハルト政権やフィリピンのマルコス政権などのように軍部が権力を握り、アメリカの後押しを受けて反共を掲げる独裁的指導者が開発独裁型の政治体制を維持していました。その結果、これらの政権につながる人々による不正や汚職の噂が絶えず、東南アジア社会全体がダーティなイメージに包まれました。

 このようなダーティ・イメージは、進出した日本企業のビジネスマンたちの実感でもありました。彼らはビジネスを通して、現地の政治家や官僚と深く接触し、賄賂や汚職を目の当たりにしていたからです。しかし、彼ら自身も、ビジネスを成功させるため、そのような腐敗を必要悪として利用する側面も持ち合わせていました。一方で腐敗を冷ややかに見つめながら、他方ではそれに荷担するというダブルバインドな現実は、「アジアの特殊性」という言葉の中で合理化されました。周防正行監督の映画「ぼくらはみんな生きている」は、東南アジアの架空の国を舞台に展開される汚職やクーデターとそれに関わる日本人ビジネスマンの悪戦苦闘をコミカルに描いていますが、この映画に登場する東南アジアの国のイメージは、当時の現地日本人の東南アジア観をよく表現しています。

 一方、八〇年代後半から九〇年代の前半にかけて東南アジア諸国に起こっためざましい経済発展は、「停滞と混乱のアジア」というイメージを一新し、「発展と活気のアジア」というイメージを日本人の中に芽生えさせました。経済発展が生み出した中産階層(=市民層)が政治的発言権を増大させ、タイやフィリピンで政治の民主化が進むと、東南アジアに対するダーティなイメージも払拭されていきました。そして、欧米の側からは、これら経済発展の背後に存在する華人たちの存在が注目され、彼らの儒教的な価値観に経済発展の原因を求めるような学説がもてはやされるようになりました。

 しかし、このような東南アジアに対するまなざしはけっして目新しいものばかりではありません。それは、先述のオリエンタリズムと交錯します。停滞から発展へ、カオスから秩序へと東南アジアに対する目先のイメージは変化しても、その背後には一貫して「東洋」的ななにものかが存在していると解釈されるからです。そして、日本人も同様にそのような「西洋」の眼を通してアジアをみる態度を知らず知らず身につけています。

観光が作り出す現代東南アジアのイメージ

 現代において、日本人の東南アジア・イメージの形成にもっとも関係しているのは、観光です。東南アジアを観光で訪れる日本人の数は大変な数になりました。道を歩いていると、街角の旅行代理店の店先には、色とりどりの観光パンフレットが並んでいます。そのパンフレットの中で、東南アジアはハワイや北米、ヨーロッパに肩を並べています。このようなパンフレットを見るにつけ、一般の日本人にとって東南アジアの国々が身近になったという印象を深めるとともに、日本人の東南アジア・イメージの形成にこれら観光が重要な役割を果たしていると感じずにはおれません。

 アメリカの文化社会学者であるダニエル・ブアスティンは、『幻影の時代』(一九六四年)という著書の中で、かつて旅行というと大変な難行苦行であったものが、産業としての観光業が発達した結果、旅行は、「観光」というマスプロ化された商品となったと述べています。この「観光」においては、旅先についての情報や印象は、旅する以前から、パンフレットやガイドブックという形の商品見本によって与えられることになります。そして、消費者である旅行者は、現地に到着すると、現地(=商品)がそれら(=商品見本)と一致しているかどうかを確認します。そして、もし現地がイメージ通りなら、大いに納得し満足するのです。「やっぱりペナンの夕日は、パンフレット通りに素敵だった」というように。

 マスコミや商業広告が生活の隅々に浸透した現代社会では、さらに、人間の経験もあらかじめ商品として企画され、産業的に作られるようになりました。ブアスティンは、このように、マスコミや広告によって作り出された出来事を擬似イベントと呼び、今日の観光はそのような擬似イベントの典型であると述べています。

 さて、それでは、擬似イベントとしての観光の中で東南アジアはどのようなイメージをもっているのでしょうか。表一は、大阪のある旅行代理店の店頭に九九年五月末に置かれていた東南アジア旅行のパンフレットから国別に訪問地(滞在地)を累計したものです。

(表一)ある旅行代理店に置かれたパンフレットにみる東南アジアツアーの目的地別累計

・シンガポール(ジョホール、セントーサ島を含む)二三

・タイ

 バンコク一九、チェンマイ八、アユタヤ七、スコータイ二、プーケット島二、カンチャナブリ、チェンライ、ピサヌローク

・マレーシア

 クアラルンプール九、バターワース四、マラッカ四、ペナン島三、クワイ二、コタキナバル二、ランカウイ島、レダン島、ティオマン島、ボルネオ島、スカウ、ムル、クチン

・フィリピン

 マニラ四、セブ島二

・ベトナム

 ホーチミン六、フエ二、ハノイ、ダナン

・カンボジア

 シェムリアップ四、プノンペン二

・ミャンマー

 ヤンゴン三、パガン二、バゴー、マンダレー

・インドネシア

 バリ島三、ビンタン島

リゾートの中の東南アジア〜海浜リゾートのシンボリズム

 一見して分かることは、リゾート観光の多さです。東南アジア観光宣伝のかなりの部分が、これら海浜リゾートへの勧誘で占められています。つまり、多くの日本人にとって、東南アジアはリゾートのイメージと重なっているのです。タイのプーケット島、マレーシアのペナン島、フィリピンのセブ島、インドネシアのバリ島などなど、これら東南アジアのリゾート観光の内容は、しかし、ハワイやグァム、サイパンなどの海浜リゾートのそれと酷似しています。卒業研究で海浜リゾートから連想するシンボル(象徴的記号)に関する調査を行った学生(坂本真)の研究によれば、海浜リゾートに宿泊する若い日本人観光客は、そのリゾートがタイのプーケット島であろうと太平洋のサイパンであろうとほとんど差異なく表二のようなシンボルを連想しました。

(表二) 「ビーチリゾートと聞いてどのような言葉を思い浮かべますか」

(Sはサイパン・Pはプーケット、坂本真「若者の海外ビーチリゾートに対する意識調査〜サイパンとプーケットの比較調査」一九九九年より再構成)

・自然に関するもの

 きれいな海(S二九・P二四)、白い砂浜(S一一・P九)、太陽(S八・P五)、青い空(S七・P〇)、珊瑚礁(S二・P一)、熱帯魚(S二・P一)、椰子の木(SPともに一)、星空(SPともに一)、ほかに、波、波の音、夕焼け、星空、清浄な空気など。

・人に関するもの

 女性・女の子(S三・P五)、外国人(S〇・P八)、トップレス(S〇・P四)、ビーチボーイ(S〇・P三)、カップル・若い夫婦(SPともに一)、日本人(SPともに一)、ほかに、若者、若者の暴走など。

・気分や雰囲気に関するもの

 のんびり・ゆっくりした時間(S四・P一二)、バカンス(S五・P七)、開放感(S三・P五)、ナンパ(S三・P三)、リラックス(S一・P二)、昼寝(S二・P〇)、楽しそう(SPともに一)、ほかに、休養、リフレッシュ、夏休み、休日、道楽、にぎやか、楽園、日光浴、現実逃避など。

・スポーツや活動に関するもの

 マリンスポーツ(S一二・P一四)、日焼け(S一〇・P七)、ダイビング(S三・P五)、ほかに、サーフィン、ボート、水泳、ビーチバレーなど。

・その他のアイテム

 ビキニ・水着(S四・P三)、トロピカル・フルーツ(S三・P二)、パラソル(S一・P二)、高級ホテル(S〇・P二)、ほかに、サングラス、缶ビール、ブランド品、プライベート・ビーチ、ビーチサンダル、物売りなど。

 青い海と珊瑚礁、太陽、白砂のビーチ、風にそよぐ椰子の木、海に沈む夕日、プールサイドのデッキチェアーに寝そべるビキニの女性などなどと、海浜リゾートというのは、国や地域に関係なく共通のイメージを形作っています。おそらくこれらリゾートを経営する多国籍のホテル資本が、先進国からの滞在客をターゲットに綿密な市場調査をしてデザインしているからでしょう。これらのリゾートが演出するイメージは、「ゆったりとした時間の流れ」、「都会の喧噪からの離脱」、「自然との優しいふれあい」、「南国情緒あふれる風物」、「素朴な地元民とのふれあい」などです。

 しかし、これらのイメージは、亜熱帯や熱帯地域の開発途上国がこれまでもってきた「停滞した農漁村」や「開発の遅れ」や「前近代的な社会」などのマイナスのイメージの裏返しに他なりません。

 工業化に不利な熱帯地域に「楽園」のキャッチフレーズをかぶせ、観光産業の商品に仕立て上げる手法は、二〇世紀初頭のハワイにおいて最初に試みられたものですが、この造成された「楽園」のイメージは、今日の東南アジアのイメージを考える上で無視できない要素となっています。

東南アジア都市イメージの変容〜悠久から活気へ

 次に重要な観光の対象として取り上げられているのは、都市です。シンガポール、タイのバンコクやチェンマイ、マレーシアのクアラルンプール、フィリピンのマニラなどの都市がそうです。最近では、これらの都市群に、新しくホーチミン、ヤンゴンなどが加わるようになりました。観光で訪れる人々にとって、これら東南アジアの都市はどのように観られているのでしょうか。

 香港やマカオと同様に買い物ツアーとして始まった東南アジアの都市観光ではありましたが、長い間、そのキャッチフレーズは、仏教遺跡や寺院観光に代表される「悠久のアジア」でした。

 今日の観光パンフレットでも、たとえば、タイといえばアユタヤ遺跡やナコンパトムの寺院が訪問地として写真入りで大きく紹介されています。また、最近新しい観光地として注目をあつめるようになったカンボジアやベトナム、ラオス、ミャンマーなども、遺跡観光や寺院観光が最初に定番化されました。

 観光客たちは、これら寺院や遺跡が東南アジアの現実の社会の中でどのような意味を持っているかとは関わりなく、そこに「悠久のアジア」を発見し、エキゾティシズムを満足させるのです。たとえば、三島由紀夫の小説に登場する「暁の寺」は、バンコク市内のチャオプラヤ川のほとりにあり、近寄って眺めると、何千枚もの原色の陶器片を廉価なコンクリートで壁面全体に張り付けた何ともけばけばしい装飾の寺院なのですが、小説の中では、そのような悠久のアジアを象徴するものとして描かれています。

「メナムの対岸から射し初めた暁の光を、その百千の皿は百千の小さな鏡面になってすばやくとらえ、巨大な蝋細工はかしましく輝きだした。この塔は永きに亙って、色彩を以てする暁鐘の役割を果たしてきたのだった。鳴りひびいて暁に応える色彩。それは、暁と同等の力、同等の重み、同等の破裂感を持つように造られたのだった。メナム河の赤土色に映った凄い代赭色の朝焼の中に、その塔はかがやく投影を落として、又今日も来るものうい炎暑の一日の予兆を揺らした。・・・・」(三島由紀夫『暁の寺〜豊饒の海(三)』より)

 社会資本の乏しい開発途上国の風景を、やや自意識過剰な小説家が自己の心象風景の延長として精一杯荘厳に描いた結果がそこに存在しているといってよいかもしれません。

 一方、八〇年代に入ると、東南アジアのめざましい経済発展に伴って、活気に満ちたこれらの都市的アジアをバッグパックを背負った日本人の若者が闊歩するという現象が起こるようになりました。アジアへの自由な旅は、日本人の青年たちが大人になるための通過儀礼のような存在になっています。ただし、これらバックパッカーとして東南アジアの都市を訪問する日本人の若者に対する調査(バンコクのカオサン地区における調査)を行った新井克弥と岩佐淳一によれば、これらの若者の一見自由で個性的にみえる行動も、あきらかに、『地球の歩き方』などのバッグパッカー向けガイドブックや旅行雑誌の影響によって画一化されているそうです。

 バッグパッカーの若者向けのガイドブックなどに紹介されたこれらの都市は、ゲストハウスと呼ばれる安宿での滞在、雑然とした屋台での食事、喧噪と混雑が支配する街路など、急速な都市化によってもたらされたカオス的な状況がむしろ魅力ある都市空間として描かれています。

 今回の旅行は究極のバジェット旅行だったが、だからこそ知ることのできることがたくさんあった。・・・・屋台の長所は安いだけではない。庶民の味が味わえる上に彼らに触れることもできる。言葉が通じなくても表情で伝えればいい。衛生的に心配な人もいると思うが、”病気は気から”と”郷にいれば郷に従え”の精神で試してみるのも悪くない。(「ユリの旅日記から・東南アジア食の文化に触れて」『地球の歩き方〜東南アジア』九六・九七年版、五六頁より)

 これらの若者によって持ち帰られた活気に満ちたカオス的アジアのイメージは、かつての「悠久のアジア」というイメージとは異なるものの、訪れる側の心象風景に基づく一方的思い入れによってつくられている点で同類であるといってよいでしょう。したがって、カオス的アジアを期待していた若者が現実の東南アジアのコスモポリタンな都市文化に遭遇してギャップに驚くといったエピソードも起こります。

 私の旅の服装のモットーは”汚くたっていいじゃない”ということだ。でも今回はこのモットーを貫いたばっかりに、すっごい恥ずかしい思いをした。・・・・いざサーヤム・スクエア(引用者註:バンコクの繁華街)周辺まで来ると、いるわいるわ、若い男女の群れ。もうここは日本の原宿、渋谷という感じ。・・・・マーブル・ロワンセンターに入った。ここにも若者ばかりで、今流行っている日本と同じチビTシャツにチビリュックの子が目立った。男の子も江口洋介ばりのサラサラロングヘアー。そんななかで、私たちはよれよれに伸びたTシャツに六日もはいている臭いGパン・・・・バンコクは日本と同じくらいナウイ。あなどってはいけないのだ。・・・・今度はもうちょっとまともな格好で町をカッポしようと心に誓ったのだった。(「私のタイ・バンコク失敗談」『地球の歩き方〜東南アジア』九六・九七年版、二七〇頁より)

ブラックホールとしての農山漁村〜観光コースを外れたアジア

 リゾート観光と都市観光という東南アジア観光の定番コースは、産業化された今日の観光にとって欠くことのできない存在です。しかし、空間的な全体として東南アジアを捉えたとき、これらのリゾートと都市という二種類の空間は、ほんのわずかな部分しか占めていません。シンガポールを例外として、圧倒的に開発途上国としての相貌を持つ東南アジアの国々にとって、第一次産業の場であり、人口の大半が日々の生活の営みを続けている場としての農山漁村は、これら産業化された観光の外部に押しやられています。通常の観光客が東南アジアの農山漁村を訪問することは、きわめてまれだといわざるを得ません。ここに一般の日本人の東南アジア・イメージにおける欠落があります。

 人間にとって、知らないものは存在しないのと同義です。よって、一般的な日本人にとっては、観光客として訪問する都市とリゾートの背後に広がるこれら農山漁村は存在しない空白の地図となっています。

 しかし、近年、これら東南アジアの農山漁村についての情報が、一般の日本人にも断片的にもたらされようになりました。それらの情報のもっとも大きい情報源は、マスメディアです。アジア各地の事件や出来事を報道するテレビニュースは、以前に比べて飛躍的に数を増やしました。また、タレントなどが東南アジアの各地を旅する紀行番組も盛んです。中には、実際に短期間現地に滞在して地元の人々と生活をともにし、伝統舞踊の特訓をしたり、商売の手伝いをしたりする番組も登場するようになりました。これらの番組の視聴率はけっこう高く、日本人一般の非都市的アジアへの関心が以前に比べて高まっていることを示しています。

 また、従来の大衆的な団体観光とは異なるアジア旅行の企画も登場するようになってきました。社会貢献を目的として農村での井戸掘りやボランティアに参加する参加型ツアー、大学や研究機関が主催すスタディーツアーなどもさかんに行われるようになってきています。バッグパッカー型の個人旅行でも、田舎滞在指向の旅行者が以前と比べると確かに増えました。

 また、タイやラオス、雲南などの山岳地域に住む少数民族の村を訪れ、民族固有の文化や生活を見聞するツアーも徐々に増えつつあります。このような観光のタイプは民族観光と呼ばれ、欧米の金持ちたちが植民地を視察する観光旅行に歴史的な起源を持っていますが、日本でも文化人類学の大衆的流行やエスニック・ブームを背景として近年その規模を拡大させてきました。(中国雲南省では、地方政府をあげてこの民族観光の開発を進めています。)

 しかし、問題は、これらの新しい種類の情報や旅行が伝える東南アジアの農山漁村のイメージがどのような傾向を持っているかです。とりわけ、経済的に貧しい地域や周縁部の少数民族たちがどのような文脈で伝えられているかは、非常に気がかりではあります。ここでは、文化人類学を専攻する女性研究者の豊田三佳さんが、タイの山岳少数民族であるアカ族の村を訪問するトレッキング・ツアーについて分析した研究(「観光と性〜北タイ山地の女性イメージ」山下晋司編『観光人類学』一九九六年)を紹介しながら考えてみたいと思います。

都市と農山漁村の格差が作り出すステレオタイプ

 北タイの山岳地帯に住む多様な少数民族の中でも、ビルマ、ラオス国境付近の少数民族の村々を訪問するトレッキング・ツアーは、近年、欧米や日本の若者に注目されるようになってきました。これらのツアーは、一般的に、四〜五人のグループで数種類の少数民族の村を訪問するそうです。参加するツアー客が期待するのは、未開で素朴な人々の生活を見聞することで、彼らが「これが伝統文化」だと想像していたものに現地で遭遇すると納得し、安心します。アカ族の村を訪れるツアーには、ふつうチェンマイ付近に住むタイ人ガイドがつきます。これらのガイドは片言の英語が話せます。ガイドは、言葉の通じない現地の村人とツアー客との間にはいって通訳と解説者の役割を果たすことになります。

 さて、アカ族は独特な女性の文化を持つ民族としてタイでは以前より知られています。アカ族の女性は、「男性に尽くす」「従順」といったイメージとともに、「自由で本能的」な性文化をもつと見なされています。たとえば、「結婚の際に処女性を重視しない」とか、「ミダと呼ばれる未亡人が未婚の若者に性の手ほどきをする」といった説が信じられています。実際にアカ族の社会でフィールドワークを行っている豊田さんは、これらの俗説が正確ではないことを指摘しています。たとえば、ミダとは未婚の女性を指す名詞であって日本語の「お嬢さん」を意味するに過ぎないことや婚前の性交渉はあくまで結婚を前提としていることなどです。

 しかし、多くのタイ人ガイドは、これらの事実ではなく、神話化された独特の性文化や風習があたかも存在しているかのようにツアー客たちに解説するのです。中には、そのような俗説を売春の斡旋に利用したりする場合もあるそうです。豊田さんは、このような現状を批判し、「問題は、アカ族が彼ら自身の解釈でアカ族文化を外部に表現する機会が非常に限られている政治・経済的権力構造の中で、外部のイメージのみが観光産業のメカニズムを通してまことしやかに語られ」ていくことにあると述べています。

 民族観光の多くは、現地の農山漁村の人々が自主的に運営しているのではありません。都市に所在する旅行会社によって、企画、実施されているツアーが大半です。これらの旅行会社は、その国の多数派民族の人々が経営しており、多数派の観点から少数民族の文化や生活を解釈し紹介しようとします。

 実際、東南アジアの社会は、地域的にも民族的にも階層的にも多様な姿を持っており、地域間、民族間、階層間で利害も異なります。その中で農山漁村は、都市とは対照的に社会経済的に不利益を押しつけられてきた存在でした。都市の繁栄の恩恵に浴する多数派の人々が貧しい農山漁村に向けるまなざしは、決して中立的ではありません。事実、都市出身の観光ガイドの多くは、農山漁村について情報を十分に持っていません。持っていても、それは必ずしも客観的な裏付けのある正確な情報ではなく、俗説やステレオタイプを多分に含んでいます。ですから、たとえ現地を訪問したからといって、そのような偏見から自由な見方ができるというわけではないのです。

情報通信革命がもたらす変化〜修正されるイメージ

 私がここで言いたいのは、東南アジアの農山漁村に対して日本人が抱いているイメージが現実と異なっていることが問題だとか、非好意的であるのが問題だということではないのです。私が、東南アジアの農山漁村のイメージ形成について問題にしたいのは、そのイメージが現地の人々の関わりのないところで作り出され、また、自分たちがどのようなイメージをもたれているかについて、ほとんど知らされてこなかったことです。

 長い間、東南アジアの人々は、先進国の旅行者やメディアが一方的に訪れたり報道したりする対象でしかありませんでした。そして、訪問者やメディアが一方的に作り上げたイメージが世界中を一人歩きしても、それをくい止めることも、反論することもできませんでした。

 しかし、近年、衛星放送などの通信技術やビデオ機器などの普及によって、東南アジアの農山漁村にもさまざまな情報が直接流れ込むようになりました。このような新しい情報の回路を通じて、同じ東南アジアの近隣諸国の情報や先進諸国が東南アジアについて報道した情報などが、村々に住む人々にも届くようになってきています。また、出稼ぎや移民で都市部や海外に流出した村人たちが、これらのメディアを通してふるさとの情報に接する機会も芽生えてきています。

 衛星メディアがアジアの人々の生活にもたらしつつある変化を研究している隈元信一は、衛星メディアがアジア人としての共通イメージを醸成する一方で、「郷愁のメディア」として、ナショナリズムを支える最有力なメディアとなりつつある状況を指摘しています。(「衛星メディアとアジアの文化変容」青木保、梶原景昭編前掲書)このような状況が作り出しつつある新しい文化の傾向は、東南アジアの農山漁村の人々にとっても重要な意味を持つはずです。つまり、自分たちのイメージについての関心が今後増大していくことは確実でしょう。

 このような流れの中で、私たちは、従来、東南アジアの人々に対して一方的に抱いてきたイメージ(それが好意的なものであれ、非好意的なものであれ)を修正する必要に迫られるに違いありません。東南アジアの人々からそのような要求が突きつけられたとき、初めて真剣な異文化間のコミュニケーションが始まるのでしょう。

さいごに〜ミャンマー調査の教訓から

 さいごに、私自身がミャンマーで経験したイメージの交流に関わる興味深い体験をお話しして、この章を終わりたいと思います。それは、一九九四年のミャンマー調査旅行の際、パガンのホテルで行ったあるインタビュー調査に関するものです。

 日本人のビルマ・イメージに決定的に影響を与えた映画「ビルマの竪琴」が一度もミャンマーで上演されていないことに興味を抱いていた私は、ミャンマー調査に際して、パガンのホテルに戦争経験者を含む五人の男女に集まってもらって、通訳を介しながらこの映画を上映し、視聴後反応のインタビュー調査を試みたのです。実のところ、私は、映画が巧みに避けて通ろうとする日本人の戦争責任の問題や日本人が演じるビルマ人民衆の親日的な態度に対して反発があるのではないかと予想していました。しかし、その夜集まったパガンの人々からは、私が思いもしなかった反応が返ってきたのでした。

 以下は、その時の私のフィールドノートの一部です。

 私は、ひとつのシーンが終わるごとに、全員に質問し発言を求めた。

 はじめは男性ばかりが発言した。これに比べて、女性はおおむね控えめだったが、だんだん雰囲気がなごんできたためか発言しはじめた。

 しかし、いったん話がはずんでも、つぎのシーンがはじまるとまた重苦しい雰囲気になってしまった。そのうち、「あー」とか「ふー」とか、溜息が聴こえてきた。どうもそわそわしているのであった。そわそわというよりか、居心地が悪いというか、居ても立ってもいられないという感じだった。

 ・・・・

 ビルマの仏教習慣について、この映画が完全に逸脱していることが次々に指摘された。

「お寺についたとき、そこの僧侶が水島のしている腕輪をみて『こんな位の高い腕輪をしている僧ははじめてだ』とかいいますね。ビルマの僧侶は一切の装飾品を身につけることは禁じられています。時計もしませんよ」

「ビルマでは、僧侶は竪琴を弾いて歌を歌ったりしません」

「物乞いの子どもに竪琴の弾き方を教えるなんてあり得ない」

「オウムを肩にとまらせているのも吹き出してしまう」などなど。

 クレームが、あまりにたくさん出され、その上、通訳の女性もだんだん興奮してきて意見をまくしたてたので、インタビューは混乱し、誰がどの意見をいったか、正確に確認できなくなってしまった。

 私は、当初、この映画をビルマの人々がみれば、当然、日本の戦争責任の問題が話題の中心になるだろうと予想していた。もちろん、はるばる日本からやってきた私に対して、ビルマの人々が無遠慮に日本を非難したりすることはないだろう、しかし、映画が映画である。当然、話はそういう方向に流れていくと思っていた。そうなれば、実際にビルマで日本兵が行った行為とこの映画に描かれているそれとのギャップや、ビルマ人の描き方に含まれている日本人の偏見が発見されるのではないかと考えていた。

 しかし、私の予想は大いに外れてしまった。私が当初予想していたような物語の内容や政治的意味に踏み入る以前の段階で、映像に表現されたビルマの習慣や生活のディテールがあまりに彼らのものと違うため、彼らを入り口で立ち止まらせてしまったのだった。

 この事実から、近年国内で大論争を引き起こした日本のアジアに対する戦争責任の問題について、われわれは多くの教訓や示唆を得ることができるはずだが、それは今はいうまい。

 ただ、印象に残ったことを一つつけ加えておきたい。ビルマ僧に化けた水島上等兵が実は日本人であることがバレバレだと被験者たちにいわれたとき、私は「それじゃ、こんな状況設定はどだい無理なんですね」と聞き返した。この問いに対して、被験者たちは、こう答えたのである。

 「いやそんなことはない。日本人と分かっていてもビルマ人は水島を助けただろう。それは、彼が袈裟をきているからだ。たとえ、それが日本兵だと分かっても、袈裟を着ている限りその人物は護られる。それがビルマだ」

 ミャンマーの一般の人々がもしこの映画を観たとしたら、この映画の意味する世界はずいぶん違ったものに理解されるだろう。日本人が思い浮かべる水島は、ビルマ文化に深く精通し、僧侶の姿に身をやつして危険を避けつつ敵中数百キロを踏覇した聡明な人物。そんな人物が、道中、打ち捨てられた日本兵の遺骸をみてビルマに残留することを決意する。そこに、日本の観客は自己を同一化するのだろう。

 しかし、ミャンマーの人たちは同じ映像から異なった理解を得るだろう。つまり、ビルマの風俗習慣について無知な一人の日本兵が、盗んだ袈裟を着ているばかりに、それと知りつつ助けるビルマの人々のおかげで無事目的地にたどり着く物語として。

 このような被験者たちの見方をどう考えればよいのだろう。それは、来訪者である日本人の私に対してビルマの仏教文化を理想化して語ったものだろうか。それとも、彼らの生活世界におけるリアリティなのだろうか。実際どちらかは分からない。しかし、少なくとも、その言説が公然と語られる社会がそこにあることは事実なのである。そして、それを知ることによって、われわれは今すこし謙虚になれるのであろう。

(「独占された視線〜ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか」『少年育成』一九九六年四月号)

 私のこのような貧しい体験に照らしても、すくなくともつぎのようなことはいえるでしょう。アジアの人々への理解や思いは、たとえ、それが好意的なものであったとしても、相手側からの理解や思いを無視して一方的に抱き続けることはできないということです。理解や思い、つまり、イメージは、その他者が確認することによって、はじめて相互理解へと変わることができるからです。そして、そのような変化こそが、両者の関係を本当に変えていくことができるのではないでしょうか。