イヌイットをめぐる3つの映像がかたる過去、現在、未来

〜「極北のナヌーク」から「氷海の伝説」そして小型ビデオカメラが捉える現場へ〜

『季刊民族学』107号、2004年初春 pp.76-77





 今年の山形ドキュメンタリー映画祭の開催を期にロバート・フラハティの「極北のナヌーク(Nanook of the North)」(1922, 69 mins., video by Home Vision)と「アラン島の人々(Man of Aran)」(1934, 76 mins., video by Home Vision)が上映された。山形ドキュメンタリー映画祭には、フラハティの名前を冠した賞も設けられていることもあって、ドキュメンタリー映画の開祖の一人としてフラハティに対する関心はいまだ衰えてはいないようだ。
 ドキュメンタリー映画監督としてのフラハティの名を一躍世界に轟かせることになった映画は、「極北のナヌーク」だろう。数カ月以上も極寒の地で撮影し、現地で現像されたフィルムは、圧倒的リアリズムと同時に、厳しい自然の中で黙々と生きる先住民ナヌークと彼の家族の尊厳に満ちた生き様をあますところなく描き出していた。欧米でこの映画が公開されると、人々は絶賛をもって彼の作品を迎えた。
 フラハティのモチーフは明快だった。そこには、文明化された欧米とは異質の過酷な自然を生きる「自然人」への尊敬と畏怖のまなざしがあったからだ。映画をみる側にいる「文明人」には及びもつかないような「自然人」のもつ素朴、知恵と忍耐と威厳、それは近代の文明人が失って久しい徳目であった。
 「極北のナヌーク」に見られる「自然人」に対する崇拝のまなざしは、時代をへて形を変えて幾度もスクリーンに登場してくる。たとえば、ヴァン・ダイクの「猿人ターザン」(1932, 99mins, VDV by カルチュア・パブリッシャーズ株式会社)や黒澤明の「デルスウザーラ(Dersu Uzala)」(1975, 141 mins., video by 日本ヘラルド映画株式会社)も自然人への憧憬に覆われている。
 しかし、フラハティをはじめとして、映画における「自然人」の登場は、その大半が近代文明批評という枠組みにおいてである。そこでは、自然人の徳目への賛美は、近代文明を生きる欧米の人々への警鐘や批判はであすが、関心の対象は異文化としての「自然人」の暮らしそのものではない。映画製作者も観客も、その関心の根底にあるのは異文化という鏡に映った自画像、つまり、文明化された自分たちなのである。
 異文化としての自然人は、いつも自己について語らず、自らの価値について無頓着な人々として描かれる。いや、そうだからこそ自然人たちは、謙虚で崇高なのだといわんばかりだ。
 しかし、そのような異文化に対するまなざしは、まさにE・サイードが生涯をかけて批判し続けたオリエンタリズムそのものである。
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 「極北のナヌーク」が山形で上映されている頃、同じ極北の世界にすむ人々を描いた劇映画が日本各地で上映された。「氷海の伝説」(ザガリアス・クヌク監督、2001年、カナダ映画、)である。映画は、極北の地に暮らすイヌイトと自ら呼ぶ先住の人々の伝説を題材に、彼らの自身の物語を余すところなく描いくものであった。物語は人類文化に普遍的に存在するといってよい英雄(ここではアタナグユアトという名をもつ)の追放と帰還の伝説である。映像では、今はすでに失われた民族の伝説的世界がリアルによみがえっていた。
 しかし、この映画がなにより斬新であるのは、脚本、俳優、撮影の大半をイヌイト自身の手で完成した点である。監督のザカリアス・クヌクは1957年に北極のツンドラで生まれたイヌイトである。また、主演のナタール・ウンガラーックも、イヌイト出身の彫刻家である。イヌイトの人々は、そこではたんに撮られるだけの存在ではなく、カメラの背後にいて表現し、撮影する主体として登場している。つまり、この映画は、イヌイトがイヌイト自身の文化と価値を自ら表現した映画なのである。
 「極北のナヌーク」によってイヌイトたちが映像に記録されて以来、80有余年が経った。その間、極北の先住者たちは、ただカメラのレンズを向けられ、ひたすらshootされるだけの存在であった。(shootには「撮影する」と「射止める」の二つの意味がある)しかし、「氷海の伝説」の登場とその映画としての成功は、「文明」の側が独占してきたメディアというまなざしが、先住者の側にも開かれたことを象徴する出来事だったといってよい。
 「極北のナヌーク」と「氷海の伝説」とでは、たとえば人間の描き方ひとつとっても異なっている。前者に登場する自然人が野心や悪徳からかけ離れた超越的な善人(あるいは幼稚で無邪気な人々)としてフォトジェニックに描されるのに対し、後者に登場する人々は、野心、ねたみ、おそれ、性欲を持ち、人類世界のどこにでもいる等身大の人間として描かれる。しかし、他方、後者がイヌイトの精神世界にかかわる儀礼や呪術をイヌイトの文化的文脈にしたがって描きつくすのに対し、前者は、そのようなものは存在しないかのように無視する。
 もちろん、植民地主義が跋扈していた時代に撮られた「極北のナヌーク」と多文化主義が国是として受け入れられる今日のカナダで撮られた「氷海の伝説」とを単純に比較することはできない。ただ、新しい世紀に入って、このようなまったく新しい先住者による映像が世界の隅々で芽生えはじめていることに新鮮な感慨を覚えずにはおれないのである。進化し、ユビキタス化するメディア技術が人々にもたらした巨大な変化の一端がここにかいま見えている。
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 しかし、同時に、メディアがとらえはじめた先住者の世界は、あらたな矛盾の予兆ものぞかせている。
 最近のアメリカABCニュースは、イヌイト語を話すイヌー族出身のポリスマンやカウンセラーたちが小型ビデオカメラを手にイヌーの子供たちの生活の現実を記録する試みをはじめたことを特集で報じた。日本にはNHK衛星放送を通じて伝えられたが、このイヌー自身によって撮影された映像には、イヌーの若い世代のおかれた過酷で出口のみえない閉塞感があまりあるほどに描かれている。
 暖房のない零下40度の酷寒の部屋でガソリンを吸って心の癒しを求める子供たち、窓から直接投げ捨てられた排泄物、アルコールに依存する親たちの姿、水道すらない貧困者住宅での生活。粗末な住宅の壁には、「I see dead people」などというすさんだ心から吐き出されたような落書きが書き殴られている。
 これらの現実がすべてとはいわない。しかし、多くの貧しいイヌーの人々の日常なのだろう。小型ビデオカメラは、それらの生活の触れればひりひりと痛むような現実を克明に写しとっている。
 多文化主義によって民族の自尊心と自信を回復した先住者の知的リーダーたちが、正統な伝統に裏付けられた映画を世界に向かって発信させている。政府もその援助に熱心だ。しかし、その一方で、貧困と自己破壊に苦しむ先住者たちの存在を小型カメラで告発しつづける先住者たちがいる。
 映像メディアは、この同じ文化を分けた先住者のそれぞれにとって、いかなる意味と力を与えるのであろうか。
 もちろん、先住者のエリートたちが製作した映画は、自分たちにとって何が正しい「伝統」文化なのかを規定する役割をこれからも担いつづけるだろう。それに対し、社会問題の現場にかかわるワーカーたちの手に握られた小型カメラは、多文化主義政策を信奉する政府と先住者エリートたちが指し示す「回帰すべき伝統文化」が、底辺にたたずむ人々にとって本当の希望となるのか、それとも新しい幻想でしかないのかを検証する醒めた目となるにちがいないのである。