2004年10月下旬から11月上旬にかけて、(NPO法人)アジア太平洋農耕文化の会が主催するメコン流域踏査団のメンバーとして、メコンを中国雲南省シーサンパンナからラオス・ルアンプラバンまで船で下りながら、周辺に生活する村々を訪ねた。これは友人にあてて書かれた手紙形式の日記である。なお、正式の踏査報告はあらためて同会の機関雑誌『アジア太平洋を歩く』に掲載の予定。
2004
10.30
昆明にて
昆明に着いたのは29日の夜でした。今回は、団長が稲のルーツ研究では世界的な権威の農学者で京大名誉教授の渡部忠世先生。ご高齢ということもあるので、昆明でも随一といわれる昆明飯店に泊まりました。昆明氏は、中国の他都市に比べると、冬に零度以下になることのない温暖な気候をもっていて、住人たちも、上海や広州などに比べると、比較的のんびりした人たちが多いように思います。といって、東南アジアの穏やかな気候を知るぼくからみると、空気は乾燥し、埃っぽく、そこの住民たちがいうほどには、この街が温暖で過ごしやすいとは思えないのですが。
中国の最西南域のシーサンパンナの中心都市、景洪へは、30日の夕方の便で飛びました。着くとそこは東南アジア。滑らかで湿気を含んだ穏やかな空気に満ちています。じとっと汗ばんでくるこの気候は、日本じゃいやなものなのですが、なぜか東南アジアでは、ぼくのお気に入りです。呼吸すると、体の隅々まで柔らかい蒸気に蒸されていくようなそんな気持ちです。ここから、明日早朝、ボートでメコンを下ります。
10.31
景洪から関累へ
景洪は長大なメコン全流域からみると、中流域にあたる拠点都市であるといえます。中国国境は、ここからメコンを2時間ほど船で下った関累あたりで途絶え、それより下流はラオスとミャンマーの国境をながれていきます。途中、ラオスの国内を流れるのですが、面白いことに、だからといってラオスへの入国とは見なされません。というのも、メコンは国際河川なので、この川の上を船で航行している限り、上陸さえしなければ入国とは見なされないのです。ちょうどシベリア上空を飛んでヨーロッパに行くときにロシアの入国ビザがいらないのと同じ理屈です。
景洪から早朝6時に船は出航しました。きっと貨物船に毛の生えた程度の貨客船かなんかだろうと想像していました。だいたいメコンあたりを航行している船と言えば、ぼろぼろの船というイメージがありました。もっと下流でメコンをタイ岸から眺めた経験からいえば、ここを航行する中国船の大半がそういう船だったからです。
でも、乗る船をみてびっくり、それはすごい立派な高速ボートだったんです。時速は40キロほどでる40人乗りの船で、私たち一行の他にも、景洪とタイとを行き来して商売をしているバイヤーたちや国境の関累まで交代勤務にいく入国管理官の一行、それにわれわれの護衛だといって3人の警察官まで乗ってきました。役人の汚職の横行している中国のことですから、どうもこの3人はわれわれの護衛という名目できっと観光旅行なのでしょう。で、この3人分の運賃はわれわれの運賃に潜り込ませてあるんでしょうが、そういうことは、いわないのがここの仁義。
関累からチェンセンへ
高速艇は、メコンを突っ切って滑り抜けていきます。景洪を出航したあと、しばらくは朝霧に覆われた川面を下っていきました。シーサンパンナの朝霧は有名です。それは、この一体が熱帯雨林に覆われているからで、湿気を含んだ大気が朝の冷たい空気に冷やされて霧になるのです。でも、近年、観光開発や熱帯雨林の伐採が進んで、朝霧の出現回数が10年前の半分に減ったそうです。経済発展は、こんな辺境の自然ですら破壊しようとしています。
メコンの両岸は下流部からは想像できないくらいに狭く、まるで保津川下りの様相を呈しています。高速艇は右に左にと梶をきり、ときどき蛇行の大きなところには、ラッパのマークの水路標識がたっていて、ブワー、ブワーと警笛をならしながら進みます。といって、そんなに頻繁に船とすれ違うことはありません。30分に1回程度、下流から遡上してくる貨客船とすれ違います。すれ違うときはスピードをおとし、また、集落のそばをとおるときは、村人がこぐ手こぎのボートをひっくり返さないよう、そこでも慎重にスピードを落とします。でも、それ以外は、ぶっちぎりのスピードで進んでいくのです。時速は40キロ程度でしょうか。この日の行程では、タイのチェンセンまで400キロ弱を10時間で走り抜ける予定なので、その位のスピードはでているはずです。
関累につくと、船内には大勢の出入国管理官が乗り込んできて、のろのろと手続きを完了し、出国となります。警官たちともここでお別れ、高速船はふたたび一気呵成に下流を目指してばく進していきます。
関累からはラオス領を通過していきます。船の右側(右岸)は、ミャンマー領ですが、どっちも同じ。渓谷にはほとんど人家もありません。ときおり、山肌が露出した耕作地が峰の上層に広がるのが観察されます。そして、その山肌に張り付いたように、草葺きの小屋が建っています。おそらく焼き畑でしょう。焼いた後に残る立ち枯れた木々が、そこが焼き畑であることを証明しています。焼き畑はラオス側にもみられました。
焼き畑は、そのサイクルさえ守ってやれば、環境破壊を伴わない、持続可能な農業なのです。ラオスもミャンマーも貧しい社会主義国ですから、今のところ、経済第一主義の中国やタイとはちがって、このまま焼き畑を続けても、問題なさそうです。山岳少数民族の唯一の生活手段なのですからね。焼き畑が問題なのは、もちろんタイです。経済発展の進行によって、これらの国々の山岳住民も消費が刺激され、現金収入の増大をもとめて焼き畑のピッチをあげて無理な増産を始めているからです。両岸に連綿とつづく熱帯雨林の運命も風前の灯火なのでしょうか。などと、いいつつ、実際、ボートのデッキから眺め続けている熱帯雨林はいつつきるともなく、はてしなく続いていて、うんざりしていますが・・・。
いくど蛇行したことでしょうか。ようやく人家や集落がときおりみられるようになってきました。チェンセンまでにはあと2時間ほどです。
ミャンマー側には、ビルマらしい仏教寺院がときごきその絢爛豪華な姿を現します。ビルマのお寺はほんとうに立派ですね。民家の粗末さと比べて、その差のなんと際だったことか。でも、それがビルマの人々の選択ならそれでよいのでしょう。
周囲の流れは、もう急なところはなく、ぼくの馴染みのゆったりとしてとろりと褐色の乳液のようなメコンの姿に変わっています。高速艇はタイ、ビルマ、ラオスの3国の接点であるゴールデン・トライアングルを通過し、チェンセンの港に着きました。今夜は、このゴールデン・トライアングルにあるホテルで泊まります。ゴールデン・トライアングルはかつて世界の麻薬生産の70パーセントを占めていた麻薬無法地帯、今日のアフガニスタンのような土地でした。そういうあぶない魅力的雰囲気はすでに過去のもので、タイの発展の結果、タイ、ラオスでのおおっぴらな麻薬栽培は表面的にはなくなりました。でも、ビルマではまだ栽培されているという話を聴きます。そして、山岳少数民族の間では、麻薬問題はまだまだ深刻な状態にあるということを後で知るのですが。
ゴールデン・トライアングルでは、麻薬は表舞台から退場しましたが、そのかわり、ここはギャンブルのメッカ。貧しいビルマがこの地帯に巨大なカジノを建設。裕福なタイ人が、この対岸のホテルに泊まって、ギャンブルに出かけていきます。ぼくが最初にこの土地を訪れた17年前には想像も付かなかったような事態があっという間に進行していました。
11.2
アカ族のムラ
チェンライ県ホワイ郡メイサイ村にあるアパーパッタナというアカ族のムラを訪問しました。このメイサイ村には、7つのムラがあり、そのうち、ミヤン族(ヤオ族)のムラが1つ、アカ族のムラが4つ、ラフ族のムラが2つあります。その2つのアカ族のムラのうちのひとつを訪ねました。このムラの人口は34戸、約200人で、アパーパッタナーというムラの名前は、パッタナーというリーダーが拓いた開発(アパー)村という意味です。アカ族というのは、民族の自称で、かれらは自分たちのことをアカと呼んでいますが、中国では、ハニ族とよばれていて、タイ語では、イコー族と呼ばれています。タイでは山岳少数民族に対する厳しい差別や蔑視感情があるので、タイ語で使われている民族名称を使うことは、注意しなければなりません。
アカ族のムラは、タイ以外にも、ビルマ、ラオス、中国雲南省に広い地域に分布しています。今回訪問するムラの特徴は、慣習的なアカの文化を意識して保存しようとしているムラで、このムラのリーダーであるパッタナーさんが率いているのですが、このリーダーが慣習的文化の保存に熱心に取り組んでいるわけです。こういう熱心なリーダーは、どこの世界にもいるものですよね。日本でも、村興しに成功している多くのムラには、こういう頑張り屋でアイデアマンのリーダーがいるものです。そういうリーダーがいるかどうかで、たいへんな違いがあります。
さて、アカの人々がこの土地に定着したのは約10年ほど前からで、それ以前は、海抜1200メートルほどの高地を移動生活していたそうです。定着のための土地は、地主から1年単位の契約で借りていて、その地代を払うためにも、ムラは現金収入を上げる必要にかられています。農業は、稲作とトウモロコシ栽培とを1年おきに行っていて、生産したトウモロコシは、シンガービールでお馴染みのブンロード社が全量を買い上げることになっているとのことでした。買い上げ価格は、1キロ2.5〜3バーツだといいますから、日本円に換算すると、1キロの価格が7〜8円ということになります。日本と比較すると、とんでもなく安いということになりますが、北タイの山間地での全品買い上げの相場ということなのでしょう。それにしても、バンコクの消費物価を考えても、この価格差はきわめて大きいと思われます。
一方、米作は換金ではなく、自家消費のために行われています。しかし、消費量の方が生産量よりも大きいので、34戸中、米を自給できているのは3〜4戸にすぎず、ムラとしてみると、自給は成り立っていません。だから、一部の農家は米をわざわざ買って食べているのが現状です。そのための現金収入は、もっぱら日雇い労働に頼っていて、男性はチェンライなどの都会へ、肉体労働を捜して出かけていきます。しかし、近年まで市民権が与えられていなかったので、国内を移動するにも一定のリスクがあったそうです。法的には、市民権を与えられる十分な条件を満たしている人にも、タイの末端の警察や役人が賄賂を要求したり、恣意的に権利を制限したりして、市民権(タイでは、IDといいます。つまり、移動の際に検問などで見せるIDカードとしての意味がこれらの人々の中にはもっとも大きな意味をもっているからでしょう)をもてなかったのです。さいわい最近は、そのような状況は改善されつつあり、比較的容易にIDをもつことができるようになりました。しかし、だからといって生活が保障されるわけではありませんから、逆に移動の自由が与えられただけでは、ムラを棄てて都市に働きにでる人々が増え、ムラの崩壊が進むと言った事態も起こっています。これは、高速道路ができると、村の人口が流出するという日本の公共事業とどこか類似していますね。
移動をせず、定着を決めた彼らは、もはや焼き畑ができないので、企業から借りた限られた土地を耕すので、土地の消耗が大きく、自給用のコメにも肥料と農薬を投入しているのだそうです。リーダーは、肥料の一部には有機肥料の使用を試みているといっていましたが、それでも、殺虫剤や肥料などにかかる費用は貧しい村人にとっては、けっして小さな負担ではないでしょう。
村には大きな自動車は入らないため、道路沿いに車を置いて、そこから村までの長い上り坂の道を歩きました。舗装はされていませんが、村人の手によって、大切に整備されていることが分かりました。かつて、中国の雲南省側のハニ族の村を訪ねたときも、村に続く土道をたくさんの村の若者たちが共同で補修している風景に出会ったことがありました。ただし、この村には、雲南のハニ族の村でみたほどたくさんの若者はみませんでした。近くにある学校に通っているか、寄宿舎に入っているかなのでしょう。訪問したのが昼間の時間帯でしたから、若者にであうことは少なかったのかも知れません。ただし、主婦だと思われるおばさんたちには、たくさん出会いました。村に私たちがやってくるということを知っているのでしょう、自分たちで製作した民族衣装や織物、手提げカバンやアカ特有の装身具を私たちに買ってもらおうと家のまえに陳列し、すこしはにかみながら、小商いに精を出していました。
値段は、バッグが2〜300バーツだからそれなりの収入にはなるはずです。でも、村にそう頻繁に観光客がくるとは思えないので、きっとこれらの民芸品を持っていって、もっとたくさんの観光客がやってくるチェンライの市場や観光地周辺の路上で売るのでしょう。なかなかそれも厳しい仕事だなと感じました。
アカ族のムラの入り口近くには、高い木を組み合わせて作ったブランコが作られていました。そのブランコにアカ族の未婚の女性たちが乗って高く高く舞い上がるお祭りがあるそうです。他にも、アカ族だけでなく、少数民族には、若い人たちを出会いや結婚に導くためのいろいろな社会的な仕組み(制度)があるようです。決まった土地に定住し、平生から互いに知り合うことが容易で出会いの機会も多い定着農民とは違って、山岳地帯の標高の高い場所を転々と焼き畑をしながら移動してきた山岳民族には、定住民にはみられない積極的な出会いをつくり出してゆく必要があったのでしょう。このような解釈の仕方は、機能主義的過ぎるのかもしれませんね。機能主義というのは、制度や風習を理解するときに、その風習や背エイドがその社会の維持にどう貢献しているかという機能面から理解しようとする学問上の方法です。
タイ社会の主流派である定住農民とは異なった山岳少数民族の文化や風習について、とりわけ、アカ族の女性については、タイ社会の中に多くの俗説が信じられていて、それがまことしやかに日本にも伝わっているものもたくさんあります。たとえば、典型的なものが、アカ族が母系社会であるという説がそうです。Kさんも指摘するのですが、アカ族の男性は、自分の父方の家系をたどるために、数十代にさかのぼる父方の系列の男性の名前、つまり、おとうさん、おじいさん、ひいおじいさん、そのまたおじいさん、というように、数十代の男系の家系の名前をほとんどの男性が暗記しているそうです。実際、このムラのリーダーであるパッタナーも、26代前までの男系の名前をすらすらと空で暗唱してくれました。そのような名前を代々継承しているという事実からみても、アカの社会が女系社会であるという説は根拠の薄い俗説であるということがいえます。
ところが、タイでは、アカ族は女系社会で、結婚前の女性は強い魅力的な男性を獲得するために、結婚とは関係なく、異性との性的関係を結ぶのだとされています。豊田三佳さんという文化人類学者は、このような説はタイ社会の多数派であるタイ人たちが、少数民族の人々をことさらに自分たちとは異なる「野蛮な」風俗(女系社会だとか、婚前性交の風習とか)をもつ他者(自分たち「身内」とは違う他者「よそ者」)であると強調し、差別してきたことに原因があると述べています。Kさんによると、最近もアカ族の人々について、たいへん差別的なテレビ番組が放送されたといいます。その番組の中では、アカ族の女性が池の水につかると、彼女の周辺にはたくさんの魚が死んで浮き上がってくるというシーンが挿入され、いかに山岳少数民族の人々が、不潔でからだが汚れているかを露骨に表現していたそうです。タイの一般の人々は、アカ族の人々と接すると、「あなたお風呂はいってるの?」などと本気できく人もいるそうですが、このような差別的なテレビ番組が現在も平然と放送され、それに抗議する声も小さく、謝罪すら行われないと言う現状がこのような差別をまだまだ根強いものにしているのでしょう。
11.3
チェンコン(タイ側)からフェサイ(ラオス側)へ、そしてふたたびメコンを下る
さて、この文章は、バグベンの安宿のベッドのなかで、書いています。バグベンは、チェンコンとルアンブラバンの中間にあたるメコン川岸にある谷間の小さな町です。町というより、船着き場の周りに集落が形成され、外国人(もっぱら旧植民地宗主国のフランス人)の旅行者も泊まるようなちょっとしゃれたロッジもあるような、そんな町です。
しかし、ぼくの泊まっているのは、バッグパッカーの若者が泊まるような安宿で、今は、夜の10時過ぎなのですが、いつ電気が止まるかを心配しながら、この文章を書いています。
さて、チェンコン(タイ側)から対岸のフェサイ(ラオス側)へは、8人乗りの渡し船でメコンを渡ります。メコンの流れは、想像するよりずっと急で、自動車エンジンを剥き出しにして再利用した渡し船の馬力でも、船は、川の途中で大きく下流に蛇行して、ようやくあえぎあえぎ対岸のラオスに到着するのです。
ラオス側では、のんびりとした入国管理官が、日本で準備してきたビザを一瞥して、けだるそうにポンとスタンプをつけば、それで入国手続きは完了です。国際船着き場(といっても、本当にちんけな田舎の渡し船乗り場)からトクトクという4輪乗り合い自動車にゆられて、国内航路の船着き場にでて、そこであらかじめ旅行社を通じてチャーターしておいたボートに乗り換えて、メコンを下ります。
ラオス入国からは、有能なラオス人通訳がひとり同行してくれることになりました。総じて、ラオスの日本語ガイドは、優秀です。ぼく一人での調査の場合は、東南アジアに限らず、通訳は日本語通訳ではなく、英語通訳を頼むことにしています。というのも、総じて、言語的に習得の難しい日本語の通訳より、英語通訳の方が質の良い通訳を適正な契約料で雇うことができるからです。でも、今回は、英語のできない参加者を含む共同踏査ですから、日本語通訳が必要なのです。その結果は、ラオスの通訳はなかなかよいという結論です。きっとタイなどの経済成長の著しい国では、日本語がそこそこしゃべれるなら、旅行者の通訳などをするよりもっとよい稼ぎ口があるのでしょうね。
さて、まるで屋形船を思わせるような中型船に乗って、ここから再びメコンを下り始めました。
上流部にくらべて、この当たりではメコンはずいぶんと川幅も広くなり、景洪をでたころに比べれば、安心して乗船することができます。
ここからバグベンまで、7時間の道のり、いや川乗りです。途中、興味深いものをたくさんみました。葬儀があったのでしょうか、死者の人型をながす舟形の流し飾りをいくつかみることができました。人型を船の形をあしらった飾り物にのせ、メコンの川岸におき、そのうちメコンのながれとともにながれさっていくままにしておくのです。メコン周辺のムラでは、死者はメコンに流されて極楽へと誘われていくのでしょうね。ラオスは仏教の信仰の厚い国ですが、人型を流すというような原始的な精霊信仰も共存しています。ようするにシンクレティズムの世界なのです。
焼き畑については、想像よりはるかに広大な山肌が焼き畑で丸坊主にされていました。とりわタイ側の集落に隣接する山々の森林破壊は激しいものでした。
チェンコンから2〜3時間下った辺りで、メコンは完全にラオス領内に入ります。ここからは、両岸ともラオス国内を流れることになります。といっても、はっきりと国境が明示されているわけではなく、あの辺りの岩山を過ぎた辺りが国境だといわれるので、そうかと信じるだけですけれど。ということは、先述の山岳少数民族の村人たちは、簡単に国境を意識することもなく越えて自由にこのインドシナ諸国を往来しているんでしょうね。国境にしばられて、やれパスポートだ、やれビザだと騒いでいるのは、この辺りでは私たちだけなのかもしれません。
バグベンにて
バグベンに着いたのは午後5時を回っていました。川ではたくさんの人々がメコンの水で水浴をしていました。女性たちは、腰巻き様の民族衣装で巧みに体を隠して、メコンの川水に体を浸して上手に水浴びをします。でも、細かな泥を含んだ褐色のミルクのような水を浴びて、きれいになるというのは、ぼくの目にはどうにも信じがたいものがあるのですが、地元の人々はメコンできちんと水浴できるのでしょう。
成田の検疫所が出している海外感染症情報では、ラオスにはメコン住血吸虫という恐ろしい原虫がいるとあります。それに感染すると、肝臓などの内臓をやられ、最後には命に関わるとありました。だから決して裸足でメコンに浸かってはならないとあります。ずいぶんと脅かすじゃありませんか。だって、こんなにたくさんの人々が気持ちよさそうに水浴しているんですから。こういう脅かし方をすることが、どれほど現地の人々と旅行者の間にすきま風を吹き込んでいるか、日本の厚生省のお役人はもっと自覚しなくちゃいけません。
といっても、今回メコンで泳ごうと準備してきたぼくを躊躇させたのは、住血吸虫ではなくて、メコンの水の意外な冷たさでした。チベット高原の源流から一気に流れ出してくるメコンの水は、熱帯の東南アジアに着いても、まだまだ冷たく、地元でその冷たさに慣れた人々でないと、なかなかそううれしがって泳げるものではないのです。この冷たさが、メコン独特の神秘的な朝霧の発生原因ともなるのでしょうね。褐色のメコンに立ちこめる朝霧は、周辺をとっぷりと包み込み、周りの風景をセピア色に変えてしまいます。メコン流域研究の大家の一人、石井米雄氏は、「メコンはセピアが似合う」といいましたが、そのとおりです。
さて、船をつけ、船を操縦してきた船員さんたち(といっても、同族経営のようで、奥さんらしき人も操船を手伝っていました)も近くの宿に一泊するのでしょう。ぼくたちも、宿に落ち着きました。宿は、ぼくが東南アジアのフィールドワークを始めた20年前のタイの田舎の宿にたいへん似ていました。もちろんお湯のシャワーはありません。水だけです。そして、バスタブももちろんなく、シャワーの水はそのまま床に垂れ流し。窓はガラスが入っておらず、山間の冷たい空気が直に室内に流れ込んできます。部屋の壁には、トッケィというヤモリがもの悲しく鳴いています。
このバグベンの町は、ほんとうに真っ暗です。街灯もないし、建物の照明も薄暗いのです。でも、メコンにそって口を開いた夜空には、南国の星々が輝いています。タイでは、天候の加減でかすんでみえなかった星々が、みごとにすっきりと見えます。それに、メコンの川岸から聞こえてくる流水の響きが夜の暗闇にただひとつ轟いています。
明日は、ここからまた6時間の旅をへて、ルアンブラバンへと向かいます。
11.4
バグベンからルアンプラバンへ
バグベンの安宿での朝食は、それでも、しゃれたフランスパンがすこし焙られて食卓を飾ります。元フランス植民地の名残が、思わぬ楽しみを提供してくれるのは、なんとも複雑な心境です。カンボジアもそうでした。フランスパンが美味しいのですよ。南太平洋でも、フランス領タヒチは当然として、仏英の共同統治下にあって現在は独立を果たしたヴァヌアツ共和国でも、フランスパンの美味しい朝食を食べることができるんです。それに比べて、イギリスの植民地統治にあった国々は、みごとになんの置きみやげもなく、ただただ伝統的食文化の破壊だけが残されているだけで、ほんとうに情けない状態でした。大英帝国のやったことは、この点だけでも決して許されないことだと言わざるを得ません。
バグベンを早朝に船出しました。昨日と同様に、メコンをひたすら下ります。今回の最終地のルアンプラバンまで、6時間の船旅です。それだけ下っても、まだメコン全体の4分の1程度を下ったに過ぎません。さすがアジアで3番目に長い河川だと感心するばかりですが、世界では14番目に過ぎず、ただただ世界の長大さを思わずにはおれません。
途中、興味深いものをみました。砂金掘りです。メコンの川岸で、大きな円盤状の笊を巧みに揺すって、砂金を掘っているんです。それをめざとく見つけたのは、東南アジアの民具を専門に収集している博物館の館長氏ではありましたが、その道具がどうしても欲しいようでした。でも、残念ながら船はどんどんとメコンの流れに押し流されるように、下流に向かって進んでいき、砂金堀りたちの姿はあっという間に、見えなくなってしまいました。で、私もカメラをカバンから取り出すこともできず、写真すらありません。
ルアンプラバンに到着したのは、午後4時を少し回る頃でした。太陽が川面にきらきらと縞模様をつくるころ、寺院から河岸まで連なる長い階段状の船着き場に細長い木造の船体を軋ませながら横付けし、今回のメコン下りの長い旅はついに終着を迎えました。そこでラオス人の荷揚げ人に依頼して、重いスーツケースを階段の遙か上の道路まで担いでもらい、すでにお馴染みのトクトクに乗車して、ホテルまで十数分の道を進みます。
ホテルは、ずいぶんと奮発してルアンプラバンでもっとも格式の高いPHOU VAO HOTELでした。宿泊費はずいぶんかかるのでしょうが、最後の滞在先をゆとりを持って過ごせるでしょう。帰国すればすぐに授業やなんやかやで休む時間もないでしょうから、最後の2日間をここで過ごすことも許されるでしょう。
このホテルの経営者はフランス人で、ホテルの設計もフランスの企業が請け負ったとのこと、すでにお話ししたように、ラオスは元フランスの植民地で、フランスの観光客は、このホテルのもっとも大きな得意先でもあるんでしょう。
ホテルのバーでも、英語よりフランス語の方がよく通じるのです。ぼくのフランス語は、本当に片言程度なので、結局、英語で押し通すことになってしまうのですが、もうすこしフランス語をやっておけばインドシナでの調査はやりやすかったのでしょうね。こういうときは、英語しか話せないことの劣等感を感じざるをえません。
ルアンプラバンについては、とくにいうことはありません。ラオス最大の仏教都市で世界遺産にも登録されています。街中のメインストリートには、ちょうどぼくが子ども時代の京都や奈良でよく見たように、白人の観光客があふれ、彼らに居心地のよい場所を提供する喫茶店やカフェが軒を連ね、その間に、おみやげ店が間口一杯に商品を所狭しと並べている観光地共通の風景が現出しているからです。この街について、知りたければ、その辺の通俗旅行書を読んでください。
さて、ここルアンプラバンを離れて、タイのバンコク、ソウルのインチョン空港を経て、日本に帰るのには、まる24時間かかります。それはそれで、結構長い旅なのですが、とりあえず今回のメコン流域踏査の旅日記をここで終わります。