裏返しのメディア論

ネット世界を遊行する芸能民は生まれるのか。

『季刊民族学』1152006年春

 

 数年前、東京渋谷にある、塙保己一ゆかりの温故学会講堂で最後の琵琶盲僧、永田法順氏の琵琶の弾き語りを聴いた。講堂というほどには広くない座敷にすしづめにすわって、法順氏の声明にひたすら耳をかたむけた。弦の切れはしを弦上部にはさむことによって発する、すこしくぐもったサワリという独特の音色の琵琶のしらべ。それとともに、飴色とでも表現すればよいのだろうか、無駄と無理の微塵もないまろやかに熟成した肉声が、なめらかにひびきわたる空間に身をゆだねた。法順氏が弾き語るいにしえの仏教説話に眼をとじて音に神経を集中させると、すしづめで身動きできない体が、嘘のように解きほぐされていく。この愉悦を言葉で表現するのはむずかしい。こういう盲僧の弾き語りを日常の中ではぐくんできた宮崎県日向の檀家衆は本当に贅沢で幸福な人々だと、嫉妬すらおぼえた。

 この法順氏の弾き語りの記録が、このたび、DVD映像と音楽CDとなって出版された。(「日向の琵琶盲僧・永田法順」発行:琵琶盲僧・永田法順を記録する会、発売:(株)アド・ポポロ06-6765-2898)さっそく取りよせて、DVDプレーヤーにディスクをつっこみ再生ボタンを押した。法順氏のあの飴色の弾き語りが部屋一杯に広がって、あの愉悦の時間があざやかによみがえってくるのだった。

 この記録の出版にたずさわった人々は、さぞ満足しているだろうと付録の解説を読んだ。すると、予想とは違って、そこには彼らの無念さが充満していた。今は、まだ元気で活動をつづける法順氏である。盲僧琵琶という民衆芸能をどうにかして継承できないものか。祈りともいえるような編者たちの願いが解説文に満ちあふれていた。

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 かつて琵琶盲僧と瞽女(ごぜ)といえば、日本の遊行芸能集団の双璧ともよべる存在であった。しかし、その一方である瞽女は、すでに歴史にのみ名を留める存在になってしまった。この失われた瞽女唄を収録した貴重な記録映像として「新日本紀行・瞽女の道〜新潟県・上越〜」がビデオパッケージとして復刻されている。(編集:NHK、発行:NHKソフトウエア、発売:日本ビクター、放送昭和471月)ただ、オリジナルの番組が収録された時点ですら、すでに遊行としての瞽女は途絶えており、映像はそれを懐かしむ村人と、かつて遊行をした瞽女たちの交流が写しとめられているのみである。

 これをおもうと、もう一方の盲僧琵琶は、日向に現存し、それも、実際に檀家衆の日常的な「信仰儀礼」の中で息づいている。DVDには、檀家周りをする法順氏と、ごく当たり前の日常の出来事として彼を迎える檀家衆の交流がたんたんと記録されている。盲僧琵琶がこのようなゆたかな生活世界の中で生かされていることに驚きを禁じ得ない。だからこそ、いっそう、それが失われようとしていることを残念に思う編者たちの気持ちもひしひしと伝わってくるのである。

 DVDほど、このような民衆芸能を記録する媒体として適した映像メディアはないと思う。ビデオテープに比べて製造も安価だし、保存性も優れている。それに、音楽CDと形状も同じなので、同一の仕様でパッケージ化できるからだ。たとえば、最近、小沢昭一氏が1980年代に日本各地で採録した放浪芸の映像がDVDで復刻されたりしている(「小沢昭一の新・日本の放浪芸〜訪ねて韓国・インドまで〜」発売:日本ビクター、1984年収録)が、それもこのメディアの利点をものがたるものといえよう。

 しかし、ここですこし別の視点で考える必要もあるのではないか。そもそも近代のメディア技術は、このように失われようとしている無数の民衆芸能や歌謡を記録してきた。しかし、他方で、産業としての近代メディアこそ、市場原理の名の下にポピュラー文化を大量生産することによって、近世社会がゆたかにはぐくんできた民衆芸能の多様性を根絶やしにした張本人ではなかっただろうか。

 芸能民から芸能人へ、ライブからメディアへ、遊行からキャンペーンツアーへと近代のメディア産業とそれに支えられたポピュラー文化は、生業(なりわい)としての芸能の姿を激変させたのである。この過程で、生業を奪われた芸能民たちは、メディアによってノスタルジックな体裁をほどこされて、無害な「無形文化財」や「映像アーカイブ」の中に封じ込められていった。のではないだろうか。

 だから、この無害化されたノスタルジーこそ、最大の曲者(くせもの)なのである。にもかかわらず、多くの良心的な記録者たちも、無意識に仕組まれたこのノスタルジーの虜になっている。DVDに記録された法順師の姿をみつめながら、記録者たちの無念さに共感しつつ、歯がゆさも感じずにはおれなかった。

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 ノスタルジーでないとすれば、民衆芸能を記録する映像に加えられるべき視点はいかなるものか。そういう問いに呻吟しているとき、若い大学院生が制作した1つの記録映像がわたしの心をとらえた。以前にも紹介した京都大学大学院の川瀬慈氏がエチオピアの職能的芸能民であるラリベロッチの生活を記録した映像である。(映像は未発売であるが、http://www.tsuno.org/ef/art/lalibeloch.htmlで、その音声の一部を試聴できる)

 ラリベロッチは、エチオピア北部におるアムハラ地方を転々と移動しながら音楽職能民として生きる人々である。かれらは男女のペアで行動し、家々で門付けの合唱をして歩く。その歌には住人からを喜捨や食べ物を引き出すという明確な目的がある。川瀬氏の解説によれば、だから、もし住人が充分な金や食物をラリベロッチに施さないなら、「恐ろしい呪いの文句が彼らを待ち受け……一家の貧苦、はては家族全員の死を招く呪いの言葉を残して、ラリベロッチは朝靄の中どこへともなく消えてゆく」のだそうだ。

 今秋ニューヨークで開催されたマーガレット・ミード民族誌映画祭に出品されたこの作品は、多くの人々の関心を引きつけたという。なかでも、わたしが注目するのは、ラリベロッチたちのしたたかな生存戦略である。ラリベロッチを撮影しようとカメラをかまえる若き人類学者の存在すらたくみに利用しながら、かれらは門付けし喜捨を誘っていくのである。なんとたくましい人々であろうか。映像は、けっしてノスタルジーに流れることなく、この現代アフリカを遊行する芸能民がその過酷な生活世界をしぶとく生き抜くための適応戦略をしっかりと写し取っている。

 日向の琵琶盲僧についても、それはいえることかもしれない。DVDの映像を注意深くみると、ノスタルジックに潤色された風景とは異質な表象がそこに映り込んでいることに気がつく。たとえば、法順氏を見送る若い夫人の、栗毛色に染められた美しい髪が意味するものはなにか。枯れた琵琶盲僧というステレオタイプ化されたイメージとは別のなにかがそこに隠されているかもしれないことを、それは予感させる。ただ、それはあくまで予感でしかなく、その実体は、今のところ解き明かされてはいない。しかし、もしそれが解き明かされるなら、この滅びることを「約束」された芸能は、メディアによって新たな復活のチャンスを手にすることができるかもしれない。

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 放送電波にのり、マスメディアの脚光をあびること、そして、パッケージを大量販売することを究極の目標としてきたポピュラー文化としての芸能の姿は、今、デジタル時代を迎えて急速にその姿を変えようとしている。劣化することなく無限にコピー可能なデジタル技術は、大量生産・大量消費に依存する芸能の土台をくずしかねない。他方、インターネットのブロードバンド化に象徴されるようなメディア環境の変化は、芸能者にとって新しい生存のモデルを提供するかもしれない。

 ここでわたしたちは、かけがえのない盲僧琵琶の弾き語りが、わずか千戸の檀家によって支えられているという奇蹟のような事実からもっと多くことを学ぶべきなのである。ネットワーク化された今日のメディア環境が、このような千個の檀家をいくつも紡ぎ出すことができれば、「芸能人」ではない多様な芸能者たちが生存する世界をいくつも築けるにちがいないからである。ネット世界を遊行する琵琶法師や瞽女たちがいたって、それはそれで素敵ではないか。