ポスト・コロニアルな時代に交錯する視線
〜マーシャルローとパレステチナ自主制作ビデオ群〜

「裏返しのメディア論」連載1

『季刊・民族学』no.101, 2002夏, pp.92-93.


 古い友人から久しぶりに食事に呼び出された。彼は、阪神淡路大震災の後、ずっとボランティアを続けてきた。神戸の飲茶レストランでテーブルを囲んだ私に、彼はニューヨークのグランドゼロに神戸の被災者を代表してひまわりの苗を植えてきたのだ、と感情を抑えながら語った。彼は、グランドゼロとは昨年の九月一一日に起こった同時多発テロによって崩壊したビルの跡地を指し、そして、理不尽で受け入れがたい死と犠牲を強いられた市民という一点で神戸とニューヨークは共感を分かち合うことが可能なのだと語った。ひまわりはその共感と癒しを媒介するシンボルなのだといった。
 震災後、PTSDという精神医学の概念がメディアを通して広がり、市民たちの日常的言語空間にも登場するようになった。ニューヨークと神戸の市民は、このことばに敏感に反応する感性を共有しているという一点において、たしかに共感によって結ばれたひとつの共同体の住人といえるのかもしれない。
 しかし、そのような他者に対する共感は、私たちが生きる今日の世界にあまねく及んでいるわけではない。人々に共感をもたらす想像力というものには、現実の世界の分断に相応した亀裂や断層が存在している。人間は、同時多発テロによる惨劇、未曾有の震災による被災、民族抹殺政策によるジェノサイトなど、歴史的にも成因的にも異なった諸事態の中に、癒しを求める被害者・被災者の存在という共通する概念の連鎖を見いだしていく思考の力を持つ一方、ひとたびそこに反テロという観念を導入した途端に、アフガニスタン空爆による犠牲、パレスチナ武力占領が引き起こす住民の悲劇、といった第三世界の悲惨や苦悩を、先ほどの連鎖から見事に断ち切ってしまうのである。
 このような断層を埋めていく作業が必要なのだが、それはメディアにとってもいえることに違いない。

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 昨年九月一一日の事件のあと、反撃を待ち望むアメリカの世論の中で、在米アラブ人たちが孤立し迫害への危機感を募らせているというニュースがあちこちから聞こえてきた。そのとき、友人の社会学者が「ハリウッド映画『マーシャル・ロー』そっくりだ」(The Siege、エドワード・ズ ウィック監督、一九九八年、アメリカ)といいだした。そういわれて、私もこの映画のことを思い出した。確かにこの映画で描かれた状況とテロ事件後に生じた現実とは多くの点で一致し、不吉な予感を抱させるものだった。
 映画のストーリーはこのようなものだった。アメリカで大きなテロが発生する。その影の指導者と疑われるイスラム導師の拉致を軍が国際法を無視して秘密裏に強行する。一方、拉致された導師の解放を求めて、イスラム過激派がニューヨークで連続テロを起こし、数百人規模の市民が犠牲となる。政府は、新たなテロを封じるため戒厳令を布き、忠誠心厚い将軍(ブルース・ウィルス)にその指揮権をゆだねる。しかし、将軍はこともあろうに導師の拉致を指揮した張本人だった。将軍は、即刻、テロ抑止の名目でアラブ系住民に対する無差別の大量逮捕を開始していく。その措置に多民族都市であるニューヨークの宗教団体やエスニック団体が反発、デモを呼びかける。将軍はデモ鎮圧に乗り出し、一触即発の事態を迎える。そんな中で当初より犯人の捜査を続けていたFBIの捜査官(デンゼル・ワシントン)がCIA女性オフィサー(アネット・ベニング)の協力を得て、犯人を突き止める。なんと犯人は、女性オフィサーの情人で、反イラクのゲリラとしてアメリカに訓練された後、切り棄てられたパレスティナ出身の知識人だった。さらに、捜査官は、導師拉致の背後に将軍がいたことを突き止め、将軍を逮捕と市民との衝突を危機一髪で回避する。
 映画は、ニューヨークの多民族都市としての特徴を肯定的な視点から巧みに描いている。さらに、太平洋戦争下の日系人強制収容にも言及し、テロの恐怖の中にあっても民主的制度を守ることに価値を置く辛口のエンターテインメントに仕上がっている。

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 ところが、この映画が上映されたとき、在米イスラム社会から厳しい批判が巻上がった。映画には、テロリストがテロを実行する直前にイスラムの様式にしたがって沐浴をするというシーンがある。在米モスレムたちは、このシーンがテロとイスラムの儀礼とを安易に結びつけるものとして、敢然と抗議の声を上げたのである。
 私は、恥ずかしながら、そのような抗議の声が上がるまで、映画の中にそのようなシーンがあったことすら忘れていた。しかし、モスレムたちには、そのシーンの持つ無神経さに絶えられなかったのだろう。
 ハリウッド映画に登場するアラブ人たちのイメージは良くない。その多くは、アクション映画に登場する頭の悪い残忍な人相のテロリストたちである。しかし、「マーシャル・ロー」のアラブ人テロリストは決してそのような卑賤なイメージとしてではなく、理知的で人間の顔を持つ存在として描かれていた。にも関わらず、映画はイスラム社会の激しい抗議に曝された。おそらく描かれるテロリストがリアルであればあるだけ、その男がイスラムとテロとを結びつけて描かれることに、マイノリティたちは反発を抱くのだろう。ハリウッドの良心とマイノリティたちの心情との間には超えがたいギャップがある。そして、そのギャップは、先に述べた思考の断層と深く重なっている。
 そのような断絶を埋めてくれる一群のメディアが、パレスチナ人の周辺に定着し彼らの生活を見つめ続けるNGOやドキュメンタリストたちが発信する映像作品である。九月一一日の事件以前からパレスチナ発のビデオメディアに関心を向けてきた友人の映像作家がこまめに収集し送ってくれたビデオ群が私の手元にある。
 たとえば、「Seeds of War in Jerusalem - The Israeli Settlement Project on Abu Ghneim Mountain 」(Alternative Information Centre/BADIL、一九九七年)はオスロ合意後も継続されるイスラエルの入植によって崩壊に直面するパレスチナ人の村の状況について、また、「Jerusalem: An Occupation Set in Stone? 」(Palestine Housing Rights Movement、一九九五年)は、占領下のエルサレムに住むパレスチナ人の生活の重苦しさや圧迫について伝えてくる。他方、映画作品に目を向けると、たとえば、「石の賛美歌」(ミシェル・クレイフィ監督、一九九〇年、ベルギー)は、パレスチナ人男女の再会のドラマに実際のドキュメンタリー映像を組み込んだ作品だが、パレスチナに生きる人間の苦悩と心情が、Hiroshima: Mon Amour(「二四時間の情事」、アラン・ルネ監督、1959年、フランス)のオマージュとして静かに描かれている。

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 地元出身の映像作家やNGOが制作したこれらの映像は、私たちが日常的に馴染んだテレビ・ジャーナリズムの文法である中立性を装わず、はっきりとパレスチナの視線に立つ。しかし、だからこそ、パレスチナのアラブ人たちが何を考え、どう感じているのかを伝えてくれる。そして、イスラエルの占領下で暮らすパレスチナ人たちの日常生活の重苦しさ、苦悩、憤りというものが、けっしてイスラム教やアラブ文化の特殊性に起因するものではなく、およそ人間なら当然持っているような普遍的な心情に由来するものであるという事実を観る者に感じさせるのである。そのような苦悩や憤りは、実は、ニューヨークや神戸の悲惨を経験した市民たちの心情とそれほど遠くないに違いない。
 グローバル化し無国籍化した巨大メディアから大量にあふれ出してくる映像情報の対極で、ダウンサイジングされたメディア技術を手にした第三世界の民族や先住者たちが、自前の映像メディアで主張し始めている。このような状況をポスト・コロニアルと呼ぶと呼ぶまいと、それが私たちの住む世界の現実である。だから、私たちは、これら異質で多様な回路からもたらされる断片化した映像をパッチワークのように組み合わせることでしか今日の世界を読み解くすべをもたないのかもしれない。しかし、そうすることによって、はじめて私たちは、私たちを捕らえる思考の断絶を乗り越えることが可能になるに違いないのである。


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