フィールドワークとしてのライフヒストリー研究の展開と課題

−カウアイ島(ハワイ)日系人のライフヒストリー調査プロジェクトを事例として−

JOURNAL OF POLICY STUDIES』(総合政策研究 NO.13)2002年9月、pp.67-90.

 

山中速人

藤井桂子[1]

 

A はじめに

 

 本研究は、ハワイ諸島のカウアイ島におけるサトウキビ・プランテーションで生活をしてきた人々のライフヒストリーに関する調査の一環として、中でもカウアイ島ワイメア地区とその周辺地域を対象に、プランテーションを中心に生活を続けてきた日系人たちのライフヒストリーを2世世代に焦点を当てながらまとめたものである。

 ハワイ日系人の歴史は、1868(明治元)年にさかのぼる。それは、近代の日本人海外移民史と多くの部分でオーバーラップし、近代におけるハワイ、日本、アメリカという3つの国家/地域の歴史の激しい変化を反映している。とりわけ、真珠湾攻撃に始まる太平洋戦争を経験した日系2世たちの存在は、海外在留日系人の中でもっとも激しい社会文化的な変化を経験した世代である。

 彼らのライフヒストリーは、たんにアジア太平洋の近代史を生き抜いた人々の歴史として注目に値するものである以上に、多文化状況を日常とする生活の中から登場してきた近代の新しい複合文化的な人間類型を理解する上で、きわめて重要な位置づけを与えられよう。これら多文化状況に生きる人々のライフヒストリーをナラティブな形態の記録として収集するという本研究の課題は、その意味できわめて今日的な意義があるものと考える。

 ハワイ日系人のライフヒストリー研究は、かつて一世たちを対象に精力的に行われた時期があった。アメリカ本土やハワイ側では、第二次大戦中の日系人迫害に対する賠償問題や日系人二世部隊の活躍に対する顕彰や評価などの動きもあって、ひきつづき関心が受け継がれてきたが、日本側からの関心は、移民世代が代を重ね現地化するにしたがって遠のいたようにみえる。[2]今日のハワイ日系社会では、1世たちの多くはすでに亡くなり、2世たちの多くも高齢期を迎え、3世、4世、さらに5世の時代に入っている。

  このような時代の流れの中で、私たちの調査は、日本語を話すことのできる最後の世代である、戦前に日本語教育を受けた2世たちを対象の中心に選び、彼らのライフヒストリーを記録する作業を続けてきた。彼らは太平洋戦争で出身国が敵国となる特異な体験を持ち、アメリカと日本との間にあって、また、多民族複合文化というユニークな条件をもつハワイ社会にあって民族的なアイデンティティを複雑に揺れ動かされた世代である。彼らの肉声に耳を傾けることで、アメリカ本土とは別の、ハワイ日系人固有のアイデンティティを浮き彫りにしたいという願望がこの根気のいる作業を続けさせてきた。

 また、日本語を話す多くの2世たちは、すでに80歳を超える年齢に達しており、このままでは、彼らの経験と歴史が時間の闇に沈んでしまうという焦りもあった。

  調査は、1999年以来、毎年、多くの研究者、院生、学部学生、社会人の協力を得て継続されてきた。その結果、成果としてすでに40名を超える日系人たちのライフヒストリーが収集されるまでになっている。[3]調査は、ハワイという多文化社会を構成するエスニック集団の多様性を射程にいれ、今後も継続する予定である。

 本稿は、直近の2001年度の調査に焦点を当てながら、1999年以来の調査で得られた知見を概観、紹介するとともに、フィールドワークとしてのライフヒストリー調査の特徴と課題について論じるものである。

 最後に、長期にわたる調査に協力してくださっているカウアイ島の人々に感謝の意を表したい。とくに、調査の実務に全面的な援助をいただいたワイメア東本願寺のメンバーならびに開教使・藤森宣明氏にあらためて感謝の意を表するものである。[4]

 また、調査後、インタビュー対象者であったヨコオ・フミエさんとエイミー・ムネチカさんが逝去された。お二人のご冥福を心からお祈りしたい。

 なお、本調査の実施には、中央大学文学部より特色ある学部教育に対して与えられる補助金が与えられた。

 本論文の執筆分担は、A、B、C、Eの各章を山中速人が担当し、ライフヒストリーの事例であるD章の全体(1〜11) を藤井桂子が担当した。

 

B ライフヒストリー調査の目的と方法

 

1 調査の目的とねらい

 近代のハワイを考える上で、サトウキビ・プランテーションの果たした役割は大きい。サトウキビ・プランテーションは、白人農業資本の成長の基盤だったし、カメハメハ王朝の盛衰の影にも、砂糖の輸出入をめぐる国際問題があった。また、日本人移民をはじめ、多くのアジアからの移民を受け入れたのもこのサトウキビ・プランテーションであった。

 ハワイ諸島の中でもカウアイ島は、このサトウキビ・プランテーションの形成がもっとも早い時期から行われた島である。そこには、プランテーション・キャンプを中心に独特のコミュニティが形成され、人々の生活を支えてきた。今日でも、この地域で暮らす人々の多くは、移民の子孫である日系やフィリピン系の2世3世の世代であり、彼ら自身もかつてサトウキビ・プランテーションで暮らし、働いた経験を持っている。

 今日、これらプランテーションは、ハワイ砂糖産業の衰退によってその役割を終えつつあり、そこに営まれてきた地域社会も住民の高齢化や人口の減少を迎え、離島固有の社会問題を抱えている。また、砂糖産業に代わって新たに観光リゾートの開発が進行する一方、先住民族の伝統農産物であるタロイモ農業の復興がみられるなど、地域社会は変化の兆しを示している。さらに、近年、この島を襲ったハリケーン・イニキによる壊滅的な被災経験は、人々の生活や生き方に深い痕跡を残した。

 カウアイ島をフィールドにこの島で戦前、戦中、戦後を生活してきた日系人たちのこれまで書かれなかった生活の歴史を記録し、未来に伝え、また、今日の生活の現状や諸問題を明らかにすることを通して、文化の境界を越えて生きてきた人々の歴史と文化とその未来を考えたい。それが、この調査の目的である。

 調査の実施に当たっては、先述したように、中央大学文学部山中速人ゼミを中心に他大学を含めて多くの院生や学部生が調査に参加した。この調査の成果物であるライフヒストリー・レポートの大半は、これら学生たちが、自ら行った長時間のインタビューの録音テープをもとに、執筆したものである。ほとんどの学生にとって、カウアイ島での滞在は初めての海外経験であった。インタビューに不慣れな学生たちにとって、カウアイ島での調査を始めることには、大きなとまどいと不安を伴うものであった。しかし、ワイメアの人々の親切な受け入れと、インタビュー対象者の方々の辛抱強い応答のおかげで、対象者の広がりという点でも当初考えていた以上の地理的職業的広がりをもつ対象者にインタビューを行うことができ、大きな成果を上げることができた。また、学生たちにとっても、今回のフィールドワークがもたらした人間的な成長は計り知れないものがあったと思う。

 

2 調査方法と日程

a 調査日程

 1999年以来、調査は大学の夏期休暇を利用して行われてきた。毎年、教員、院生、学部生、一般社会人から構成された15〜20名程度の調査団を組織し、15日間程度の日程を組んで調査が実施されてきた。単純にインタビューだけを行うのなら、この半分程度の日程で十分であるが、調査地であるカウアイ島の地理的特徴とサトウキビ産業に関する歴史と現況についてのおおよその理解を得るために、カウアイ島に到着後、すぐに調査を開始するのではなく、島内のフィールドトリップを行い、地理条件とサトウキビ栽培の関係を理解し、また、インタビュー対象者と調査に不可欠なラポールを形成するため、パーティ形式の親睦会を開いて親しくなったりする時間を加えて、例年、約15日程度の調査期間を設定してきたのである。

 たとえば、2001年度の調査期間は、9月前半の15日間であった。この期間、ハワイ州カウアイ島ワイメア地区のワイメア東本願寺に調査本部を置き、前半をフィールド観察、後半をインタビュー調査に当て、ライフヒストリーの収集をおこなった。

 

b インタビュー対象者

 インタビュー対象者は、日系人2世を中心としたプランテーション居住者および居住経験者である。一部の例外を除いて、彼らの大半は、戦前期に日本語学校で日本語を習得する機会をもっていたため、今日でも、日本語での会話と若干の読み書きが可能である。したがって、インタビュー際して、インタビュアである日本人学生の大半は日本語しか使えなかったが、インタビューを日本語で実施することができた。

 

c インタビュー項目

 インタビューは、非統制的な自由インタビューによっておこなわれた。ただし、調査内容に緩やかな共通性を持たせるため、自由記述形式のインタビュー・シートを使用した。インタビュー・シートの主な項目は、次のとおりである。

 

(1) 対象者の属性

・性別

・生年月日

・年齢

・居住地

・住居形態

・同居人の数

・家族以外の同居人の数と属性、家族構成)など

(2) 親の世代についての質問項目

・祖父母・両親の社会移動(出身地・移動移民時期・職業移動・居住地)

・両親や祖父母の教育歴(学歴など)

・両親や祖父母の職歴

・両親や祖父母から受け継いだ生活文化・習慣・伝統・風習

・両親や祖父母についての思い出やエピソード

・先祖についての言説・言い伝え(日本の出身地、出身階層)など

(3) 対象者本人の社会移動歴

・本人の社会移動

・本人の学歴(学校歴・教育を受けた場所)

・本人の職業歴(職歴・就業地)

・職業生活のエピソード(仕事の内容、労働環境、労働形態、耕地での労働、つらかったこと、楽しかったこと、労働争議など)など

(4) 婚姻

・結婚歴(結婚の時期、離婚の経験など)

・配偶者の職歴や民族的背景など

(5) 対象者本人のライフヒストリー

・子供時代から思春期のころの思い出やエピソード(修学前のこと、生活、学校、遊び、友人)

・結婚と結婚生活の思い出やエピソード(恋愛、見合い、結婚相手との出会いと選択、結婚式、新婚生活の頃、生活がどう変わったか)

・戦争中の体験(家族や日系人社会の変化、身内や近隣に連行された人はなかったか、開戦をどう知ったか、どう思ったか、日本に対してどう思ったか)

・アメリカへの忠誠心について

・戦争中のエピソード(戦争中辛かったこと、嬉しかったこと、戦争中の経験から学んだこと)

・戦後から現在(戦後の変化、自分の子どものこと孫のこと、子ども世代の日系人をどう思うか、老後の生活、楽しみ、困っていること)など

(6) 現在の生活状態

・収入とその形態(年収額、年金額など、援助の提供先)

・健康・身体の状態(病気の種類と程度、障害の状態、健康についての意識)

・介護(介護の必要性、介護提供者・機関、介護の内容)

・生活についての不満や要求

・子ども・孫との関係について

(7) 民族関係についての意識

・日系人(沖縄系=ウチナン)についての意識

・自分が日系人(沖縄系=ウチナン)であることをどう思うか

・カウアイの日系人(沖縄系=ウチナン)について(特徴はなにか、どう思うか)

・若い日系人(沖縄系=ウチナン)世代をどう思うか

・白人との関係(昔と今、変わったこと変わらないこと)

・ハワイアンとの関係(昔と今、変わったこと変わらないこと、ハワイアン・サーバンティ[先住民自治権]についての意見)

・フィリピン系の人々との関係(昔と今、変わったこと変わらないこと)

・中国系の人々との関係(昔と今、変わったこと変わらないこと)

・ハワイと日本(沖縄)との関係はどうあるべきだと思うか、など

(8) その他、社会や宗教についての意識

・階層意識(5分類で自分はどの階層だと思うか)

・本人の宗教、仏教(浄土真宗)に対する意見

・ワイメア本願寺に望むことなど

 

d インタビューおよびライフ・ドキュメントの収集方法

 インタビューは、以下のような体制で集中的におこなわれた。

 

(1) 学生2人で1組を作り、各組が2人の対象者のインタビューを担当した。

 

(2) 研究班の方で用意しているインタビュー・シートをすべて質問するには、およそ5〜8時間程度が必要であった。高齢の対象者の疲労を考慮し、1回90分から120分程度で、3〜4回(3〜4日)にわけて実施した。インタビュー過程は、対象者から許可を得て、すべてカセットテープに録音した。また、インタビュー風景のビデオでの収録も同時におこなった。2人1組の学生のうち、どちらか1人がメインのインタビュアになり、残りの1人が、写真撮影、ビデオ撮影、テープレコーダの管理、メモ取りなどの作業を分担した。

 これらのインタビューと並行して、対象者が保有する家族や祖先の写真、アルバム、書類、文書などのライフ・ドキュメントの収集をおこなった。とくに、写真の収集は精力的に行った。

 

(3) 写真の収集に関しては、対象者が保存している古い写真(記念写真、家族写真、風景写真、生活スナップ)を収集した。最初の訪問の時、古い写真を見せてもらうよう依頼し、その中から、本人の歴史やプランテーションの生活や当時の暮らしなどが分かる写真があれば、それを借り出した。借りた写真は、本部の事務所にあるパソコン・スキャナで取り込み、デジタルファイルとして保存し、現物は次の日に返却するようにした。その際、借りた写真の学術的な使用の許可を対象者から得た。

 

e ライフヒストリーの作成について

 このようにして収集された対象者に関する口述記録やさまざまの資料は、日本に持ち帰られ、ライフヒストリーへとまとめ上げられた。インタビューを担当した学生たちは、以下のようなガイドラインにしたがって、これらのデータを文章化していった。

 

(1) まず、日本語にして8000字程度を目安として、第3人称の文体を使って、インタビュー対象者のライフヒストリーをまとめさせた。記述に当たっては、感情的な言葉遣いを控え、客観的な記述を行うよう求めた。また、まとめに当たっては、本人の出生以前、移民1世である両親の来歴にさかのぼって記述することから始めるよう求めた。これに関連して、本人の家族関係などについても、できるだけ正確に記述するよう求めた。したがって、学生たちの記述に、両親や親族に関する記述が大きな部分を占めるようになった。通常、移民研究では、このような世代を超える社会移動に強い関心が向けられる。本調査でも、そのような移民研究の基本的な関心に従ったのである。

 

(2) 次に、インタビュー過程の録音テープをテープ起こしすることによって文字化された対象者本人の肉声で語られるエピソードを、上記の3人称で語られるライフヒストリーの各パラグラフの後に適宜挿入するよう求めた。3人称の文体を使う記述によって、装われた客観性は、対象者の心の動きや表現に現れた個性を伝えるのに最適でない場合もある。本人の肉声からのテープ起こしは、そのような客観的文体を補うために有効な表現方法であると思われた。また、これは、日本語研究の観点からみて、日系人2世が受け継ぐ日本語の現状を記録する上でも、重要な資料的価値を有すると思われる。

 このような緩やかなガイドラインに基づいて、インタビューを担当した学生たちは、対象者のライフヒストリーの作成を行った。

 

(3) さらに、学生たちが文章化したライフヒストリーは、教員によって何度も内容や言葉遣いのチェックを受けたあと、学生自身によってテープに吹き込まれた。そして、それらのテープと文章化されたライフヒストリーは、再度、現地ワイメアに持ち込まれ、インタビュー対象者に試聴してもらい、また、日本語の文章を読むことができる対象者には直接読んで点検をしてもらい、事実関係の確認やプライバシーの確保などの観点からさらに修正が加えられた。

 これらの過程を経て、最終的にライフヒストリーがまとめられた。

 ここで、作成されたライフヒストリーを紹介するに先だって、近代のハワイ移民について簡単に概観するとともに、調査対象として選んだカウアイ島ワイメア地域の特徴を述べておきたい。

 

C ハワイ日系人史とカウアイ島の日系人社会

 

1 近代のハワイと日本人移民

 冒頭に述べたように、ハワイ日系人の歴史は、近代における日本の海外移民の歴史でもある。ハワイに最初の日本人移民が行われたのは明治元年の1868年であり、それは近代の日本移民史の黎明でもあった。以来、日本からのハワイ移民は、1924年にいわゆる排日移民法の成立によって移民が完全に禁止されるまで、移民の形態は変わったものの脈々と続けられ、ハワイ人口の約4割が日本人移民とその子孫によって占められるまでに増大した。

 この間、日本は急速な近代化を遂げ、経済的にも軍事的にも東アジアにおける新興国家として、その勢力を伸張させていったが、ハワイの日本人移民も、そのような日本の勢力の伸張を背景にハワイ社会でのプレゼンスを増大させていった。戦前のハワイにおける社会的緊張の主要な部分は、ハワイ社会で支配的な地位を確保していたアメリカ系白人社会と最大の移民集団であった日本人社会の間から派生するものであった。

 ハワイにおける日本人移民の歴史は、移民制度の歴史的な変化に応じて、およそ次のように分けることができる。黎明期(1868〜1884年)、官約移民期(1885〜1893年年)、私約移民期(1894〜1899年)、自由移民期(1900〜1907年)、呼び寄せ移民期(1908〜1923年)、禁止期(1924〜1946年) [5]

 

a 黎明期の移民

 最初のハワイ移民は、ヴァン・リードによって周旋され、明治元年に政府の正式な出国許可を持たずにハワイに渡った。この移民たちを現地では、「元年もの」と特別に呼んでいる。このいわば、「違法」な渡航に対し、明治政府は反発し、その後、カラカウア王の訪日を機会に王の要請を受けて本格的な移民派遣の検討に入った。

 

b 官約移民 その結果、1885年に正式にハワイ王朝政府との間に移民条約を締結し、条約にもとづく契約労働者の派遣を意味する官約移民を開始した。官約移民では、移民たちは渡航後、契約にもとづきプランテーションに割り当てられ、厳しい農業労働に従事した。初期の契約労働には、移動の自由もなく、労働時間についての規定も曖昧で早朝から夕暮れまで長時間労働を強いられ、また、住居もみすぼらしいキャンプに多数の労働者が雑居するなど、過酷な条件のもとでの就労を余儀なくされた。この辺の事情は、ロナルド・タカキ『パウハナ』[6]が詳しい。

 

c 私約移民

 しかし、1893年に起こった白人クーデタがハワイ王朝を崩壊させたことによって移民条約も消滅したため、共和国政府下では、移民個人とプランテーション会社が直接契約を結ぶ私約移民の形態に移行した。この時、実際に日本側で移民の周旋に当たったのが移民会社だった。しかし、移民会社による移民は、高額の渡航費を取り、契約条件の周知も不十分なずさんなものだったので、社会問題化した。[7]

 

d 自由移民

 その後、ハワイが1898年にアメリカに併合されその領土となるに及んで、ハワイ移民は、合衆国の移民制度をはじめ労働諸法の適応を受けることとなり、契約労働は廃止され、原則的に移動の自由と労働者としての諸権利を認められることとなった。しかし、耕地での労働は、まだまだ過酷で、また、低賃金であったため、何度も大きな労働争議が起こった。

 一方、このとき、すでにハワイに定着しつつあった日本人移民の多くは、大挙して米本土に移動したため、カリフォルニアを中心として日本人移民脅威論が巻き起こることとなった。[8]

 

e 呼び寄せ移民

 1917年に日米間で日本からの移民を原則禁止する紳士協定が結ばれると、組織だった移民は停止されたが、それに替わって、個人が移民法の枠内で親類や肉親を呼び寄せる「呼び寄せ移民」が始まった。

 

f 禁止期

 しかし、1924年に、アメリカの移民法の改正によって成立したいわゆる「排日移民法」によって、日本からの移民は全面的に禁止され、ハワイへの日本人移民も、これを機会に完全に停止された。しかし、この時期までに、ハワイに渡った日本人は、10万人を超え、また、ハワイで誕生した日系人2世を加えて、ハワイにおける日本人/日系人人口は、戦前期で総人口の約4割を超えるまでに発展したのである。

 

2 移民の定着−1世から2世へ

 当初、日本からの移民は、男性中心で短期出稼ぎ指向であったが、アメリカへの併合の時期を前後して、徐々に定着の傾向を示すようになった。その結果、日本から配偶者を呼び寄せる写真結婚や紹介結婚が盛んになり、多くの日本人女性が、すでにハワイに渡っている親類や知人の紹介で花嫁としてハワイに渡った。

 移民後、1世世代のほとんどは、サトウキビ・プランテーションでの労働に従事していたが、その後、財産の蓄積を果たして小規模の小売業を始め、また、都会であるホノルルに移って、他の賃金労働に従事するものも登場するようになった。このような傾向は、2世世代になると一層強まった。また、プランテーションにとどまったものも、2世世代になると、仕事の内容もより熟練度の高い機械の操作や修理、管理労働などに移っていく傾向を示した。

 いずれにせよ、単純労働を中心とした1世から、より高い教育機会を得て多様な職種へと展開する2世へと、ハワイ日系社会の社会移動は、水平垂直の両方向ともに放散化の傾向を示した。[9]

 ハワイ日系人、とりわけ2世の社会進出を考える上で見過ごしてはならないのは、太平洋戦争への2世男性の従軍である。日系人部隊として知られる第100大隊や第442連隊のヨーロッパ戦線でのめざましい活躍は、信頼を獲得したモデル・マイノリティとしての日系人を象徴する「神話」でもあるが、この日系人部隊の3分の2がハワイからの志願兵であった。これをハワイ日系人の社会移動との関係からみると、帰国後支給された除隊兵に対する学費援助(GIビル)による教育機会の提供が、社会上昇の実質的な契機となったということができる。ロバート・マツナガ故上院議員やダニエル・イノウエ上院議員など、この日系人部隊に参加した日系2世世代から戦後のハワイ社会を担う有力なリーダーが輩出しており、カウアイ島でも有力な日系人実業家や政治家などに日系人部隊出身者が多数含まれている。

 ただ、今日、これら第二次世界大戦に日系人兵として従軍した世代は、すでに退職し、余生を過ごす時期に達しており、日系人部隊の経験がそのままハワイ社会における日系人の地位形成に影響を及ぼした時期は、過去のものとなっている。また、兵役に関わらなかった女性たちの地位上昇は、男性に対して相対的に低いレベルにとどまる傾向にあった。日系人女性の地位向上は、3世世代の台頭や近年の性差別撤廃の潮流を待たねばならなかった。

 いずれにせよ、太平洋戦争がハワイ日系人の社会的性格に与えた影響は計り知れない。真珠湾攻撃の勃発によって、それまで1世の影響力の下にあったハワイ日本人社会は、その指導者たちが本土の収容所に連行されたり、また、日本政府との強力なパイプであった日本総領事館が閉鎖されたりしたこともあって、急速に1世からハワイ生まれでアメリカ国籍をもつ2世世代に指導力の交代が進んだのである。

 また、ドロシー・ハザマ他『Okage Sama De』[10]によれば、本土からやってきたアメリカ兵たちがハワイに持ち込んできた本土の文化や生活習慣、ライフスタイルは、ハワイ生まれの若い2世たちに受け入れられ、多くの日系人家庭では、1世の親と2世の子の世代間で価値観のギャップを引き起こしたという。日系2世世代は、ハワイ日本人社会におけるいわば「戦後派」として、20世紀後半のハワイを生き抜いてきたのである。私たちが行ったインタビューでも、何人かの対象者が親の世代との葛藤や断絶を証言してくれている。

 しかし、そうはいうものの、2世世代は反発しながらも、1世が持ち続けていた長幼の序列や家族的結合の尊重などの価値を共有していることもまた事実であり、この点に関しては、より個人主義的な傾向を強く持つ3世世代との葛藤を内面に深く秘めているともいえる。対象者の中には、老親との同居を行っている家族がすくなからずあるのも、このような家族的価値の現れといえるかもしれない。しかし、他方、子ども世代と同居している対象者は、ごく一部の例外を除いて、まれである。

 また、彼らの子どもの世代である3世の多くは、より高い職業機会を求めて、カウアイ島を離れて、ホノルルのあるオアフ島で居住するか、あるいは、本土に移住する傾向が認められる。この意味で、ハワイ日系人は、ハワイ以外へのダイアスポラ傾向を世代の進化に従って示しつつあるということができるだろう。反面、カウアイ島をはじめハワイの日系社会は、急速に高齢化の傾向を示しつつあるのである。

 

3 カウアイのプランテーション開発と西海岸地域

 カウアイ島は、ハワイにおけるサトウキビ栽培産業の発祥の地でもある。ハワイで最初のサトウキビ・プランテーションが操業を開始したのは、1835年、カウアイ島の最南端に位置するコロアであった。中国系農民が商業的栽培をはじめたサトウキビ栽培に着目したのは宣教師を祖先にもつアメリカ系白人たちであり、アメリカに輸出する商品作物として本格的にプランテーション形態でサトウキビ栽培を開始した。サトウキビ栽培は、ハワイにおける本格的な近代的産業の成立を促した。しかし、同時にサトウキビ栽培は 非常に多くの労働力を必要としたため、農場経営者たちは、当初、ポリネシア系先住民を労働力として使用することを試みた。先住民にとっては、それは初めての賃労働の経験となったが、過酷な労働は魅力に乏しく、また賃金として支払われた貨幣で購入できるものも少なく、先住民たちの精勤を期待することはできなかった。そのような理由で、先住民たちを労働力に使おうという試みは挫折せざるを得なかった。[11]

 過酷な労働現場であるサトウキビ・プランテーションにとって、労働者の確保は、つねに頭を悩ませる問題であり、世界中から労働力が呼び寄せられた。日本人移民の歴史も、ここにその根元を見いだすことができる。

 さて、その後、サトウキビ・プランテーションはハワイ諸島全域に拡大していった。カウアイ島においても事情は同じであった。

 ただ、地理的な条件を考えると、降雨量が多く日照の少ない島の北東部に対して、降雨量が少なく日照の多い島の南西部がサトウキビ・プランテーションの開発には有利であった。先述のコロアも、この条件を満たしている。南西部におけるサトウキビ・プランテーションの開発は、コロア地区をはじめ、ケカハ地区、マナ地区、ワイメア地区など、南西部の海岸近いから丘陵部にかけて広がるなだらかな傾斜地を利用して、19世紀後半から20世紀中盤まで盛大に行われた。

 ただ、サトウキビの栽培には、日照と同様、水も必要であり、ワイメア渓谷の豊かな水資源を利用できる南西部地域は、日照と水資源の両面からも、サトウキビ栽培にとって好条件を満たしていたのである。今日、ハワイの他島におけるサトウキビ栽培がほぼ終焉を示しているのにもかかわらず、カウアイ島だけがまだ商業的なサトウキビ栽培を継続していることも、そのような条件が関与しているのではないかと思われる。

 サトウキビ・プランテーションの経営は民間会社によって運営され、ハワイ全体としてみれば、有力な5つの大財閥が強力な影響力を行使したが、それぞれの島には大小多数のプランテーション会社が存在しており、南西部周辺でも、ロビンソン・ファミリーに代表されるような有力なサトウキビ・プランテーションが存在していた。これらサトウキビ・プランテーション会社は、主にアメリカ系白人によって経営されており、その所有者たちは、アメリカ南部の綿花栽培地帯における農場主のように地域社会の中で特権的な地位を占め、その多くは、不在地主化してホノルルやアメリカ本土に居住し、プランテーションでは、もっぱら所有者に替わって支配人たちが実際の経営に関わった。

 農地や会社の売買は頻繁に行われたようで、耕作上の都合で、長年住み馴染んだキャンプが取り壊されて農地になったり、また、キャンプの統合によって住居を移動させられたりということがしばしば起こった。

 しかし、他方、労働者の雇用や福利については、パターナリズムの伝統が存在し、農場主たちは海外からやってくる移民労働者に対して、彼らの故郷と比べてよりよい生活条件を確保することに努めた。ワイメア地区のサトウキビ・プランテーションを経営していたのは、ファイア・ファミリーであったが、このプランテーションはハワイでもっとも小さなサトウキビ・プランテーションであり、経営者であるファイア家の人々とそこで働く従業員の家族との関係は、他の植民地プランテーションにみられるような階層的な関係を背後に有しながらも、家族的な紐帯の側面も色濃く残していたという。

 さて、ここで地理的な位置関係に触れておきたい。

 東からコロア、ハナペペ、ワイメア、ケカハと、海岸部を取り巻くように続く南西部地区の中で、もっとも商業的な発展を示したのは、ハナペペであった。ハナペペには映画館をはじめ大小の娯楽施設、飲食店、商店などが軒を並べ、この周辺でもっとも繁栄した商業地区であった。インタビュー対象者の中にも、この地区で商売を営んだり、この地区の映画館に通ったりした経験をもつ人がいる。この周辺に生まれ生活してきた人々の消費生活や余暇生活をいろどる様々な出来事が、このハナペペと関係してきた。しかし、今日では、人口の集中地区は島の東側に移動し、ハナペペはかつての賑わいを失っている。

 ワイメアは、かつてハワイでもっとも小さなサトウキビ・プランテーションがあった町であったが、それも閉鎖され、今日ではワイメア渓谷観光の入り口の町として栄えている。また、かつてのサトウキビ・プランテーションは、庭園様に改造され農園風のホテルとして経営されている。

 ケカハ地区では、サトウキビ精製工場(シュガー・ミル)が2001年まで稼動していたが、それも現在は閉鎖されたようである。

 しかし、たとえサトウキビ・プランテーションは閉鎖されても、その周辺には、たくさんの元従業員の住宅が残っており、往年のプランテーション・キャンプのたたずまいを色濃くとどめている。また、プランテーションでは、サトウキビにかわってコーヒーやトウモロコシなどへの作物転換が進められており、広大な赤土の大地がなだらかに山から海に連なる風景に、それほど大きな変化はまだ起こっていない。

 

4 プランテーションでの生活と仏教寺院の役割

 サトウキビ・プランテーションでの生活は、どのようなものだったのだろうか。これについては、インタビューに応じてくれた日系人の語りに耳を傾けるのが、もっとも的確な回答を得る方法であろう。ここでは、ごく簡単に触れておきたい。

 まず、耕地では、労働者は民族集団ごとに居住地を指定され、サトウキビ耕地の真ん中に数十個の住宅から構成されたキャンプと呼ばれる住宅集合体が労働者たちの生活の主要な場となった。たとえば、マカウェリにはキャンプ#1などと通し番号を振った複数のキャンプが設営されており、労働者たちは、そこから仕事に出勤し、1日の労働を終えると再びキャンプに戻った。一方、彼らの家族は1日をその中で過ごすのが通常であった。子どもたちは、キャンプから学校に通い、早朝や午後は、キャンプの中に建っている仏教寺院に付属する日本語学校に通って日本語を学んだ。今回の対象者のほとんどが、このキャンプの中で子ども時代を送っており、数多くの懐かしい体験を語っている。

 これら仏教寺院には、日本から派遣されてきた開教使と呼ばれる僧侶が住み込んでおり、キャンプに暮らす日本人たちの冠婚葬祭と日本語教育を担った。宗派はさまざまであったが、なかでも浄土真宗の西本願寺派と大谷派(東本願寺)は多くの開教使をハワイに送った。今回の調査に協力をしてくれたワイメア東本願寺も、そのようなキャンプに開かれた寺の1つである。

 ワイメア東本願寺は、カウアイ島でもっとも古い仏教寺院である。この寺の歴史は、1899年にマナのプランテーションから移ってきたヤマダ・ケンリュウ開教使によって始まるが、寺に残されている過去帳などをみると、それ以前にも、キャンプに住む日本人門徒によって葬儀などの仏事が営まれていたようである。寺には日本語学校が併設され、最初の生徒は18人であった。この日本語学校は、1916年に寺から分離された。また、1928年には、日本人児童のために日曜学校が開校した。

 太平洋戦争が始まると、寺も日本語学校も閉鎖され、当時のオオダテ・チアキ開教使は本土に抑留され、寺は無人化した。戦後、オオダテ氏がワイメアに戻り、寺は再建されたが、日本語学校は再建されなかった。

 その後、何人かの開教使の交代の後、1992年に現在の開教使である藤森宣明氏が赴任した。しかし、赴任直後、カウアイ島を襲ったハリケーン・イニキによって寺と開教使住宅は全壊してしまった。しかし、同氏をはじめメンバーたちの献身的な再建の運動が実って、寺は1996年に現在の形に復興した。

 現在のメンバー数はおよそ70名で、日系人の高齢者がその中心であるが、近年は、日系以外の民族グループからの加入もみられるようになっている。

 藤森氏は、高齢に達したメンバーたちの精神的なケアに精力的にとりくみ、その活動は日本でも広く注目されるところとなっている。また、アジア太平洋の先住民族問題にも関心を寄せる一方、銃禁止運動などにも積極的にかかわるなど、社会問題に関心を寄せる仏教者としても広く注目を集めている。

 

D ライフヒストリーの具体的事例−カトウ・シズコ氏(1世)とその娘イワセ・トヨコ氏(2世)のライフヒストリー−

 

 それでは、調査によって収集され、作成された数多くのライフヒストリーの中から、サトウキビ・プランテーションでの労働体験をもつカトウ・シズコさん(1世)とその娘イワセ・トヨコさん(2世)のライフヒストリーを典型的事例として以下に示したい。

 

1 はじめに

 2001年9月4日から同月16日までの、カウアイ島日系人2世を中心としたライフヒストリー研究において、カトウシズコさん(調査時96歳)とイワセトヨコさん(同77歳)親子のエレエレの自宅を4回(9月6・8・11・13日)訪問し、2世代のライフヒストリーをうかがった。

 シズコさんのように日本に生まれ数年間日本で暮らし、その後ハワイ諸島に生活の基盤を築いた1世世代と、トヨコさんのようにハワイに生まれハワイで生活している2世世代の間の、習慣や思想の相違点を知るという調査は、同じ生活を共有してきた親子における日本文化の越境と影響についての事例として、また、親世代と子世代が日本人でありながら、ハワイという土地の文化にどのように適応したかという一事例としてあげられる。その結果、海外渡航の機会を庶民にも広げた明治時代の移民の意識や日系人の様々な人生が、ライフヒストリーという貴重な資料を通して、事実を私たちに知らしめてくれる。また同時に、時代の変化や当時のハワイの様子を知りえる。

 日系1世であるシズコさんは、ハワイに先に来ていたカトウ・レンタロウさんとの間に3人の子供を授かった。エレエレでは長男のタツオさん(故人)家族と同居していたが、タツオさんが病により亡き後、ラワイに息子家族と住んでいた長女のトヨコさんが、エレエレに移り、10年ほど前より2人で暮らしている。現在はトヨコさんがシズコさんの生活全般の面倒をみている。日中、シズコさんは日向に座っている事が多く、トヨコさんはハナペペのシニアセンターにおける、様々な活動(ウクレレやフラ、日本舞踊など)に意欲的に参加している。近所にはフィリピンの若い世代の家族が多く、近所つきあいは上手くいっている。また、親子で禅宗を信仰しており、毎週日曜日お寺をお参りし年中行事にも積極的に参加している。健康状態は2人とも良好である。シズコさんはセキ(=病気)を生まれてからいままで経験した事がなく足腰も頑丈であるが、5年前(1996年)頃より右目が見えにくく耳は遠くなっている。

 

2 生い立ち

 1世であり母親のシズコさんは、1906年広島県佐伯郡五日市にて父にイシダチョウジロウさん(シズコさんが若い頃に怪我が原因で死亡)と母のイシダハナさん(1920年代頃は元気であったが没年不明)の次女として誕生。姉のハツヨさん(故人)、上弟のススムさん(故人)、下弟サンシロウさん(現在、山口県宇部市在住。88歳)の4人兄弟。

 実家(イシダ家)は沿岸でカキやのり・海草、小さい魚などをとって生計をたてていた。祖父のナガオイサブロウさんは駅員であった。

 小学校は広島県佐伯郡五日市町尋常小学校で、高等科2年生(補修科に1年位)まで通った。人形遊びが好きで先生に人形つくりを教わった。また、学校から帰ってくるといつもお人形の箱を持ち歩き、着せ替え人形をして遊んでいた。

 

「お人形さんナンボでもつくっとる。先生がデゴウ(手伝い)してくれて、私人形さん好きけんね。日本で。私ずーっとしおった。学校から戻ったら、人形さんに着物着せるのがすきじゃった。」

 

 ハワイ行き決定後、「シーちゃん、あんたお嫁に行くとき、人形もってきんさい。」と母のハナさんに言われ、また、あまりにも人形遊びが好きだったため、さらにハナさんから「シーちゃん、ハワイにいってもこうやって人形もち歩くの?」と怒られたそうだ。

 また、ひな祭りの思い出を、「何いうかの、おまつり。人形さんのお祭り、おひな祭り。小豆御飯みんなと食べよったよ。」と語った。

 シズコさんのお姉さんのハツヨさん(トヨコさんの叔母)が1920年頃既にカウアイ島ヒフエに嫁いでいた。母ハナさんもハツヨさんがハワイで生活していることと、シズコさんのハワイ行きの許可がおりたことで、シズコさんにハワイへ行くことをすすめた。

 

「お母さんが行けゆーけん、きたのけん。まだ若いけん。姉さんがリフエにおっての。兄弟すきねやっぱり。あれで、私はシーちゃん。シーちゃんこらそいうて、私を呼んだんよね。あれで私早よーきたよね、ここにね。まだ学校卒業せんうちかの、きたの。じゃけん、早かったよ。あれからずーっとここにおる。」

 

「ハワイあんまり来たくなかった。姉さんが寂しいけん、シーちゃんあんたハワイいきんさい。私にこらした。でも姉さんは3〜4年したら死んじゃったよ。リフエで。ベイビーかお産かなにかの時。若いのに。あれからずーっと私ひとり。それでもこれらなおるけんの(トヨコさんを指す)。二人子供おる。息子とこれがひとり。」

 

 シズコさんがハワイに着いて3〜4年で姉のハツヨさんが厄年の頃亡くなり、2人の子供、キミヨさんとハナコさんが残された。

 

「いい姉さんだったよ。シーちゃん シーちゃんとかわいがってくれたよ。」

 

 姉を慕うシズコさんの表情は当時を思い出していた。

 

 当時シズコさんはまだハワイに行きたいとは思っていなかったが、広島県五日市尋常小学校卒業前の16歳で、ピクチャーブライドとしハワイに来島することとなり、日本からお気に入りと思われるタンスを持参してきた。

 

「船できたの。10日ぐらいできたよ。早かったよ。早いよ、まだ明治、お、大正かの。」

 

 ホノルルで船を乗り換えて、夫となるカトウ・レンタロウ氏がナビリビリ(カウアイ島ナウィリウィリ)でシズコさんを迎える。そのときの第一印象は何も思わなかったそうだ。レンタロウさんの父カトウ・トヨキチさん、母のカトウ・マイさんは山口県カイタの出身。レンタロウさんは男2人と女2人の兄弟がいた。二人は、1922年レンタロウさん21歳、シズコさん17歳の時に結婚。お寺でやらず結婚式は義父が近所の人々を呼び、簡単なものであった。結婚した後すぐに仕事に戻らなければならなかった。就職先のマックブライドのシュガー・プランテーションで夫婦ともに働き、キャンプ3(スリー)に住居をかまえた。当時は灯油を注いで使用するコンロ(現在はエレエレの自宅に置いてある。)で料理をしていた。

 夫のレンタロウさんはシズコさんに対してもやさしい人でおとなしい人であった。舅のカトウ・トヨキチさん(享年85歳)とシズコさんと同じ年頃の義妹チヨコさんと同居していた。トヨキチさんは温厚な人柄で、お金が不自由したときには助けてくれ、子供も2人だったので金銭的に不自由はしなかった。シズコさんは毎日舅と夫と自分のお弁当を作ったそうだ。義妹のチヨコさんは、白人の家のメイドをしておりきび畑に駆り出されることはなく、きび畑で草をかき集めるシズコさんたちの仕事とは異なり、「ボスシカタ」といわれ、お給料は悪くはなかったそうだ。

 1924年7月21日に長女トヨコさん、1926年7月2日に長男タツオさんを産婆さんに手伝ってもらい出産。その後男児を出産するが7ヶ月で亡くなる。トヨコさん誕生の時は、得意の裁縫で赤い着物をぬって着せたそうだ。

 マックブライド・シュガーカンパニーで働き始めたシズコさんは、47年間休むことなく働きつづけ、長男のタツオさんに「テイク・イット・イージー」といわれ、1970年頃60歳すぎでリタイアした。

 タツオさんは優秀で、5年生時に飛び級で6年生に在籍していた。タツオさんは市役所務め時代に、市の選挙に出馬するが落選の経験をした。日本人の妻との間には5男1女の子供を授かり、その子供達(3世)はフィリピン人や中国人と結婚していて、親族は国際色豊かになっている。

 1962年に夫であるレンタロウさんが、1987年には長男のタツオさんが腎臓を患い病気で亡くなる。2人とも享年61歳。レンタロウさんの位牌は禅宗のお寺に預けられ、タツオさんのお墓はソルトポンド近くの墓地にある。「ハズバンしぬる、ベイビーしぬる。相当泣いたよ。」とシズコさんは悲しい表情をみせた。

 シズコさんのプランテーション時代もキャンプ3には、200人ほどの日系人がいて日本語で生活してきた。トヨコさんの子供ら3世は英語のみしか話せないが、日常はトヨコさんが通訳をするためシズコさんには支障がない。「トヨコは英語も日本語もわかる。あっちこっちいても助かる。」とシズコさんはトヨコさんを頼りにしている。

 1991年より長女トヨコさんとシズコさんは一緒に暮らし始め、現在(2001年9月)に至る。そのトヨコさんは、1924年に父カトウ・レンタロウさんと母カトウ・シズコさんの長女としてカウアイ島で誕生。2世であるが英語名は特別もっていない。母方の祖父母は早くに亡くなっていたので会ったこともなく思い出がないそうだ。両親がプランテーションの仕事であったため、1942年、結婚する18歳までキャンプ3で生活した。

 エレエレ小学校に通学し、その後バスでワイメア・ジュニアハイスクールに通って学ぶ。当時は曹洞宗の松浦先生が教鞭をとられていた。学校が終わってからの夕方はキャンプから一時間歩いて、当時イタガキ先生がいた日本語学校へ通う。働く両親を手伝うため、クラブ活動をする時間はなかった。トヨコさんは読書好きで、あまり手芸やクラフトつくりなどはやらなった。友人は白人、フィリピン人、先住ハワイ人(カナカと呼んでいた)と、民族の壁を越えた平等なつきあいをしてきている。学校卒業後2年間、マックブライド・プランテーションで働き、1942年18歳でイワセ・キヨシ氏と恋愛結婚した。彼の第一印象は「ナイスガイ」と思ったそうだ。その後パイナップル会社に転職し、さらにHMSA(Hawaii Medical  Service Association)という健康保険機構に20年間勤務する。

 1945年に長男カズトヨさん、1948年に次男ハルジさん、1950年に三男タダシさんを出産。産休をとりながらも継続勤務していた。三男のタダシさんは誕生後危険な状態にあり、1カ月近く保育器にて育ったそうである。その後はパートタイムジョブで近所のカイロプラクティク(整骨院)で10年間働く。

 1996年に続けてきた現役をリタイアし、実母のシズコさんと現在は年金で生計をたてている。そしてシニアセンターの活動に参加したり、お寺に御参りして過すなど充実している。

 

4 1世の時代から2世の時代へ

 シズコさんの仕事は「ホレホレ」といわれる仕事で、きび畑で草を鍬「ホウハナ」でかき集めるものであった。給料は1時間75セントと定まっていたが、シズコさんは請負労働契約であり、集めた草を束にして朝早くに町に売りに行く「ハッパイコウ」も行うなど、その他どんな仕事も行って出来高制のお給料で月に60ドルは稼いだ。(当時の成人男性の月給が月50-60ドル。)給料日を「カンジョウ」といって、皆大変大喜びをするほど待ち遠しいものであった。しかしきび畑での仕事は重労働であり、その辛さを歌った「ホレホレ節」を現役時代にシズコさんは歌った経験を持つ。

 

『ホレホレ節』

「いこかメリケン 帰ろうかジャパン ここが思案のハワイ島」

「日本でるときゃよ ひとりででたが 今じゃ 子もある孫もある」

 

仕事着は手にグラブをはめ、「パパレー」という帽子をかぶり、長袖「カパカパ」を着て前垂れを身につけて、皆同じ型から作った仕事着を着て並んで草取りを行った。

 

「きびの中仕事しおった。大変よ、あの仕事するの。きび畑の中を一生懸命草とったり、きびの葉をむしる百姓でしたよ。どんな仕事でもしたよ。」

 

 夫のレンタロウさんはきび畑の水中のゴミを掻き出す仕事であった。 

 シズコさんは当時若くて手が早く、元気であり仕事がすばやかったためほめられ、人の1.3倍の仕事をこなした。監視役(立って監視しており、出勤簿など管理事務)はポルトガル人の「ルナ」で、さほど厳しくはなかったそうだ。

 プランテーションの就業時間は朝6時から昼の休憩(11時から12時)をはさんで、15時の終了(「パウハナ」)までの8時間労働。土日以外は毎日欠くことなく通った。トヨコさんとタツオさんは、大人が数名で世話をする幼稚園のようなところに預かってもらった。仕事はいつも定時には終了し、また用事があるときは早く帰る事ができた。15時の帰宅時間後に子供を迎えに行き、食事の支度にとりかかった。

 「仕事、仕事」でお寺には土日しか通えず、休日は自分の家庭での仕事も立派にこなしてきた。

 昼食時は他の労働者とともに「カウカウ」といって、持参したお弁当を30分位かけて楽しみながら食べたそうだ。肩から下げられる弁当袋も自分たちで作った。麦はなく米と、おかずは焼いた肉をもっていった。水はボトルに入れて持っていき、暑くなると途中で水分補給したそうだ。

 禅宗のお寺参りには、1903年に創設されプランテーション内のお寺に御参りしていた(当時先生は不在)。

 シズコさんにつれられてトヨコさんも幼い頃からお寺参りを行ってきた。「小さいときから仏教覚えてるからね。仏教信じます。」とトヨコさんは言う。

 在職中は働き通しであり、土日の休みの日は子供の世話と洗濯等で忙しい日々であったが、トヨコさんも家事を行い家庭のお手伝いをしていた。

 キャンプ3の中にはハウスが結構立ち並んでおり、キマタストアとエノキストアがあり食料品に不自由はなかった。しかし、当時は電気冷蔵庫がなく、氷をボックスにいれる形式の冷蔵庫であった。同居家族の義妹のチヨコさんが白人家庭のメイドであったので、水が支給されお風呂は毎日沸かして入ることができた。

 シズコさん、レンタロウさんなど多くの日系移民がプランテーションで働く、1世世代の時代から、トヨコさん達2世世代の時代へと、様々な仕事内容へと移り変わってきた。トヨコさんの職歴は以下の通りである。16歳から18歳の独身時代の2年間、マックブライドのプランテーションで、従業員の出勤管理や請求書等の作成を担当した。結婚後の18歳からはパイナップル会社に就職し、一時間おきにパイナップルの濃度を検査する研究員として約20年間勤務する。これら商品はホノルルへ出荷され、そこでラベルが貼られていたので、どこの企業のものかはわからなかったそうだ。その後38歳からはHMSAでデスクワーク。この企業はホノルルでも大きい保険会社のカウアイ島支社であった。

 そして1982年58歳で一度リタイアして、9が月間の初めての休職期間を経て、1996年まで近所の整骨院で、医師の指示に従い薬を用意するなど、会計などのオフィスワークに従事した。シズコさん同様働き続けられたのは、夫のキヨシさんが、休日には息子達を海に連れて行ってくれるなどの協力もあり、また、実父のレンタロウさんが孫の面倒を助けてくれた。やさしく穏やかな人で、日常はよく話し相手となってくれたそうだ。

 

「おとうさん、いいおとうさんでしたよ。話し相手にもなりました。」

 

 両親が共働きであったことと、トヨコさんは学校から帰宅後日本語学校へ通っていたので、あまりシズコさんとは会話する時間がとれなかったことが思い出である。

 

「おかさんはずーっと仕事してるんだから、家にいないのよ。朝早ようでて、3時頃もどるでしょ。私は学校。お母さんがリタイアしてからは、私はいつも楽しみにしていた。結婚しても子供連れてね。子供達みなグランマグランマと言ってね。」

 

 キヨシさんとの恋愛時代は映画を観たり、友人宅でカードゲームを楽しむなどデートをした思い出がある。1942年に日本式ではなくウェディングを着た結婚式を挙げる。 キヨシさんの両親はラワイのパイナップル会社で働いており、キヨシさんの母が土地を購入してくれたので、夫妻は家を購入し15年後にはローン返済が終了した。

 戦前のシズコさん達世代が中心の時代から電化製品など技術が進歩し、生活全般がモダン化した。電気冷蔵庫の普及、交通整備など改善・発達されてきた。

 トヨコさんにとってもキヨシさんのが1969年に45歳の若さで肺を患いで亡くなったことは大きな悲しみで、弟のタツオさんや7ヶ月で亡くなった弟と兄弟を失った現在、もっと兄弟がいたら良かったと感じている。

 夫のキヨシさんはハワイで生まれた。3歳の時にイワセ家の養子となった。実父母は広島県出身の「カワオカさん」。移民としてハワイに来たかどうか定かではないそうだが、ホノルルでドライクリーニング業を営んでいた。キヨシさんは8人兄弟の5番目で、カワオカさんが4人の子供をつれて日本に引揚げる際に、子供がいない親戚関係にあるイワセ家に養子として引き取られた。兄弟はそれぞれの地で別々に成長する事となった。キヨシさんの実父であるカワオカ氏は、「ステーションで汽車を待ってきたとき、原爆が落ちた。ステーションにおったからやられたの。」と広島の原爆により被爆し亡くなった。日本人でありながらアメリカ国籍を持つ立場上、戦争中は複雑な心境であったそうだ。

 キヨシさんは、カレオ小学校を卒業後、ハイスクールへは行かず技能教育の職業学校へ行ったが、卒業後は消防士として45歳で亡くなるまでの25年間勤務した。ヘビースモーカーでタバコを一日2箱吸っていたそうだ。キヨシさんの死に際し、シズコさんがなぐさめてくれ、母のやさしさを実感したそうだ。トヨコさんに残された遺族年金は、約50,000ドルという大金であった。現在3人の息子達はそれぞれ家庭を築いており、週末には孫と過す時間を持つなど世代を越えた良い関係が築かれている。

 長男のカズトヨさんはホノルル在住で、日系人の妻と教員である娘の3人家族である。電化製品の販売関係の仕事に就いている。次男のハルジさんはラワイ在住で、中国系の妻と企業で働く息子の3人家族である。ハイアットホテルで厨房関係のスーパーバイザーとして働いている。三男のタダシさんはホノルル在住で、日系人の妻と教員である息子と、2001年9月にハワイ大学卒業後は教員になる娘の4人家族である。ヒッカムのエアーベースオフィスに勤務している。

 トヨコさんとシズコさんとは現在ケンカしながらも、お互いが支えあって楽しい日々を送っている。年金として一人600ドル支給されているほか、市の政策の一環として、お年寄りの家庭を対象に新鮮な野菜類(さつまいも・コーン・もやし・パイナップル・きゅうり・レタス・アルファルファ)などが配給されている。

 

4 日常生活

 シズコさんにとっては、仕事が忙しかったという想い出でが大きく、また、日本で亡くなった母への想い、夫のレンタロウさんと息子のタツオさんが先に亡くなった事実が今も辛い思いである。現在はトヨコさんと一緒に暮らせることに、大変感謝しているそうだ。

 日本での幼少時代から信仰してきた禅宗が現在も心の支えであり、若い頃は、寺の先生に「カトウさん唱えて」と言われ、30年間も御詠歌を唱える音頭とりを続けた思い出が心に深く刻まれている。シズコさんは声が大きく歌が好きで、現在でもプランテーション時代に畑で歌った「ホレホレ節」を明確に歌う。

 移民百周年記念祭の時、常陸宮の前で「ホレホレ節」を歌い、舞台から降りてきた同宮と握手を交わした経験をもつ。カウアイミュージアムにそのテープが保管されている。現在も一連の御詠歌を唱えることが出来、霊鐘の手さばきも現役のときと同じである。かつてのお寺のパーティの席上でのことについて、

 

「めでたい時、パーテーの時、私よくうた詠う。『カトさーん ゴーシングシング』みんながいうでしょ。へたなりにうたうんよ。」

 

「『カトさーん 唱えて。』って先生がいうでしょ。私ご詠歌今もできるよ。大好き。おさらいすればね。観音様大好き。」

 

 と当時を振りかえって楽しげに話す姿があった。ホノルルまでも詠いに行ったそうだ。

 

 御詠歌音だし

「となえたてまつる さんぼう ごわさんに」

 

 御詠歌

「こころのやみをてらします ひともとおとき みほとけの ちかいよ ねご ものはみな なもきえ ぶつと」

 

 現在は、トヨコさんにお寺に連れて行ってもらっており、今は寺では御詠歌を唱えないので、シズコさんは心のうちで声をださずに唱えるそうだ。弟のサンシロウさん(山口県宇部市在住)が、お寺に大きな平釜を寄進してくれた。

 トヨコさんも幼少の頃から自然に禅宗を信仰し、シズコさんと揃ってお寺の行事には積極的に参加している。お坊さんの説教(来世・現世の事など様々な内容とのこと)にいつも得るものが多いという。シズコさんも昔に得度をしており、トヨコさんは1996年に得度をした。また、トヨコさんは家でじっとしているのが好きではなく、毎週1回あるシニアセンターでの活動には積極的に参加している。トヨコさんは海外旅行が好きで、香港やアラスカなど多くの場所を訪れている。昨今の楽しみは毎年シズコさんと行くラスベガス旅行である。シズコさんもスロットマシーンが楽しみで、何でも挑戦したい心意気である。「ラスベガス大好き。おもしろいよ。」と2人とも表情が笑顔になる。

 トヨコさんの孫(4世)に子供(5世)が誕生し、シズコさんを筆頭に5世代が存在するのは大変幸せである。孫は白人と結婚していて、混血の赤ちゃんは大変かわいいと目を細める。結婚の形式にもこだわらず、もっと自由でいいと考えている。トヨコさんが週末に子供や孫と過す時は、シズコさんがしっかりを家を守っているそうだ。 

 

5 母への想い

 シズコさんは実母ハナさんがいたからこそ日本が大好きで、母への想いが強く故郷の日本をよく思い出すそうだ。自分がハワイへ行くときは、自分は日本人であるから故郷を離れる事は寂しく泣いたそうだ。実家は裕福ではなかったが、シズコさんがハワイに行くにあたり、母のハナさんは着物を買うなど出発前の準備をしてくれたのである。母に会いにいくため一生懸命働いてお金をためて、ハワイに移住後、日本には3〜4回行った。そして母のハナさんにハウスをプレゼントした。畳が20畳もある広いハウスで、自分の家が持てたことに母のハナさんは大喜びしてくれたと嬉しい表情で語る。

 

「私ジャパンすきよ。日本がやっぱり好き。お母さんがいるから。日本語話せる。少しは英語もわかるよ。自分は日本人だから、さみしいよやっぱり。今も日本好きよ。でもどうかな、今はここがようなってる。何十年もいるから。」

 

 シズコさんは子供達とも日本の広島を訪れた事がある。(トヨコさんの記憶では広島県のご先祖様のお墓参りをしたそうだ。)しかし、現在はここカウアイに数十年もいるから、ハワイの生活も良いと感じているが、やはり今、出身地の広島県佐伯郡を一度見たいという切ない気持がある。

 

「今みんなハワイにあるからの、ほしいものないね。ただもう一度みたらええの思うだけよね、広島。広島県佐伯郡五日市町、あれが見たい。私のところ。覚えとるよ。何忘れない。自分のところ一番に覚えてる。頭から忘れない。なんぼハワイが良いと言っても、私のところ一番。広島県佐伯郡五日市町、私の一番好きなとこ。」

 

 母ハナさんが亡くなってから日本へは行っておらず、いつなくなったかも覚えてはいないそうだ。

 トヨコさんは、毎朝シズコさんと散歩をするなど健康に留意しているが、シズコさんの体調(耳が遠くなっているなど)が気がかりである。口ゲンカをしながらも実の親子なので気を使わずに済むという。

 シズコさんには長生きして欲しいと願う。あと4年で100歳を迎えるが、お寺で100歳のお祝いをするつもりである。母を知る人に長生きの秘訣をきかれる。

 

「野菜やフルーツを食べる事。心配がないこと。タバコや酒をやらないこと。夜早寝すること。」

 

 とトヨコさんは答えるそうだ。

 

6 日本の文化及び習慣の継承

 トヨコさん達2世はシズコさん達の世代の影響を受け、日本伝統の習慣や日常的な文化を継承してきていた。そのひとつに宗教(禅宗)がある。

 戦時中は一時的にクリスチャンへと改宗させられたが、戦後はもとに戻ることが出来て現在は毎週お寺の御参りしている。生活全般においては、日本語の継承と和風な食事、年中行事(お正月や節句など)の慣習を継承し実践、仏壇を設けるなど日本的な生活をしている。

 料理は煮しめも豆料理もする。また、お正月には鏡餅をお寺からもらってきてお雑煮を作る。かつて綺麗な着物を着たこともあるそうだ。大晦日には初詣にでかけ、鐘をつき、7回マカ般若を唱え、先生に軽く肩をたたかれ新年の始まりに際し気持を新たにする。

 お寺では、日本同様、33歳は厄年のため厄祓い、88歳は米寿の祝い、100歳でも盛大なお祝いをする。シズコさんの米寿の祝いには弟のサンシロウさんが山口から来てお寺で盛大に行ったそうだ。トヨコさん自身も33歳のとき厄年の祓いを家で行った記憶がある。季節の行事としては、トヨコさんの長男(3世)が幼少の頃、五月五日の節句で祝いをした記憶があり、トヨコさん自身も幼少の頃、シズコさんにひな祭りをやってもらったそうだ。お盆の時期には先祖の供養として盆踊りも行った。また、孫へのお年玉については、お正月同様に盛大に祝うクリスマス会の席で渡すそうだ。

 誕生日には毎年家族でお祝いをしている。

 日本語のみの1世と英語のみの3世の橋渡しを2世が行い、さらには1世とカウアイ島の文化と接触時の潤滑油となっている。

 トヨコさんたち2世との3世の相違点は、言葉・食生活・宗教・休日の過し方などに現れている。3世は日本語がわからず、食生活もアメリカナイズされたものであり、宗教もキリスト教を信仰し、休日は車を上手く利用して余暇を楽しんでいる。

 宗教の違いによるトラブルはないが、クリスチャンは英語であり、仏教は日本語であるので上手く伝えられないそうだ。自分達の子供時代には何でも工夫して、お手玉など自分でものを作っていたが、「今はテレビが中心で何でも買える時代でありさみしいと思う」とトヨコさん。

 しかし時代とともに自分たちの世代の習慣とは異なるのは仕方が無いと理解しているそうだ。お寺で料理など伝統的な文化のデモンストレーションを行うが、今の若者は関心がないようであるが、昔も今もそれぞれに良い所があると考えている。

 トヨコさんは日本の生活習慣を経験してきたシズコさんと一緒に生活している事もあり、特別に日本で生活したいと思っていないが、禅宗を信仰しており、年中行事等の慣習や日本的な料理を作ったりするなど日本的である。日本に対して親近感はあるが、自分が生まれたアメリカが母国であり、最近は日本のテレビ番組もみなくなったそうだ。日本的な文化については、細かいところまで丁寧に心配りがされていると感心している(例に和菓子の梱包を挙げた)。

 

7 太平洋戦争について

 シズコさんもトヨコさんも、太平洋戦争中、アメリカ合衆国の領土であるハワイで生活してきたが、カウアイ島は田舎でありさほど支障がなかった。しかし、その後、長男のタツオさんがアメリカ兵としてベトナム戦争へ送り出され、その後北海道に駐在する(タツオさんと妻の出会い)など、身内の出征にはいつも心配していたそうだ。(タツオさんはその後病により死を迎え、大きいな悲しみがあった。)トヨコさんの夫キヨシさんは、第二次世界大戦時に歴史上有名になった、日系人がアメリカ兵として活躍した442部隊に志願したが、しかし足の裏に疾病があり不合格という結果であった。しかしその後戦争の悪化に伴い、身体の問題も関係なく召集され、ヨーロッパ戦線へ送り出された。戦車部隊に所属した、除隊後、無事カウアイへ帰島した。キヨシさんは、従軍期間を通して一貫して「自分はアメリカ兵」という意識を持っていたのではないかと、トヨコさんは感じている。

 他方、戦中、悲しい出来事も起こっている。キヨシさんの実父カワオカ氏が、1945年8月6日に広島の駅舎で汽車を待っているときに被爆し亡くなった。この事実は、トヨコさんら日系人家族にとっては、戦争に対する複雑な思いを呼び覚ましと同時に深い悲しみをもたらしたものと思われる。

 女性であるシズコさんとトヨコさんの戦争体験としては、家の防空壕に缶詰めなどの食糧を常備したことである。サイレンがなると家の電気を「ブラックアウト」して防空壕へ避難した。上空を飛行機が飛行していたというより、サイレンの音の印象が心に残る。そのような危機的状況の中、きび畑に借り出され草とりをさせられるという危険を経験してきた。

 現在は孫達が召集対象の世代であり、戦争が起こらないように願っているとのことである。

 

8 天皇の存在

 シズコさんは戦前の教育を日本で受けてきたので、天皇は今でも大切な人という思いがある。明確ではないがトヨコさんの記憶では、戦争中も、家に天皇の写真があったそうだ。

 戦争中、天皇を尊敬しているものの、アメリカ在住の日系人であったため天皇の写真を焼いたそうた。天皇は私たちと同じ「人間」であるが、やはり仏様と同様尊敬できる存在であるとのことだった。アメリカ合衆国大統領は平民の中から人々によって選ばれるが、日本の天皇は歴史あるロイヤルティの存在であり、それが尊敬する理由のひとつだと語った。

 

9 ハリケーン「イニキ」(1992年)の体験

 ハリケーン「イニキ」が襲った1992年は、トヨコさんは、すでにシズコさんと2人でエレエレの家で暮らしていた。学校に避難するように言われたが、家を離れたくないと強く思い、シズコさんと家の中でじっと耐えていたそうだ。大きな山のような波が来た時の様子をよく覚えている。この時のハリケーンは、すさまじいもので、海岸近くのポイプ地区にあった次男の嫁の実家は全壊した。

 

「おかさんと二人、一番ひどい時にテーブルの下にね。おかさんは恐れて泣いて泣いて。あの時何したかわかる。般若心境を二人で唱えたの。おかさん、般若心境唱えましょうと言ったら。ふたり唱えたんですよ。そしたら静まって、風が弱って。」

 

 戦争よりも自分の身に直接おそいかかった恐ろしい経験であったという。

 

「あん時の怖いの、話にならないね。屋根は飛んでるしね。考えられない。自分にハップンしたからね。戦争はよそでしょ。そうは思わないけどね、ハリケーンは自身にね。大きな山のような波が来るんだから。」

 

 と当時を振り返った。イニキにより写真など大切なものの多くを紛失してしまった。 

 

10 民族意識

 シズコさんは、自分が「日本人」であること、母が生きていた故郷「日本」への想いが強い。ハワイで生きている今、時々寂しさを感じることがある。しかし日本語を話せる状況に安堵を覚え感謝の気持を持っている。

 2世のトヨコさんは、自分が日系人であると意識したことがあまりなく、意識する必要がないと思っている。白人もフィリピン人も先住民も皆同じハワイの住民であり、良き友人である。一緒に仕事もするし、それぞれが背負ってきた文化をシェアするのが良いと感じている。日系沖縄県出身者に対しても、方言が異なるだけという。

 ただ不思議に思うのは現職中にも実感したのであるが、やはり白人は自分達が優位な存在であると内心思っているようで、また主な仕事は白人中心である事実は否めないと認識している。

 従来、先住ハワイアンは自然と共存して生活してきたのに、その土地が搾取された。従って今、日本人より安い価格で先住ハワイアンは、土地を購入できるが地位が向上されていない。

 現在のハワイは民族がミックスされていて、人々の差は「人種」だけとトヨコさんは思っている。

 

11 むすびに

 シズコさんはビクチャーブライドとして16歳でハワイへ渡り、新しい人生を根付かせ、次世代がその基盤を継承している。現在5世代が共存している大変貴重な家系である。

 シズコさんが語るプランテーション時代の思い出は、病気せず47年間仕事を続けた大変さであり、母、姉、夫、長男と失った悲しみと、その家族との別れである。そして日本人であるという思いを語る時、私達に月日の重みと日系人の方々は大変な苦労を経て現在という「今」を生きていることを我々に知らしめる。手軽にハワイへ旅行できる現在の日本の状況は、シズコさんが渡布哇時代から大きく変化してきた事実が、シズコさんの言葉から察することができる。

 

「このような食事で、あなたたちお嬢さんのお母さんはびっくりするでしょう。怒られない?あなた達お嬢さんは日本からハワイにきたのでしょ。あなた達お嬢さんに会えて嬉しいよ。」

 

 深くまでは語られない言葉の中に子供時代の苦労や不自由が、今の海外旅行自由化時代の我々との比較から伺える。

 96歳の今、ラスベガスまでの飛行機旅行を楽しみにしている。その元気さの中で、語られなかった生活状況や気持については、時間をかけてゆっくりと対話を行えば、さらに貴重な経験や体験が聞けるだろう。 魚料理の仕方も私たちに教え、気配りもして下さっているシズコさん、トヨコさん親子からは、日本人の気質や一人の人間の歩んできた歴史の重さ、人間としてのやさしさが伝わってきた。同時に時代が移り変わり宗教も生活環境も世代によって変化すること、他民族への偏見もなく共生すべきであることも教わった。

 2001年9月11日に発生したニューヨーク市でのテロ事件について、アメリカの軍事拠点であるハワイで生活し、日本人でありながらアメリカ市民権をもつトヨコさんの感想は、「大変悲しい事件。日系人でありアメリカの一市民としてはいい気持はしない。答えるのはとても複雑。」であった。

 シズコさんが熱心に禅宗をどのような気持で信仰してきたのか、また、その信仰心から見られるシズコさんの人柄は、祈りに対する姿勢からも察する事ができる。

 

「ありがとう。ただありがとう。何も祈りしなーい。何も言う事ない。ありがとうしか知らない。これしかわかんない。シーちゃん何もわからない。ただありがとうがわかる。」

 

 以上のようなライフヒストリーが調査に参加した院生・学生たちによって作成された。本稿で紹介したのは、これまで収集、作成されたライフヒストリーのほんの一部に過ぎない。これ以外にも、プランテーションでの労働に従事した日系人を始め、農地を購入して農業を始めた者、資金を貯めてプランテーションで働く労働者を顧客とした小規模な商店の経営に従事した者、より高い教育機会を得て教員や公務員などの専門技術職に就いた者など、プランテーションを中心とした地域社会を構成するさまざまな職種の日系人たちのライフヒストリーが作成された。

 また、ハワイでは日系人一般と別の民族カテゴリーに所属するオキナワンと呼ばれる沖縄系の人々についても、ライフヒストリーの収集が行われた。

 これら収集されたライフヒストリーを単純にまとめることは、容易ではないし、それを性急に行うことに積極的な意義を認めることはできない。しかし、ライフヒストリーがインタビューを行う者とインタビューを受ける者との間の相互作用であるという側面に留意しながら、これまで収集、作成されたライフヒストリー群に次のような共通した特徴を見いだすこともできよう。

 

E フィールドワークとしての日系人ライフヒストリー調査−その特徴と今後の課題

 

 これらの日系人たちのライフヒストリーは、単純に彼らの生活の歴史における事実の記録であるだけでなく、人間によって語られ、また、記録された物語としての側面を併せ持っている。口述の歴史を採集するにあたって、このような、語られた「物語」の側面を確認しておくことが必要であろう。これらのライフヒストリーの生成には、いくつかの固有の条件や問題が存在している。それを検討してみたい。

 

1 ライフヒストリー生成に関わる固有の特徴的条件

a 生活世界に起因する条件−プランテーションという地域社会の特徴が与える影響−

 都市部と異なりプランテーションを核に発展してきたこの地域では、プランテーションの経営者から末端の非熟練労働者に至る垂直的な成層構造が地域社会の社会構造にも影響を及ぼしている。また、プランテーションが諸外国からの労働力の導入を活発に行ってきたため、このような成層構造とエスニック集団とが重なり合っている。

 このインタビュー調査の対象となった2世の多くは、都市に居住する2世集団と比べれば相対的に両親の階層上の位置づけを引き継いでおり、階層上のばらつきは相対的に小さく、エスニック集団としてのまとまりが強い。

 その結果、対象者たちが語る物語としてのライフヒストリーには、エスニック=階層社会を生きてきた人々の思考が投影されているように思える。日系人社会に対して<身内>としての強い一体感情を認める一方で、白人集団や他のエスニック集団を<他者>として外部化する傾向が伺える。たとえば、彼らの白人に対する見方は、民主主義的な平等原理を認めながらも、階層的上位者として扱い、同時に他のアジア系集団に対しては、プランテーション内の序列に応じて扱う傾向が認められた。

 

b インタビュー言語に起因する条件−日本語でインタビューすることによる影響−

 次に、このインタビュー調査の特徴の一つは、日本語を使用していることである。

 一般的に、ハワイ日系2世にとって日本語が使用される固有の時空が存在する。まず、日本語は、彼らにとって父母から受け継いだ言語であり、日本語は1世である父母と家庭内でコミュニケーションを行うために欠くことのできない言語であった。しかし、他方、彼らの日常生活の大半を占める、兄弟姉妹や学校でのクラスメイトとのコミュニケーションは、もっぱら英語(正確に言うと、ピジン・イングリッシュと地元の人々が呼ぶ地方英語)によって行われた。公共的な場所における日本語の使用は、唯一、日本語学校での授業であったが、これも、開戦によって断たれ、戦争中は日本語の使用が禁止された。その後、2世の成長とともに、職業生活や地域生活を支える言語としての英語の占める位置はさらに拡大した。しかし、他方、日本語も生き続けた。戦後、日本の親族集団と間に復活した「つきあい」や最近のケーブルテレビ放送経由の日本語番組の視聴が、日本語の使用機会を維持させている。エスニック言語としての日本語の使用は、「日系人」ではなく「日本人」としてのアイデンティティを想起させる役割を強く持っている。

 カナダで民族関係を研究する社会学者であるJ.G.リーツは、移民や少数民族に対する調査において、エスニック言語を使用すること自体が、対象者の回答をエスニックな方向に誘導すると述べている。[12]この調査でも、学生たちのインタビューに対して日本語で回答することが、そのような傾向を引き出したかもしれない。

 

c インタビュー主体に起因する条件−インタビュアが日本人学生であることに起因する影響−

 インタビュアをつとめた学生たちは、事前にインタビュー調査の基礎的な訓練を受けているとはいうものの、彼らが書いたライフヒストリーには、日本人一般が持つハワイ日系人や高齢者に対するイメージや先入観が潜り込むのを完全に排除することはできない。

 日本人の多くは、日本人移民に対して棄民的イメージを抱く傾向がある。これについては、拙著『ハワイ』(岩波新書)[13]でも触れたが、そのようなイメージの投影の結果、学生たちの中には、センチメンタルに対象者たちのライフヒストリーを記述する傾向を示す者もあった。

 また、学生たちは日常的に高齢者との接触をあまり持っておらず、調査前の彼らの高齢者イメージは貧弱であった。彼らは面接に応じた比較的元気な2世たちの快活で陽気な姿に触れて驚き、イメージの変更を余儀なくされた。このとき、学生たちの多くは、これをカウアイ固有の現象と理解し、そんな生き方ができるのは、ハワイという開放的な風土に原因があると結論づけようとした。このような見方は、18世紀以来の「楽園幻想」の変形と考えてよいだろう。[14]ハワイで経験したなにがしか「よい」ものは、ハワイの楽園性に原因があるというこのステレオタイプは、学生だけでなく広く世界中に流布しているのである。

 

d 「物語」への昇華というインタビュー対象者に起因する条件−エピソードの位置づけ−

 一方、学生たちに対する「語り」が、対象者の内部で時間をかけて発酵した「物語」に昇華している場合もみられた。彼らが語る物語は、少なくとも語り部自身にとっては揺るがしがたい人生の経験となっているが、彼ら自身の理解の枠組みの中で「得心できる」形に整形されているのである。

 次にエピソードの問題がある。語り手たちがエピソードを語る際、そのエピソードが彼らの経験の典型として語られるのか、それとも稀有な例外として語られるのか、経験の全体と対照させながら吟味される必要がある。

 たとえば、民族差別や迫害について、真珠湾攻撃のあと駐屯してきた米軍の軍属たちが日本人にも分け隔てなく親切であったというエピソードの文脈は二方向である。それは、日系人に対する差別や迫害が日常的だったから、それをしなかった軍属が記憶にとどめられのたか、逆に、ほとんどの軍属たちが友好的であり、そのことを象徴するようなエピソードとして記憶に残されたか。

 個人のエピソードは口述のライフヒストリーにとって欠くことができないが、彼らが生きた時代全体の理解を抜きにしては、その意味の確定は困難である。ただ、そうはいっても、そのような個人の経験を累積することによってしか、その時代総体に意味を与えることもまたできない。

 結局、我々は、複眼をもって彼らの経験の多様な可能性を吟味することによってしか、対象のステレオタイプ化から免れる方法を持たない。その意味で当面大切なことは、出来事の有無や事実に関わる語りと、その出来事がなぜ起こったのかについての原因や因果、またそれが何を意味しているかについての言説とを聞き分けるという口述の歴史採集についての初歩的な手続きを思い起こすことなのである。

 

2 ライフヒストリー研究のタイプと本研究の今後の課題

 ライフヒストリー調査が社会学研究にもつ位置づけとして、大きく分類して2つの方向があると思われる。

 1つは、実証的な調査研究の一部分としての位置づけをもち調査対象者の生活や経験に関わる客観的な事実の収集を行うものであり、もう1つは、対象者個人の世界観や生活観といった内面の世界の記述と分析を正確な口述のインタビューを通して、行おうとするものである。

 たとえば、都市生活者の生活構造調査の一環として都市勤労者の生活史をインタビュー調査することで都市化が人間の社会生活にどのような影響を及ぼしたかを研究したり、また、国際間の労働力移動に関する研究の一環として移民集団の生活史を調査することで世代間の社会移動の動向を明らかにしたりするような調査が前者の調査にあたる。

 他方、先住民族に属する特定の人物を対象に綿密なインタビューを行い、その人物の言葉を借りて記述することによって、その人物のライフヒストリーの語りを通して現れる世界観や独自の概念世界を明らかにするような研究は後者に属する。前者のライフヒストリー調査では、おもに客観的事実の発見と記録に、後者の研究では、その人物が使う言葉のシステムや概念体系といった内的世界に関心が寄せられる。前者はシカゴ学派の都市社会学者たちに、後者は近年のエスノメソドロジーに関心をよせる研究者たちに示されてきた。

 本稿で報告されたライフヒストリー調査は、どちらかといえば前者のタイプに属する調査である。そこでは、対象者である日系2世たちの人生において生起したさまざまな事実に関心を寄せ、それらの記録と記述に専念するのが調査者の第1の課題となる。

 しかし、調査はそこでは終わらず、その過程を通して、2世たちの語りの中に読みとれる日系人のアイデンティティや文化境界に関わる概念の組み立てについても関心が広がっていくのである。

 研究者の最終的な研究関心がどこにあろうと実際のインタビュー過程においては、これら2つの方向性はともに絡み合い、方法的にも実践的にも分離することはできないだろう。それは、対象者の人生それ自体がひとつの統合された存在であることに由来しているからに他ならないのであり、フィールドワークとしてのライフヒストリー研究が研究対象としての人間の歴史を総体として捉えようという企てを放棄しない限り、この2つの方向性は結局のところ分離させることはできないのである。

 

註・参考文献



[1] 明治大学大学院文化人類学専攻

[2] たとえば、ハワイ日系人についての日本サイドからの研究には、牛島秀彦『行こかメリケン、帰ろかジャパン,ハワイ移民の100年』(サイマル出版会,1978)、足立聿宏『ハワイ日系人史,日本とアメリカの間に在りて』(葦の葉出版会,1977,8)などがある、これらの研究の多くは、1970年代に行われている。これらの研究のあと、しばらくの空白期を経て、80年代後半から90年代にかけては、日系2世世代への関心の広がりや大戦に至る日米関係史からの研究などが行われ、ドウス昌代『日本の陰謀−ハワイオアフ島大ストライキの光と陰』(文芸春秋,1994,9)、山中速人,『ハワイ』(岩波新書,1993,7)、荒了寛『ハワイ日系米兵,私たちは何と戦ったのか』(平凡社)、中嶋弓子『ハワイ・さまよえる楽園,民族と国家の衝突』(東京書籍,1993,10)、菊池由紀『ハワイ日系二世の太平洋戦争』(三一書房,1995,11)などの成果が刊行された。また、 90年代には、教育や宗教など、日系移民の個別領域に関わる研究も進められ、その成果が刊行されている。たとえば、沖田 行司『ハワイ日系移民の教育史−日米文化、その出会いと相剋』(ミネルヴァ書房,1997,1)、新保義道『ハワイ開教九十年史』(三喜房佛書林,1987,9)、前田孝和『ハワイの神社史』(大明堂,1999,9)、飯田照明『ハワイ伝道の曙上野作次郎と志津』(天理教道友社,1983,5)。一方、日系人の個人史や生活史に対する関心も、80年代後半から高まりをみせている。たとえば、ドウス昌代『ハワイに翔けた女−火の島に生きた請負師・岩崎田鶴子』(文芸春秋,1989,4)、前山隆『ハワイの辛抱人−明治福島移民の個人史』(お茶の水書房,1986,9)、渡久山朝章『アロハ、沖縄人PW−17歳のハワイ捕虜行状記』(ひるぎ社,1994,9)、などが挙げられる。

[3] すでに収集されたライフヒストリーの対象者とその作成者は以下の通りである。

タカキ・マサジ 藤田有紀、タカキ・ミヨノ 三嶋昭彦、タケウチ・マサオ 岡田範子、マツオカ・サダコ 上野哲、ヤスナカ・ハツメ 坂庭愛果、ヤマシロ・ミチコ 佐藤一将、トモミツ・ジツオ 荒井央行、トモミツ・ノブコ 岩佐聖子、タマシロ・セイイチ 藤野洋子、ツヤマ・ユキコ 流川冬子、イバラ・ツヤ 神田めぐみ、マスモト・ハジメ 関田美智、ノナカ・タカノ 細井良子、ノナカ・マサトシ 槌矢裕子 山田晴通、ノナカ・イワオ 土田弓葉 國本正毅、ノナカ・ヒデオ、ノナカ・フジコ 乾麻奈、ヤスタケ・アツシ 田代篤生、ヤスタケ・エヴァ・ミサオ  牛嶋佳奈子、ニッタ・ヒサコ 佐々木千秋 佐藤志帆、セト・ルース・カスミ 広野敦子、ユキムラ・ジロウ 関田美智、ユキムラ・トモエ・ジェニー 鶴田恵、アヤベ・ミサヨ 菊池泉、タニモト・フサエ 矢谷直子、サトウ・ユキコ、サトウ・モリト 黒田綾、クワベ・ルース・アヤノ 土屋幸代、ヤマサキ・ヒサエ 高津真一郎 菱山宏輔、オキノ・ナミエ 杉田寛幸、コバシカワ・ノブ 落合さやか、カトウ・シズコ、イワセ・トヨコ 藤井桂子、ウエダ・キクヨ 吉田 琴、タニグチ・カズエ 藤川直子、セガワ・ハルコ 中西奈緒、マルガメ・トライチ 奈良雅美、モリカワ・カズヨシ 吉田 琴、ハシサカ・ユキオ ハシサカ・ヒサヨ 原澤 結、オザキ・ツキエ 藤代勇人、ヨコオ・フミエ 生田真衣、ノナカ・シゲキチ 竹内正太郎、エイミー・ムネチカ 松本祐介。

[4] ワイメア本願寺は、耕地で働く日本人移民によって設立され、以来、現地日系社会の心の拠り所として活動を続け、一昨年で100周年を迎えた。近年では、高齢者の心のケアやハワイ先住民問題を日本に紹介する活動に取り組むなど、その活動は日本でも広く注目されるところとなっている。

[5] この移民時期の区分は、足立聿宏ハワイ日系人史,日本とアメリカの間に在りて』(葦の葉出版会,1977,8)にもとづくものであるが、これ以外にも、ハワイ日本人移民史刊行委員会『ハワイ日本人移民史』(ハワイ日本人連合協会,1977,6)も概ねこの区分に従っている。

[6] タカキ,ロナルド(富田虎男・白井洋子訳)『パウ・ハナ−ハワイ移民の社会史』(刀水書房,1986,1)が邦訳である。

[7] 移民会社については、Moriyama, Alan Takeo, Imingaisya: Japanese Emigration Companies and Hawaii, 1894-1908, University of Hawaii Press, 1985に詳細がある。

[8] Okihiro, Gary Y., Cane Fires: The Anti-Japanese Movement in Hawaii, 1865-1945,Temple University, 1991. に詳しい。

[9] 二世については、Tamura, Eileen H., Americanization, Acculturation, and Ethnic Identity, The Nisei Generation in Hawaii, University of Illinois Press,1994などの研究がある。

[10] Hazama, Dorothy Ochiai and Komeji, Jane Okamoto, Okage Sama De: The Japanese in Hawai'I, Bess Press,1986,

[11] Kurisu, Yasushi Scotch, Sugar Town: Hawaii Plantation Days. Wilcox, Carol, Sugar Water: Hawaii's Plantation Ditches, University of Hawaii, 1996など、ハワイにおけるサトウキビ栽培と灌漑、さらにサトウキビ・プランテーションの町についての詳細な研究がある。

[12] ジェフリー・リーツ(山本剛郎他訳)『カナダ多民族社会の構造−エスニック集団はなぜ存在するか』晃洋書房1994年でその指摘がある。

[13] 山中速人ハワイ』(岩波新書,1993,7)

[14] 山中速人『イメージの<楽園>−観光ハワイの文化史』(筑摩ライブラリー、筑摩書房、1992)で詳細に論じたように、太平洋楽園幻想は、近代の多様なメディアによって増幅され、ハワイのイメージとして世界に拡散した。