棄てられる国家、棄てる若者
〜加藤紘一の反乱の隅で〜

2000年11月25日

 加藤紘一氏の反乱がみごとに鎮圧され、久しぶりに政治なるものに一抹の展望を取り戻せるかに思えた期待が急速に失望感に変わった。
 しかし、今回の政変劇をメディアを通して眺めていて、いくつか面白い反応にであった。中でも興味深かったのは、ニュースステーションで久米宏が紹介した視聴者の若者のファックスだった。この若者は、「ほどほど日本の政治、いや日本という国に未来がないということを思い知った。私は留学をするが、もう日本には帰ってこないつもりだ。そのまま海外で新しい可能性をつかみたい。」というような内容だった。
 この若者がどこに留学をするのか分からない。しかし、この若者の気分は非常によく理解できた。私が20年前に留学を決意し、実際、アメリカに向けて日本を発った時の気分は、まさに、この若者とほとんど同じだったからだ。ただ、私自身は、幸か不幸か日本に帰国し、現在は、こうして大学などというところに就職して社会学なる「学問」を講じている。しかし、それはこの国を愛しているからとか、祖国のために働こうとかといったナショナリズムとはまったく関係のないことである。
 私の例をあげるまでもなく、実際に留学したからといってそう簡単にはその国に定住できるものではないことはいうまでもないが、しかし、これから人生を切り開こうと考える若者が、この日本の閉塞状況にほどほど嫌気がさして、この国を見捨てようとする気分はリアルに理解できるのである。

タイタニックのような日本を横目に

 長い間、この国に生まれた人々にとって、この国と生死をともにすることは自明の前提であった。近代の日本が長い間貧しかったことと日本語という言語的障壁は、この国の人々に、この国で生まれ死んでいく以外の選択を許さなかった。もちろん、移民や移住という手段は存在し、多くの人々がそれに未来の可能性を掛けたが、ほとんどの日本人にとって、それは窮余の選択というものであった。日本人が日本を棄てるといったことは、政府もメディアも国民自身も思いも寄らないことだったに違いない。
 しかし、80年代以降、急激な円高と日本の国際化によって、海外留学や海外居住の可能性は、それ以前と比較して格段に拡大した。もちろん、実際に留学し、海外に定着できる日本人はいまだごく少数であろう。しかし、このような新しい状況は、若者たちの発想にこれまでにない柔軟で、かつ、冷静な選択をさせる可能性を与えているのかもしれない。つまり、こんな沈没寸前のタイタニックのような日本を冷静に眺め、それに巻き込まれないように脱出の方途を考えさせているに違いないのである。
 それは、返還前の香港の市民たちが、いずれ訪れるだろう中国による支配を予期してとった冷静で沈着な行動に通じるものであろう。つまり、資産を海外に分散させると同時にカナダやオーストラリアに脱出先を確保しながら香港で暮らすという選択である。

団塊の世代との違い
 若者の政治離れとシニシズムが指摘されて久しい。なぜ若者は社会変革に燃えないのか。政治の季節に明け暮れた団塊の世代の人々からみれば、最近の若者の政治的無関心には、ほぞをかむ思いだろう。
 しかし、考えてみれば、団塊の世代が青春を生きた時代、1ドルはまだ360円もしていた。この国を棄てて海外に脱出といったことは夢のまた夢であった。この国を脱出できない以上、この国を自分たちにとって生きやすい場所に変える以外に選択はなかった。戦前のように、国家によって否応なく死を強制されてはたまらないからだ。団塊の世代の闘いである大学闘争は、いわば背水の陣の闘いだった。
 これに対して、今の若者たちには別の選択がある。この国を棄てるという選択が新たに加わったのである。ここでは、国を棄てるというのは消極的な行為でもなく、また、卑怯な行為でもない。合理的な選択としてである。沈没寸前のタイタニックの裂けた船倉をセロテープで塞ぐようなことをしても埒はあくまい。そんなことをするより、もし十分に安全な脱出用ボートがあれば、それに乗って船をすてるのが正しい選択に違いないからだ。(もちろん、現実は、脱出用ボートが全員分用意されてていなかったのだけれど。)

龍馬の時代の『万国公法』、今のインターネット
 話は少し跳ぶが、80年代の始め、バークレーで戦後アメリカ移民を研究している社会学専攻の友人からこんな興味深い話を聞いたことがある。70年代以降の新しい戦後移民の中心は、女性たちだったというのである。60年代に入って戦争花嫁の時代が終わったあと、アメリカへの新移民の中で若い女性の占める割合が急速に増加したというのである。その友人は、この傾向の原因として、日本社会がいまだ女性に対して努力に見合った可能性を開いていないことを挙げた。「同じ努力をするなら、アメリカの方がはるかに女性にとって可能性を与えてくれる社会だ」というのである。その後、日本でも男女雇用均等法が施行され、女性の社会的機会は拡大しているようにみえるが、この変化はアメリカの方がはるかに大きく、したがって、アメリカへの日本人女性の移住傾向はいまだ続いている。
 経済が停滞し、政治が変わらず無力感が拡大する「失われた」90年代では、この傾向が女性のみならず、若者全体に拡大したように思える。自民党と利益団体とゼネコンは、この国の権力にしがみつき、この国を沈没に導こうとしている。彼らは死に物狂いで、決してその権力を離すまい。(実際、加藤派を切り崩すために自民党主流派は、加藤派議員の後援会に群らがる利権屋たちを動員し、切り崩しに成功した。)そんな死に神に取り憑かれたようなこの国家を変革して救出するために膨大なエネルギーを掛けるくらいなら、英語をマスターし、インターネットを駆使して海外に脱出する方が、若者にとってはるかに生産的で積極的な人生が展望できるにちがいないからだ。
 幕末の坂本龍馬の有名なエピソードに、攘夷派の暴徒に日本刀を突きつけられた龍馬は、「これからはこれだよ」といってピストルと『万国公法』を示したという話がある。この話にたとえれば、これからの若者は、ピストルの代わりに英語力、万国公法の代わりにインターネットなのだろう。
 かつて海外への移民は、「棄民」といわれた。しかし、今日では、「棄国」なのである。国家は若者から見捨てられつつある。

グローバリズムの下のクールな選択
 社会や国家の変革が若者にとって自己犠牲的な義務や使命であった時代は過去のものとなりつつある。それは、人々が自らが属する国家を選択できない時代のヒロイステックな精神のありように過ぎないのかもしれない。ボーダーレスなグローバリズムが支配する現代社会にあっては、どの国家に所属するかは、その国家が人々に求める負担とその国家が人々に与える機会とを天秤に掛けて弾かれる人生の投資戦略に尽きるのかもしれない。
 今の若者は、この国に残ることのプラスとマイナスを冷静に天秤に掛けているのである。社会変革の活動にしても、変革によってもたらされる利益、あるいは、その過程で生じる生き甲斐・喜びの総量が、変革のために投入するエネルギーのそれを上回るとき、はじめて変革の活動に参加する。「得にならなければやらない」とか「面白くなければやらない」といった若者の行動原理は、この傾向を端的に物語っている。
 他方、選択が多様化した分だけ、ひとつの可能性に対するエネルギーの投入料は当然小さくなる。現代の若者たちがクールなのは、国家の変革よりもより個人にとって効果的に未来を展望できる方向にも目が向いているからかもしれない。
 にもかかわらず、国家の方といえば、国民は国家に依存しようとするものだという錯覚から逃れることができず、政治や行政の過程に人々が参加するのに多大な労力と時間を費やさざるをえない構造を維持している。多くの若者がそんな面倒くさいことより人生にとってもっとパワフルで効用のある手段を手に入れつつあるというのにである。
 この国のシステムに我慢し、最後まで執着してくれるのは、極端にいえば、この国にしか生きる場所がない老人たちとこの国に終身雇用されている役人や議員たち位しかいないのではなかろうか。(いや老人たちも脱出しようとしている。)

見捨てられたくなければ
 国家は、この辺で考え方を根本的に改めなければならないだろう。国民はこの国を見捨てないという前提にたち、社会を変えるのにやたらと煩雑で労力と時間のかかるシステムしか用意されていないなら、本当に税金を払ってくれる起業家精神に満ちた人々や公共の福祉ための新しいアイデアをもって働こうという有意の市民は、どんどん居なくなってしまうに違いない。優れたアイデアをもつ起業家たちなら、自分のアイデアが生かされる場所で働きたいと考えるものだし、他方、自覚した地球市民にとっては、力を尽くす対象としての「公共」とは地球社会そのものであって、日本の社会、まして日本国家である必要はないからだ。
 実際、高学歴で職業をもつ(つまり税金をはらってくれている)女性ほど日本で子どもを生まないという現象は、質の高い労働力ほど、この国への帰属を無意識に拒絶する傾向があることの証かもしれない。
 そして、みんな居なくなってしまった日本に最後に残るのは、西尾幹二の『国民の歴史』や小林よしのりの『戦争論』にころりとだまされて、無邪気なナショナリズムに走るおバカさんだけということになってしまうのであろうか。こういう無邪気なナショナリストたちは、おそらく起業者としても、地球市民としても二流なのに違いない。
 国家に関わる人たちは、優れた納税者に一人でも多くこの国に住んでもらうために、行政を簡素化し、政治参加の敷居をさげ、少ないエネルギーで効率的に変革できる社会を実現して行くことが必要だろう。あの阪神大震災のとき、神戸の市民たちが行政なしでみごとに効率的な自治と自助を成し遂げたようにである。