「陰謀」組織論を超えて−クラン型組織の病理−


『時評』96年8月
「官僚組織問題」の定番的解説

 「いまの官僚組織の硬直化を分かりやすくご解説いただくとともに、こんご官が活性化で きるとすれば、どういう組織体に移行していくべきとお考えか。また、そのために必要とな る人事システム見直しなど、組織改革への具体的提言をいただきたく存じます」

 と原稿依頼の手紙には書いてあった。

 官僚組織がなぜ硬直するのかといった問題に対して、社会学者がするべき回答は、すでに 定番と言うべきものが用意されている。大学の教養課程の社会学の講義にでも出れば、回答 はちゃんと聞くことができるのである。

 たとえば、こう答えのが通例だ。

 M・ウェーバーは近代の官僚組織について、その特徴をつぎのように指摘している。一、 規則によって定められた権限、二、上下の命令系統(ヒエラルキー)、三、文書によるコ ミュニケーション、四、専門的訓練を前提とした職務、五・組織に対するメンバーの全面的 関与、(つまり、雇用されているということ)、六、規則による職務の執行。官僚組織は、 近代の産業社会を発展させるためは、欠くことのできない合理性と機能性をもった組織形態 だった。しかし、他方、官僚組織といえば、非効率で無意味な文書の生産にあけくれる組織 の代名詞のように言われる。なぜ、このようなことになるのか。

 アメリカの社会学者のR・マートンは、機能分析という方法を用いて、官僚組織がどのよ うな条件にあるとき、本来の機能を果たせなくなるのかを分析した。彼によれば、官僚組織 は、あまりに整然とした体系を持っているために、組織を取り囲む外部の環境が変化して も、内部は変化しにくい。そのため、慣行や規則に縛られているうちに、環境の変化に対応 できず目標の達成すらおぼつかなくなってしまうというのである。たとえば、アメリカの一 九三〇年代、ニューディール政策の時代につくられた開発公社が、その後何十年にもわたっ て延々とダムを造り続けた結果、自然保護という環境の変化に対応できず、環境破壊公社と さえ呼ばれるようになってしまったとか、オイルショックという環境変化の後も大排気量の 大型車を生産し続け、日本の小型車に市場を席巻されて倒産寸前に追い込まれたアメリカの 自動車産業などがこの好例である。

映画『八甲田山』とコンティンジェンシー理論

 官僚組織のこのような問題性は、すでに衆知の事実で、今日の組織経営理論にはその対策 が折込済みである。たとえば、コンティンジェンシー理論がその代表である。

 コンティンジェンシー理論とは、外部環境の変化に応じて、組織管理の方針を柔軟に変化 させようというもので、環境の変化が少なく市場が安定しているときはライン型の組織、新 技術の開発や経済の混乱などがあって不安定な環境に対応しなければならないときはスタッ フ型の組織と、組織を使い分ける戦略をとろうとする考え方である。私がアメリカの大学院 で学んでいた八〇年代の始め、すでに、このコンティンジェンシー理論は組織経営論の定番 と化していた感があり、教室で、熟年教授からこの理論の説明を懇々と聞かされたものだ。

 大学で教えるようになった今、この理論を学生たちに解説する時、私が使うのは映画『八 甲田山』である。大編成でピラミッド的な青森五連隊の雪中行軍隊がライン型の組織、それ に対して、小編成で水平的な人間関係からなる弘前三一連隊の雪中行軍隊がスタッフ型の組 織。吹雪の八甲田山という外部環境の激しい変化に対して、ライン型組織は脆くも解体する が、スタッフ型の組織は生き残る。やや単純化し過ぎるきらいはあるが、この理論の背景を 解説するには、もってこいの教材である。

 余談になるが、数年前、文部省の研究機関に勤めていた時、大学教育の方法をいかに改善 するかを研究するプロジェクトの一環として、若手の社会学者でチームを作り、市販の映画 ビデオを使って学べる社会学の入門書(『ビデオで社会学しませんか』有斐閣)を出版した ことがある。この入門書の執筆代表が私だったため、チームメンバーに適当な執筆担当者が いなかった「集団と組織」という章を私がなりゆきで担当することになった。集団、組織、 官僚制、小集団といった社会学入門書の定番の項目をいくつかの映画を使ってわかりやすく 解説するのである。この入門書は、けっこうヒットし、多くの大学で社会学のテキストに採 用された。研究としては、一応成功したわけだが、それ以来、いろいろな企業から、現代の 組織について講義してほしいと研修や講演の依頼を受けるようになった。そんなときも、私 はこの映画を題材に使っている。

 さて、官僚組織の問題点は何かと問われれば、ほとんどの社会学者なら以上のようなこと をまず述べるだろう。しかし、これはあくまで理念型としての「官僚組織」についての話で あって、それは、日本の官庁に代表される現実の大官僚機構の話ではないことに注意してい ただきたい。理念と現実とは、また別のものだからである。

 そもそも、最初にいただいたテーマ、つまり、「いまの官僚組織の硬直化」を解説すると いう課題について再度吟味する必要があるのではなかろうか。というのも、どうもこの問い 自体の中に、日本の官庁は西欧人のウェーバーが提示した理念型としての「官僚組織」に当 てはまるという前提が、すでに含まれているように思えるのである。しかし、本当にそうだ ろうか。

クラン−日本型組織のモデル

 社会学の世界では、日本の大企業や官庁組織は西欧人が描いたような官僚組織ではないと 見方が、すでに広く支持されている。

 イギリスの社会学者、A・ギデンスは、たんにその秀でた業績で世界の社会学界に名を馳 せるだけでなく、優れた社会学教科書の編者としても著名な人物であるが、彼が編纂した定 番の社会学テキストの「集団と組織」の章には、官僚組織の原則では理解できない組織の代 表として、とくに日本の企業や官庁の組織が取り上げられている。

 ギデンスは、日本的組織を説明するにあたって、日系人の社会学者であるW・オオウチの 議論を紹介し、その組織の特徴をクラン型組織と表現している。クランとは、親族集団を核 として形成された規模の大きな組織集団で、たとえば封建時代の大名や商家などに代表され るように、親族集団を中心に、その周りに非血縁者を主従関係によって結びつけながら、そ の一族の繁栄と発展を果たすことを目標に形成された社会集団のことである。

 さて、なぜ、今日の日本型組織がクラン的なのかについて、ギデンスの考え方をみてみよ う。

 まず、日本型組織には、職務権限のピラミッドがないか、あっても脆弱である。たとえ ば、組織の方針に関わる実際の決定は、下部から積み上げられていく。これをもっともらし くボトムアップ方式と呼ぶのは自由だが、欧米のリーダーシップ感覚に慣れた人々からみれ ば、日本型組織の決定システムは言葉の正確な意味の官僚制とは認められないだろう。

 これは、能力を伴わない家長がトップに来たとき、家臣団がそれを補佐して組織を経営す る必要から生じるクラン型組織の特徴である。

 つぎに、専門分化の程度が低いことがあげられる。日本の官庁では、専門家は出世できな いし権力を持てない。また、専門的な職能をもつ人材を雇用することを嫌う。このような専 門家に対する冷遇は、外国人が日本の役所で驚くことの一つになっている。たとえば、官庁 の図書資料室などにいくと、一般事務しかしない事務官が正規の職員なのに、不可欠の専門 家であるはずの司書が非常勤職員だとか、自治体の国際交流課にいくと課長は英語すらでき ないのに、唯一英語のできるスタッフは何の決定権もない非常勤のアルバイトだったとか枚 挙にいとまがない。

 これも、主人に対して絶対服従せず同業者のギルドを作ってそれに強い帰属意識をもつ専 門職者たちを危険視するクラン型組織の特徴である。たとえば、酒造りの蔵元が、技術者と しての杜氏をけっしてクラン内部に抱え込まなかったようにである。

 また、地位に関係のない年功賃金体系や組織内の職務と業務外の生活との一体化など、日 本型組織の特徴としてすでによく言われている特徴も、このクラン型組織の特徴として説明 されている。

 ギデンスのいうような議論を、もちろん、我々も知らないわけではない。一時期はやった 諸種雑多な日本式経営論の中でこういった議論には耳にタコができるほどつきあった経験が あるからである。ただ、その時は、こういった日本型組織の特徴は、当時の「株式会社日 本」の成功の余力をかって、日本型組織の強さの秘訣としてもてはやされていたのではな かっただろうか。ギデンスの教科書にも、そんな傾向の残り香のようなものが漂っている。

自己愛・自己保存と疑心暗鬼・陰謀−クラン型組織の行動原理

 しかし、組織がクラン的性格を保持しているということは、その組織が前近代的な性格を 強く持っていることの証左でもある。

 本来、クラン型組織は、特定の親族集団を守りつづけることを唯一の目標として形成され た集団である。日本の官僚組織が明治に組織されたとき、仕えるべき親族集団とは、もち ろん天皇家だった。それは、ちょうど旗本たちにとっての徳川家と同じである。ところが、 戦後、そのような心身を捧げて仕えるべき対象は失われた。戦後の一時期は、成長という国 家目標が失われた主人の代わりを果たしたが、今は、それも失われた。しかし、クラン型組 織の実質は、便宜的に維持され続けている。

 心理学者たちの議論を借りれば、対象喪失は心の病を引き起こす。外に対象を失った愛 が、結局、自己愛と化してしまうように、クラン型組織としての日本の官僚組織も、自己 愛、自己保存のための組織へと偏していったといっては言い過ぎだろうか。

 このような状況を、私は黒澤監督の映画『影武者』を使って学生たちに説明している。ク ラン型組織の自己愛と自己保存という目標は、実は主人の存在するしないにかかわらず持続 するということである。このような状況を「空虚な中心」と表現する政治人類学者たちもい る。

 クラン型組織に属する人間が求められる行動規範は、一言でいえば儒教的な忠義といった 言葉で代表させてよいものである。城山三郎の企業小説などを読むときのキーワードの一つ である。しかし、戦国時代の武将たちが他方で忠義を口にしつつ、常に裏切りや陰謀におび えたように、この忠義という一見美しい行動規範の暗い裏面には、「疑心暗鬼」が存在して いる。

 組織目標がはっきりし、個々のメンバーの役割が明確であり、情報が公開され、また、仕 事についての評価が業績というはっきりとした基準によるものであれば、組織のメンバーは 疑心暗鬼にならずにすむ。しかし、自己愛と自己保存が目標と化したクラン型組織は、その ような開かれた組織の対極にあるといってよいだろう。

 自己愛的な人々は、いつも自分や自分の属するセクションの利益を最大化することを考え る。しかし、組織内の資源は有限だから、自己利益の最大化は他者の減益なくてはありえな い。これはひとつのゼロサム・ゲームである。誰もが互いにそう考えることによって、組織 内のどこかに自分や自分のセクションを罠にはめようとする陰謀が企図されているのではな いかと疑いはじめる。

 このような疑心暗鬼は、情報の得にくいセクションや人ほど抱きやすい。一般に縦割りの 官僚組織では、セクションを横に伝わる情報の回路は少ないから、ボトムにいる人や中央か ら遠いところにいる人には情報が入りにくい。そこで、そんな人々はますます自衛に走るこ とになる。

 つまり、自分たちのセクションの情報を外に出さない。あるいは、すべての権限をも行使 して組織内のどんな小さな活動も自分たちのセクションに関係していると主張し、情報を確 保する。

 上にいる人もそのような疑心暗鬼から逃れられない。セクションの情報が秘匿されている のでトップからはボトムが見えにくい。よって、部下が本当のことを言っているのかごまか しを言っているのか判断できない。みんな「予算がない、人が足りない」という。その要求 は一見すべて正当性をもっている。しかし、誰もが嘘を言っているとトップは内心思ってい る。そこで、ボトムから上がってくる要求の内容ではなく、それをもってくる人物への信頼 度が重要になってくる。ただ、多くの場合、信頼度は接触頻度に相関するから、たくさん顔 を出す接触頻度の多い人の言い分がとりあえず聞き入れられることになる。役所にお百度を 踏むことが大切なわけはここにある。

 これらの行動は、クラン型組織の自己愛・自己保存と疑心暗鬼・陰謀という行動原理から みれば、当然のことである。

 このような関係は、セクション間だけでなく個人間でも生じる。だから、職場の中では、 他人による陰謀を阻止するため、いつも職場に留まり監視する。これをみんながするから職 場にはいつも人が群れていることになる。そして、何かの理由で接触頻度の少ない人物が現 われると、先手必勝とばかりに、その人物を追い落とす陰謀が企図される。

 全共闘世代の社会学者である橋爪大三郎は、日本型組織に見られる人間の行動原理のひと つに、「いつもいっしょに群れている」ことを指してトゥゲザネス(togetherness)とい う概念を提唱したが、このような行動原理も自己愛・自己保存と陰謀というクラン型組織の 特徴をうまく言い当てている。

官僚批判の再吟味を

 今日、日本の官僚組織に対して、さまざまな批判が投げかけられている。しかし、それら の批判を一括して扱うことは危険かもしれない。批判のある部分は、近代官僚制の固有の問 題というより日本のクラン型組織の問題として別個に対応しなければならないと思われるか らである。

 意志決定にかかる時間がやたらに長かったり、リーダーシップの所在が不明だったり、専 門家の意見が取り入れられなかったり、情報が特定の部門に秘匿されたままだったり、接待 づけがあらたまらなかったりするのも、日本の組織がもつクラン的な性格と不可分の関係に あるといわねばならない。日本の場合、とくに急速に行なわれた近代化のひずみが、今日の 大企業や中央官庁の中にさえ、クラン型組織の要素を強く残存させてしまった。

 もちろん、このような事態に対する批判は昔からあった。とくに、左右を問わず近代化論 者の中に強く存在していた。ところが、「株式会社日本」が時に利を得、成功してしまった ことによって、クラン型組織のもつ負の要素も日本の文化風土の独自性だとして、やみくも に肯定的に評価してしまった。その結果、このような日本型組織の負の体質を改善する時期 と機運を失してしまったではないだろうか。もし、そうなら、日本経済が失速中の今こそ、 その負の体質を改善できる好機かもしれない。

 ここで、日本式組織論をそのままにして、日本の官僚組織の抱える問題を官僚組織の一般 問題に還元したりしてしまえば、問題の分析を誤り、日本固有の解決モデルがあるという錯 覚を抱き続けることになってしまう。

 残念ながら、一社会学者の私には、現在の官僚組織をどのように改革すべきか具体的な処 方せんを書く力はないし、たとえ、そんなものを書いたとて誰も読んではくれないだろう。 ただ、私はいつも、企業で講演する際、私の前にすわっている私よりはるかに立派そうな中 堅幹部たちに、こういっている。

 「みなさんは私よりはるかに組織のことを御存知の専門家です。日本の企業組織が強いの は、社員のほとんどの人がいつも組織のことを考え、それをどう動かそうかと策を練ってい るところにあります。でも、みなさんの専門的知識は、お勤めのこの会社組織にだけ適用で きる理論です。そこが問題なのです。私がお手伝いできることは、みなさんが自分の組織を 別の視点から見直す機会をさしあげることです。そして、それができれば、みなさんには、 ご自分の組織をどうすれば改善できるか、すでに処方せんは分かっておられるはずです」

 まずは、自己愛と陰謀の無限地獄に陥っている自分を発見することがその第一歩かもしれ ない。こんなことをいうと、どこか宗教めいてくるのも、今日の状況を反映しているのだろ うか。