テレビで司会を無視して喋り続けた大臣が得た評価

 日本の政治家のコミュニケーション能力の低さはよく言われることなのだけれど、久しぶりにそのあまりに典型的な実例に遭遇してしまった。テレビを通してなんだけれど、こういう番組を見せられてしまうとほんとにがっかりするし、また、うんざりするので、やっぱり日本のテレビはもうみない方がよいとつくづく思ってしまう。地雷を踏んじゃったときの感じって、こういうのに一脈通じるのかな、なんて思ったりもした。

 その番組というのはニュースステーションで、吉野川河口堰の建設をめぐる住民投票の結果が、投票率が50パーセントを超え、かつ反対が多数だったことを受けた話題(2000年1月24日放送)。東京のスタジオでは、司会の久米宏の横に中山正輝建設大臣が座り、地元の反対派市民の代表が徳島のスタジオからのモニターの中、というシチュエーションだった。

 ここで、うんざりだったのが中山正輝。司会の久米や反対派の市民代表の発言を全く無視して、独りうわごとのように、住民投票に負けた言い訳や反対派市民に対する八つ当たりや建設省というより中山個人の勝手な理屈をしゃべりまくった。

 中でも、目も当てられなかったのは、中山氏が市民代表氏に「洪水になったらあんたが責任をとってくれるか」と叫んだことだ。あれはいったい何なんだろう。「はい、私に責任をとれということは、建設省は手を引くんですね」なんて買い言葉で返されたら、どうするつもりだったんだろう。そんな言葉の言いがかりを受け流した反対派の市民代表氏こそ、大人だった。でも、あとできっちりと「まるで江戸時代」ときつい一発を放っていた。こういう人物が先頭にたつ市民運動だから徳島市民も信頼したんだなと納得させられた。

 それにしても、この中山正輝という政治家のあきれ加減はどうしたものだろう。内容が一方的というだけでなく、司会が仕切るトークのTPOもまったく無視して、一人しゃべり続けたのである。ここで、「無視して」というと、なんだか中山正輝が信念に基づいて「無視」という行為を断行したような印象を与えてしまうので、ここでは、この「無視」という表現は、正しくない。私のみたところでは、あれは、おしつけの悪い子どもが授業中であることもわきまえず、大声で私語を続けるといった方がぴったりだった。ああいう学生、最近多いんだよね。

 だけれど、テレビの画面はすでに他人の顔に切り替わっているのに、本人は延々と話し続けて途切れることがないというのは、不快なもの。聞いている方は、画面に映っている人物の発言を邪魔する雑音にしか聞こえない。

「うるさいなあ、こいつ。ちょっと黙れよ。」

 何を言っているか分からないから、ちょうど中山正輝が、ぶつぶつと独り言を番組の最初から最後まで、つぶやいていたという印象しかもてない。これはちょっと不気味な光景だ。ときどきいるじゃないこういう人。街頭などで、誰にというわけでもなく意味不明に悲憤慷慨して独りで怒鳴り散らしているおじさん。こういう人に会うと、通りがかりの人の多くは関わりになるのが怖くて、そーっとその場を遠ざかるよね。

 言葉というのは、聞いてくれる人がいて初めて意味をもつのだよ。これで建設大臣よくやるよな。

 中山正輝は、大阪出身の二世議員。関西から東京にでてきて仕事していると言えば、私も同じ境遇。頼むから東京の関西人の足を引っ張ることはしないでくださいよね。

 それからテレ朝はもう少し毅然とした方がいい。放送法では、一応、放送の公共性と公平性がうたわれている。司会を無視して一方的にしゃべる中山という人物は、公共の電波を私的に専横し、その結果、番組の公平性が損なわれているのだから、もっときびしくコントロールすべきなのではなかったろうか。大臣だから勝手にしゃべらせるというのは、放送の公平性をうたう放送法の精神に反しているのである。もちろん、この放送法の建前は、ちょっと疑わしい建前なんだけれど、そのくせ、郵政省や国会の郵政委員会などが放送局に干渉する根拠に使ったりしている。役所や政治家に干渉の口実に使われるくらいなら、こんな時こそ、「放送法の条文を遵守いたしますため、中山正輝氏のマイクのスイッチを切らせていただきました。お見苦しいところがありましたことをお詫びいたします」といった具合にやればよかったのに。