地には平和を
〜民主主義社会はテロとどう立ち向かうのか〜
2001.9.13

 9月11日に起こったワールドトレードセンター等への連続自爆テロについて、ブッシュ米大統領は「これは戦争である」と規定した。
 事件は悲惨であり、その首謀者のもくろみはきわめて残忍で簡単に許すことはできない。しかし、どうか冷静に判断をしていただくことを心から望みたい。テロはいかに規模が大きくとも「犯罪」であり、冷静にその犯人たちを追いつめ、可能な限り身体に危害を加えることなく逮捕し、証拠をもって追求し、法廷で裁くという姿勢が民主主義の社会の鉄則である。

 今回の事件の首謀者である可能性が大きいと目されているビンラーディン氏は、氏の言説をテレビなどで見る限り、イスラームの価値の絶対的優位とそれ以外の価値の破壊を根底から押し進めようとしているかに見える。氏にとって、アメリカは異教徒の文明のシンボルであり、イスラームの価値とは根本的に相容れず、殺し合うことを運命づけられた存在なのかもしれない。

 首謀者たちのもくろみは、イスラム教の名のもとに世界にふたたび不寛容と宗教間の対立を持ち込むことにあるようだ。「民主主義は、実は、キリスト教というひとつの宗派的価値の裏返しに過ぎず、キリスト教以外の宗教には及ばない。だから、民主主義が築き上げてきた普遍的価値など存在しない」と彼らは言いたいのかもしれない。そこには、イスラム教が本来もっている寛容と合理主義の精神のかけらも見えないように私には思える。

 これに対し、民主主義の価値を掲げるわれわれの世界が今回の事件に驚愕し、「戦争だ!」と呼ばわり、法にもとづかない報復を叫ぶなら、それをまさにビンラーディン氏らの思うつぼであろう。それは、今回の事件を、宗教観の対立、文明の対立に置き換えてしまいかねない。

 もしこれが戦争というなら、敵は最初から、近代社会が多くの犠牲を払って築き上げてきたルール、それがたとえ戦争という野蛮な暴力の行使に関わるものであったとしても人間として譲ることの出来ない最低のルール(たとえば、非戦闘員の保護や捕虜の虐待禁止、非人道的兵器の不使用など)を無視しているのである。そして、早かれ遅かれ、敵のそのようなやり方に応じるために、われわれも同じような対応をとらざるをえなくなる。だが、そのような戦争を民主主義の名の下に行うことは、民主主義の自己破壊となってしまうだろう。

 今回の事件が異文化への不寛容と拒絶を掻きたてることを慎重に回避させることは政治的指導者やメディアの重要な役割である。怒りにまかせて異文化を理解することの努力を放棄してはならない。異文化は克服できず、人類は地政学的に固定された「文明」に運命的に釘付けされるという運命論的文明観は、民族の垣根が溶解し、多様化する今日の世界においては、根本的に誤った見方である。

 近年、衆目を集めているサミュエル・ハンチントンの『文明の衝突』が展開する議論は、そのような運命論的文明論のひとつであり、われわれの採るべき道ではない。このような運命論は、行き着くところ「戦争」への道を用意することなのであり、それは、ちょうどビンラーディン氏の言説と対をなしている。見えない敵は、文明の衝突論によって、世界が分断され、近代社会が築いてきた人権や自由といった普遍的価値が傷つけられるのを心待ちにし、イスラム世界を自己の防壁として引き寄せようとしている。だから、われわれがイスラーム世界全体を偏見をもって敵視することは、敵に塩を送ることに他ならないし、今回の首謀者たちを「戦争」によって処断してはならない。われわれが「戦争」を選択することは、彼らに「聖戦」を闘うという口実を与えるだろう。

 今、必要なのは、今回の事件を起こした首謀者を「聖戦」の「殉教者」ではなく、「犯罪者」として一切の価値を与えることなく孤立させ、自壊させることに違いない。

 そして、そのためにも、文化間の対話と障壁の除去こそが今必要なのである。