ブータン踏査記

その1 2001/10/26 - 27

カルカッタ−プンツェリン−ティンプー

2001年10月26日 カルカッタからブータンへ
カルカッタを早朝出発し、空港にむかった。空港では予想していたような人だかりはなく、やや拍子抜けであった。添乗員の山田君は、ガイドの話として、NYでのテロ事件以来外国人観光客、とりわけアメリカからの観光客ががた減りしたので、それ目当ての人だかりが空港からきえてしまったらしい。このガイド君も、事件以来の団体客はわれわれが始めてだといい、もっと日本からお客を送ってほしいと懇願されたという。テロ事件とかかわりなくインドの空港での検査は厳重で爪切りはおろかカメラのバッテリーすら没収とのことであった。事前にパソコンのバッテリーもデジタルカメラのバッテリーもすべて取り外してスーツケースにいれてしまったので、本当にそれほど厳重なのかどうかは、わからなかった。
空港の待合室では、インド製のMTVがテレビからやかましく流れていた。
カルカッタからインディアン航空のエアバス320でドグアグラの空港に到着した。空路一時間ほどのたびであった。飛行場は、軍の管轄にあるとのことで、ここもたいそう厳重だった。スーツケースから取り出したバッテリーをデジカメに装着していると、いずこからか軍人さんがあらわれ、ここはカメラでの撮影はリストリクティドだと注意をされた。
空港には、ブータン側の旅行社からキプ・チュイさんが出迎えてくれた。バス1台、バン1台、それに荷物運搬用のピックアップが1台の計3台のキャラバンがこれから始まるのである。
キプ・チュイさん、ブータンの言葉で静かな水という意味だそうである。彼は、インドのキッシム地方にあるキリスト教のミッションスクールを卒業した後、ブータンに戻り、観光関係の公務員を務めた後、1991年に観光事業が国有から民営に変わった後、ブータンにある第5位の旅行社でガイドを勤めているとのことだった。民営化されて、忙しくなったが、収入は増えたとどこぞの国の元国鉄職員のようなことをいった。
昼食を空港で済ました後、出発した。私は、バンの方に乗り込んだ。悪路を予想してか、サスペンションがたいそう硬く、お尻が痛かった。道は途上国としては、まあまあの舗装状態だった。カンボジアよりはよく、東北タイよりは荒れているといったところだろうか。飛行場のあるドグアグラの町周辺は軍の管轄で写真撮影は禁止とのことで、そのまま、とおりすぎた。初っ端に中程度の峠をひとつ越え、森林地帯を抜けると、シッキム地方の入り口。ヒマラヤ山塊の南端が途切れてあたりに広がる平野を山麓に沿いながら進んだ。途中、お茶のプランテーションが広がる山ろくの平野をいくつもとおりぬけた。大きな川を何回も渡り、常に左に、ヒマラヤの山々が見え隠れしている。キプ・チュイさんは、それらの山塊をさして、あれがブータンだと教えてくれた。
夕暮れが迫るころ、道端の村々から美しくサリーを着飾った女性たちが華やいだ表情で三々五々湧き出すように現れ、また、家族全員を自転車に乗せた男たち、トラックの荷台にすし詰めになって乗り込んだ若い男女たちを見かけるようになった。そうだ。今日はドルガプジャの祭りの最後の夜だったと思い出した。カルカッタで祭りたけなわのヒンズー
寺院を見学したばかりだというのに、その祭りがすべての村々で祝われていることをうっかり忘れていたのだ。しばらくいくと、小さな町にやってきた。すると突然バンが渋滞に突入した。こんな田舎で渋滞とはといぶかしがっていると、町の中心部で太鼓をたでに打ち鳴らし、乱舞している一群の若い男たちの姿が車窓越しにみえた。手に薄ピンク色をした粉の箱をもって、とおりすがりの男たちの顔に塗りたてていく。中には、頭の先まで粉を振り掛けられて顔中真っ白になっている者さえいた。
渋滞をようやく抜けてしばらく行くと、また、トラックにすし詰めに乗った群衆があらわれた。それを追い抜かすと、彼らのトラックの前をいく別のトラックの上に、8本の手に武器をもち、阿修羅を退治している女神ドルガの張りぼてが飾られていた。おそらくこの山車を先頭に近くの川原までパレードし、そこで山車を川に流すにちがいなかった。ヒマラヤ山塊からの豊富な流水に流されて、近在の村々がおのおのにしつらえたドルガ神は、いったいどこまで流れていくのだろうか。
その後も、何度も山車の行列に車の行方を妨げられ、国境のまち、プンツェリンに到着したのは、予定をはるかに過ぎた午後7時であった。

10月27日 プンツェリンからティンプーへ
昨夜の到着が遅かったので、プンツェリンの街の景観を眺める余裕がなかったから、この日は朝早くおきて、ホテルから国境の大門を目指して、散歩をした。ホテルのかどをまがるとすぐそこに国境の大門がみえた。ブータン特有の原色で色鮮やかに着色装飾された高さ15メートルはあろうかという大門である。警備の兵士がのどかそうに大門を行きかう人々をながめているだけの国境とは思えないような大門である。
プンツェリンの街の反対側のインド側のジャイゴンとひとつの市街を二つに分け合って、片方をプンツェリン、他方をジャイゴンと呼んでいる。ようするし、ひとつの町なのである。ただし、時間はブータン側がインド側より正確には30分進んでいる。昨夜、インド側の出国管理の役人にそのことをどう思っているか聞いたら、インド時間ですべて動いているのだそうである。ようするに、インドの経済圏の延長なのであろう。したがって、インド系の住民とブータン系の住民はこのあたりでは、相互に自由の往来できるそうで、インド系の住民が越えてはならない国境は、ここからさらに数キロ奥まったところにあった。
街を歩いてしばらくいくと、仏教寺院があった。朝から市民たちが参拝に訪れていた。マニを手回ししながら寺の入り口の階段に腰掛けて、談笑する初老の女性、門前の広場で、五体倒地の礼法で参拝をする若者。本堂の周囲には、マニ車が設えてあり、経典を唱えながらそれをまわし巡る老人など、にぎやかな早朝の参拝風景である。
私も、お堂を一巡りし、マニ車をまわし、参拝をし、ついでに、乞食の行者に1ドルの喜捨をさせていただいた。
ホテルへの帰路、インターネットカフェを一軒みつけた。朝7時半からの開店だそうで、残念ながら覗くことはできなかった。
今日の行程は、首都ティンプまでまっしぐらである。
途中、国王の祖母が所有する寺院に参拝した。ここからの眺めがとりわけよいという。寺の脇を抜けて丘の端に出ると、プンツェリンの市街とその彼方に広がるブラマプトラ川の氾濫原が一眼に眺望できた。ブラマプトラ川は、世界でも有数の護岸工事による河岸のない自然河川だそうで、白い河川敷の上を気まぐれに蛇行している水の流れが、朝日に光っていた。
ヒマラヤから流れ来る冷たい川水が温められ霧が発生するとのことである。その霧を利用して、イギリス人たちはお茶の栽培を始めたというのが、この地方の世界に名を轟かせているお茶の歴史である。
それからは一路、首都ティンプーを目指して、車を駆った。標高はすでに1500メートルを超え、空気は乾燥し、日差しは刺すようにきびしい。日陰では薄ら寒く一方日向では太陽にあぶられて汗ばんでくる。道は舗装されてはいるものの、各地で谷間を流れ落ちる急峻な河川のため冠水したり、崩落のために道ごと谷間に流されてしまい、急場しのぎの簡易工事を昨日施したばかりというような状態で、なかなか距離を稼ぐことはできない。この道路はインド政府が援助の一環として建設したもので、道路沿いのあちらこちらに道路の修復作業に従事するインド人労働者とその家族と思われる人々の粗末な小屋がみられた。そのような小屋の集落が、数キロ走るごとにまとまって見え隠れしている。その多くが山ろくの人気もなく、また、生活に必要な物資や水の確保もおぼつかないような場所に散在しているのである。ガイドのキプチョイ氏の説明では、ブータン人の多くは農民で土木工事には動員できないから、道路補修のために労働者として、インドからの出稼ぎを認めているとのだった。ブータンは、労働力の不足になやんでいるとのこと。しかし、インド人労働者は、3年ごとに新たな労働者に入れ替えられるそうで、これらのインド人たちがブータンに定着をしないよう慎重な政策的配慮が行われているのである。ブータンはかつて鎖国に近い政策を採っていた王国であった。その王国が近年積極的に国を開こうとしているのだが、民族的な多様性を回避しようとする政策は今しばらくは続きそうな気配である。
途中、何度かの休憩を経て、夕刻近く、首都ティンプーに近づいてきた。ティンプーは人口60万人の小国ブータンの首都である。渓谷添いの道を夕暮れの薄明かりの中を中心街に向かってひたすらに進む。車窓からみえる農家のなんと立派で堅牢なことだろうか。4階はあると思われる方形の家々の屋根は、板張りで重石を乗せた古風なものもあれば、今風にとたん張りのものもあった。それらの屋根の上には、収穫された唐辛子が一面に干されていて、まるで赤いペンキで屋根を塗り上げたようにみえた。しかし、それらの民家のどれもがどっしりとした趣を周囲に漂わせていた。これまでの踏査で訪ねたフィリピンやラオスの草葺の貧しい農家とは本質的に異なる威厳というものが、それらにみなぎっていた。
団長の農学者・渡部忠世教授が、こういった。「この威厳ある農家をみただけで、私たちははるばるとブータンに来た甲斐あったといえるでしょう」