−不定期連載エッセー

芦 屋 ぐ ら し

その2〜コープさん〜


 阪神間で暮らしていると生活協同組合がこの地域の市民生活に下ろしている根の深さに感嘆することがある。阪神間で子どもの頃からずっと暮らしてきた地元の人間には、まったく違和感のないことなのかもしれないが、他地域から阪神間に移り住んできた人たちや東京など他地域に転出した経験のある人たちにとって、阪神間で生協がいかに市民生活の深い地点まで根付いているか驚きを隠せない。
 この生協というのは、灘神戸生活協同組合のことである。地元の人たちは、それを「生協」などと味気ない呼び方はせず、「コープさん」と親しみを込めて呼ぶ。関西の人間は、人間以外のモノであっても、なんでもかんでも「さん」とか「ちゃん」とか付けて呼ぶのが好きである。たとえば、「お豆さん」「おいもさん」「こてっちゃん」(甲子園球場名物のホルモン焼きの商標)「えべっさん」(今宮あるいは西宮の恵比寿神社)などなど。そういうノリで、生協もコープさんなのである。
 東京界隈で暮らしていたとき、生協といえば都民生協あるいは生活クラブ生協など、どこか左翼運動の名残をひく団体というのが、通り相場であった。だから田園調布や国立のお金持ちたちにとって、こういうタイプの生協というのは、あまり縁のない存在であったように思う。実際、都民生協が経営するスーパーの店舗にいっても、品質を誇る贅沢で高級な商品ではなく、どちらかというと価格重視の商品が並んでいた。

生協ブランドのオーダーメイドスーツも、コープ理事出身の公安委員も
 ところが阪神間、とりわけ芦屋かいわいのコープのスーパーの棚には、東京の高級スーパー、紀伊国屋に並んでいるような高級食材や生活用品がずらりと並んでいる。ワインのコーナーにフランス製の高級シャンパンがお手ごろ価格で並んでいたり、神戸牛のステーキを注文で切り分けてくれたり、そんなサービスがごく平然と行われているのである。こう書くと、芦屋という消費水準の高い地域だから当然だといわれるかも知れない。でも、六麓荘や朝日ヶ丘あたりに住むお金持ちの住人たちが生協のスーパーで当たり前のように買い物している姿をみるにつけ、やはり、それはこの地域独特のありようだと思わざるを得ない。芦屋かいわいでは、お金持ちのマダムたちも、コープさんに対して絶対的信頼を寄せているのである。
 そういう信頼関係をてこにして、生協は高級美術品の販売、オーダーメイドの高級紳士服の販売にも早い時期から手を染めてきた。かくいう私の母親も、コープさんの大のお得意で、私がアメリカから帰国し、日本ではじめて就職したときには、「これからはあんたもスーツを着ることが増えるやろから、一つくらいあつらえておきなさい」と、コープさんに電話一本。すると、まもなくコープと提携している腰の低いテーラーさんが自宅に参上し、服地の選定から採寸、仮縫いとてきぱきとオーダーメイドのスーツを仕立て上げてくれた。
 コープブランドの高級スーツなんて、東京ではちょっと頭が混乱する話ではないだろうか。しかし、ここ芦屋かいわいでは、当たり前に通る話なのである。最近では、なんと葬儀事業にも進出している。
 市民生活に対するコープの浸透力は、相当なものである。それは、たんに消費生活の分野だけではない、公の政策決定にも、コープの力が及んでいる。たとえば、兵庫県の公安委員会のメンバーにはコープ理事出身の女性が加わっている。全国を広く見渡しても女性公安委員の数は指で数えるほどであろう。その女性公安委員の一人が、コープ出身なのである。この話、これまで東京で絶対に信じてもらえない話の筆頭であった。かくのごとく、阪神間におけるコープの底力は絶大なものがある。

関西人の合理主義が育てた消費者意識
 なぜ、これほどまでにコープが発展し、社会の奥深く浸透したのであろうか。これについては、もちろん、日本の近代史を飾る希代のキリスト教社会運動家であり、コープの生みの親でもある香川豊彦が育んだ理想と伝統があるというのは、知られた話である。それについては、すでにいくつも研究や書物が公にされているので、ここでは触れない。ただ、私は、それに付け加えて、この東神戸(行政区でいうと東灘区あたり)から芦屋、さらに西宮市の六甲山南斜面(苦楽園かいわい)に至るいわばコア阪神間と呼べる地域に形成された豊かな消費生活文化の存在が関係していると思うのである。さらに、それに加えて、この地域に住む市民たちのもつ関西人に共通した経済合理主義の気風が大きく作用しているように思える。
 歴史をさかのぼれば、大正から昭和初期にかけて、このコア阪神間には、大阪の近代化によって誕生した産業ブルジョワジーたちが、こぞって住宅を構えるようになった。その中心である芦屋は、戦前より国際観光都市として、神戸でビジネスを営む外国人たちの住宅地であることをめざして都市づくりを進めた。また、昭和初期に小林一三が六甲山系の山際を走る路線(阪急神戸線)を開発したあとは、大阪や神戸に通勤するサラリーマン階層(といっても、当時は、庶民がうらやむアッパーミドルたちであった)がその沿線に次々と居宅を移した。こうして、所得水準の高い階層が、芦屋を中心にコア阪神間に集住するようになっていった。
 大阪や神戸で成功したビジネスマンは、経済合理主義の気風をもった人々である。大阪のドケチの精神がその根底にあるのかもしれない。このドケチ精神は、たんに節約のみに狂奔する性格のように誤解されているが、本来は、良いモノをすこしでも安く手に入れるという合理主義の精神をその真髄としている。つまり、安くても価格に品質が伴わなければけっして買わず、ぎゃくに目の飛び出るような値段であっても、品質がそれを凌駕しているなら「良い買い物」ということになる。こういう経済合理主義の気風が、阪神間には根付いている。
 コープの発展の陰には、このようなコア阪神間市民の気風が深く関わっているように思えてならない。コープをご贔屓にしている顧客たちの中には、大阪にある大企業の役員や中堅企業の経営者の奥さんたちも多い。これらの人々が、コープブランドの高額商品の購買層である。コープが追求する合理的な消費生活の戦略、つまり、共同購入によって流通コストを抑え、また、価格決定過程を公開することで不当な流通業者の利潤を排除し、消費者が団結することで価格決定力を握るといったやり方は、かれらのメンタリティーとも見事に一致してきたのであろう。先述した葬儀事業には、このようなコープの合理主義思想が典型的に示されている。従来のどんぶり会計で行われていた葬儀を、単価計算からやり直して見積もりを積み上げる明朗会計方式に改め、消費者が納得できる葬儀を実現した。人の生き死にですら明朗に合理的にやらねば気の済まないコア阪神間の市民たちの気風にみごとにマッチしたサービスになっている。

キリスト教主義がもたらしたモダニズムの影響
 これに加えて、阪神間における消費生活運動がキリスト教主義を背景にして始められたことも、その発展の補助的な要因となったと私は思っている。というのも、この阪神間では、キリスト教主義の学校や社会活動(YMCAやYWCAなど)が広く普及しているからである。
 たとえば、関西学院、神戸女学院、小林聖心女学院、聖和大学、海星女学院など、石を投げればキリスト教学校の学生に当たるという状態である。歴史的にみれば、大阪や神戸にオフィスを構える富裕層の家庭は、きそって子女たちをこれらキリスト教の学校に通わせた。そして、これらのキリスト教主義学校からはモダニズムやリベラリズムとあわせてキリスト教主義的な社会改良思想ももたらされた。だから、阪神間の中産階級の家庭にとっては、子ども時代はキリスト教学校で教育を受け、成人すると、男性は大阪の商社か神戸の外資系企業のサラリーマンになり、女性は、家庭にはいるとYMCAやYWCAなどでボランティア活動をしたり、教会活動に参加するといった生活があこがれのモダンなライフスタイルとなった。これが、社会改良活動としてのコープ運動が無理なく浸透していく土壌となったといってよい。(反面、左翼思想はこの地域では馴染みの薄い存在であった。左翼思想は、同じ阪神間でも神戸や尼崎の臨海部に形成された労働者街を中心に普及を遂げた。)

阪神大震災時に、神戸ステーキの炊き出しをみて
 さて最後に、興味深いエピソードを一つ書いてこのエッセーを閉じたい。
 阪神淡路大震災は、コープさんにとっても、本部ビルが被害を受けるなど、大きな試練だった。震災後、ボランティアとして東京からはせ参じた私が「さすがコープのすることだなあ」と感嘆した光景がひとつある。それは、避難所で、コープの職員ボランティアたちがおそらく淡路島に持つ自前の牧場で肥育しただろう高級牛のステーキの「炊き出し」を実施したことだ。口の肥えたコア阪神の市民たちは、被災者救援用の冷たくさめた弁当に感謝しながらも、内心はうんざりしていたことだろう。そんなときに、コープさんの気の利いた炊き出しは、市民たちから喝采を浴びた。まあ、コープにすれば、停電で冷凍設備が働かなくなり、保存ができなくなった高級肉の苦肉の処分方法であったのかもしれないが。
 このような状況を、震災という非常事態にあっても贅沢が骨身にしみこんだ市民たちの、あいもかわらぬ浅ましい性根とみるか、それとも、「かわいそうな被災者」というステレオタイプ・イメージに抗するささやかな市民的矜持とみるかは、微妙なところだろう。しかし、いずれにせよ、お金はたっぷりあるが、サービスの内容と価格にシビアな市民たちが育て上げた消費生活システムとして、コープさんは、これからも親しまれていくことは間違いのないところだと思うのである。