私たちにできること
〜アメリカのアフガン軍事報復の下で〜

2001.10.11


 メリカは、結局、報復戦争を選択した。
 戦況についての発表はいまだ錯綜している。アメリカは敵対するタリバンに重大な損害を与えたと発表しているが、事実なのであろうか。軍事施設だけをねらったといわれるピンポイント爆撃は、本当にいわれるようにピンポイントだったのだろうか。一般市民への被害は最小限にくい止めていると発表されているが、本当はどの程度のものだったのか。アメリカ側の発表とタリバンの発表とが依然食い違っている。事態は混沌としている。それを検証するはずのジャーナリズムは、湾岸戦争の時以来、その機能をほとんど失ったままだ。アメリカ軍の徹底した情報管理とタリバン側の秘密主義がこの戦争の第三者による検証を阻んでいる。

 
メリカはこれを新しい時代の戦争だと規定し、それを戦っているという。軍エリートたちによれば、この新しい戦争においては、目に見える華々しい部分は少なく、戦いの多くの部分は、目に見えない暗闘なのだという。そして、この戦争は戦域という概念を持たないのだそうである。

 
は当面はビンラーディン氏を象徴とするテロ組織なのだそうだ。しかし、アメリカが今後戦いのターゲットとして定めているのは、テロリズムそれ自体だという。すくなくとも、アメリカ大統領は、そうメディアで何度も宣言している。そして、そのような言説に日本政府も同調している。

 
かし、現実に戦われている戦争において、敵というものを、かくも抽象的な言説の中で定義した戦争がこれまでにあっただろうか。何を以てテロリズムとするのか、そして、テロリストを判別する基準はいったいどのようなものなのか、それらは今のところほとんど明らかにされていない。さらに、アメリカ大統領は、これは正義か悪かの戦いであり、テロリズムとの戦争には中立は存在しないというのである。

 
のようなアメリカ大統領の言説と軍エリートたちの発言を総合するとき、爆撃によってはじまり、今後も継続されようとしている戦争の状況設定は実に奇妙なものとなるのである。つまり、この戦争は、戦闘の多くが不可視の領域で実行され、かつ戦域も無限定で、また、誰がテロリスト(つまり敵)かについての具体的識別表象を持たず、中立的立場は存在しない。この状況の設定が、私たちにもたらそうとしている新しい事態とはいかなるものなのだろうか。この事態に対して、私たちは、もっと感覚と想像力を研ぎ澄ませるべきだろう。

 
ず、それは、世界中どこででも、私たちの生活の傍らで、密かに、ある時は突然、戦闘が行われるということを意味している。

 
ぎに、中立の立場は存在しないと少なくとも戦争の当事者の一方が宣言したということは、第三者による和平調停や停戦の仲介、たとえばヴェトナム戦争においてフランスが果たしたような役割をする国家や機関の存在を認めないということであり、それは、この戦争がどちらかが殲滅するまで戦われることを意味せざるを得ない。もちろん、大国アメリカが壊滅することはなかろう。

 
かし、これまでの歴史を謙虚に眺めれば、テロリズムが、倫理的にも政治的手段としても許されないものであったとしても、依然その有効性を盲信する人々が存在し続けることは事実であろう。さらに、テロ撲滅のための戦闘によって不条理にも巻き添えをくった貧しい人々の中から、その怨念を晴らそうとする第二のテロリストが誕生してくるに違いない。この悪循環が存在する以上、たとえ当面の敵を排除することができたとしても、次々と誕生してくるテロリストたちをこの世界から根絶することは、現実的にみて、きわめて困難であろう。ということは、この戦争は、終わりの見えない戦争だということであり、戦いが始まった時点で泥沼化することが約束された戦争だということになる。

 
時に、生活者にとって、それは、いつこの戦争に巻き込まれるかも知れないという恐怖を永久に抱き続けながら生活することに他ならない。

 
のうち、私たちの周辺でこういうことが起こるかも知れない。

 
とえば、テロリストの支援者もまたテロリスト、その支援者や協力者もテロリストという論法で、知らない間に私たちがテロリストのお仲間に加えられてしまうかも知れない。そして、たとえばアメリカに旅行したとき、入国管理で突然、そして長期にわたって拘束されるといった事態が起こるかも知れない。

 
ロ対策を強化するという名目で、すでに現実のものとなっている市民に対する警察の盗聴活動がより広範に行われ、わたしたちの私生活やプライバシーが官憲によって盗み聞きされることが常態化するかもしれない。テロ資金を絶つという名目で、私たちの所得や収入、送金などに対する監視がさらに強化されるかもしれない。

 
た、テロリスト側の情報を報道したテレビ局や報道機関が、敵に有利な報道をしたという名目で政府によって弾圧されたり、統制されたりするような事態が起こるかも知れない。現実に、ビンラーディン氏の声明ビデオを報道したアメリカのネットワークは、政府から利敵行為に当たるとして、自粛を要請された。また、イスラム系の衛星放送局が、テロリスト側の声明を報道したという理由で、アメリカからテロリスト派の放送局だと名指しで批判されている。

 
んでも利敵行為だと十把一絡げにして、政府に都合の悪い人物や機関を攻撃しても、許されてしまうようなことが現実に起こりつつある。そのような事態に対して冷静な批判を行うことすら、利敵行為として、あるいは、非愛国的行為として排除されかねない雰囲気がアメリカ政府、そして、その顔色をうかがう日本政府に芽生えつつある。

 
のような情緒的反応は、テロの原因を冷静に分析する言論、たとえば開発途上国の貧困の問題やアメリカ主導で強引に進められてきたグローバリズムがもたらした世界的規模の飢餓や貧富の格差の拡大に警鐘を鳴らす言論すら封殺しかねない。現に、この経済グローバリズムの政策的責任の一端を担う世界銀行に対する市民的批判活動は、テロ対策の口実のもとに規制されてしまった。

 
のような雰囲気は、かつて冷戦時代における赤狩りの猛威を思い出させる。

 
メリカはテロリストを絶対悪として戦いを挑もうとしている。たしかに、武器を持たない非戦闘員を殺害するテロリズムは倫理的に悪に違いない。それには強く同意する。(というなら、第二次世界大戦中に行われたアメリカ軍による原爆投下や日本軍による重慶爆撃はもっと巨大な悪だということになるのだが、それについての言及は今のところない)しかし、だからといって、それはアメリカが正義であるということを意味しない。悪と対立するのは、必ずしも正義とは限らず、悪と悪との対立という図式も当然存在するからだ。

 
の目には、グローバル化し、その上、通信技術によって高速化した「資本」とコンピュータを駆使した「金融」という黄金色の兵器で、この十数年間、世界を席巻し、貧しい国々に飢餓と貧困による死者の山を平然と築いてきた国と、聖戦の名の下に無抵抗な人々の命を巻き添えにしてきた集団とが、互いに不名誉で破廉恥な報復合戦をしているとしか見えない。そして、両者の足下に、これからも不本意に巻き込まれて命を落とす犠牲者の山が築かれていくのだろう。ニューヨーク、カンダハル、カブールと・・・。

 
の両者にとってともに勝利なき戦いを誰が止めることができるのだろうか。今、残念ながら、その答えを見いだすことはできない。

 
だ、私たちにできることがないわけではない。私たちに課せられた役割は、正義の名のもとに、この戦争の片方に組みすることではない。そうではなく、第3の立場を築き、両者の足下に築かれようとしている犠牲者の山を1人でも少なくするために努力の限りを尽くすことに違いない。ニューヨークのテロの犠牲者とその家族に出来る限りの支援の手をさしのべること。アフガンで息を潜める民衆たちに食糧と体を休める場所を提供すること。そのためにできることは、けっして少なくはないはずである。