エスニック集団を比較する

苅谷剛彦編『比較社会入門』有斐閣、1997年


イントロ

 戦後、「日本は単一民族社会だ」という言説が幅を利かせてきた。しかし、今日、私たちの周囲には文化的背景の異なる多くの人々が生活するようになっている。定住外国人、外国人労働者、帰国子女、留学生、日系人など、多様なエスニック集団がこの社会に生活する。異なった文化の人々が一緒に暮らすといろいろな問題も生じる。そんな時、私たちは、自分とこれらの人々を比較して考える。文化、民族性、生活習慣・・・。そして、その彼我の差異に問題の原因を求める。しかし、そこには落とし穴がある。エスニック集団を比較する問題について、私のハワイでの体験を示しながら考えてみたい。


困難な仕事−ある個人的な体験から

「ぜひやらせてください。ええ、願ってもないことです。」

 こんな派遣先しか残っていないと、申し訳けなさそうにいう事務長に、精いっぱい元気な声でそういった。「ハヤトがそういうなら、うれしいんだがね」という声が返ってきて、私の一年目の派遣先の施設が決まった。

 しかし、ほかに選択の余地はなかった。外国人留学生を受け入れてくれる施設は、そうたやすく見つからないからだ。

 1982年夏の終わり。日本での社会学研究に行き詰まり、専攻を実践的な社会福祉に変えようと考えてアメリカに渡った英語の下手な日本人留学生のひとりだった私は、夕日が差し込んで赤く染まった大学の廊下の光の中に不安とともに立ち尽くしていた。

 私が派遣される先は、ホノルルの下町で活動する民間の地域福祉機関がクヒオ・パークテラス(KPT)という低所得者用の住宅団地に開設するフイ・コクア(ハワイ語で援助の家)と呼ばれる事務所だった。

 KPTといえば、当時のホノルルで、いろいろな意味で有名な団地だった。17階建て巨大な2つのビルといくつかの中層の住宅、その他、プールや集会場、グラウンドがある一見理想的な団地に約600世帯の家族と約500人の単身者が居住していた。しかし、その巨大な団地は、住民の過半数がアメリカン・サモアからの貧しいポリネシア系移民、ほかにインドシナ難民や生活保護を受けている高齢者や母子家庭など、貧しい人々が集中して住む巨大団地でもあった。いろいろな社会問題や犯罪の発生も見られ、世間はこの団地を奇異な目で見つめていた。

KPTという街

 各種の統計も、この地区の特異さを示していた。

 当時の民族別人口比率(あるいは所帯比率)をオアフ島全体でみると、白人が、30パーセント強、日系人が25パーセント、フィリピン系が14パーセント、ポリネシア系先住民であるハワイ人が12パーセント。10パーセントを超える民族集団はこの4つで、あと、中国系、サモア系、朝鮮・韓国系、アフリカ系(黒人)がそれぞれ1〜5パーセントの水準を示していた。

 一方、KPTの民族構成はこれと非常に異なっていた。KPTでは民族別人口構成比率は、公表されていなかったので、所帯主の比率でみると、州レベルで1.5パーセントに過ぎなかったサモア系が50パーセント強を占め、ついでハワイ人が15パーセント、フィリピン系が8パーセント、韓国系が6パーセントだった。白人はわずか5パーセント、日系人はたったの1パーセント強に過ぎなかった。このデータからは、KPTに貧しいサモア人家族が集中して居住していた。

 私の仕事は、成人の移民・難民のために開設されている成人基礎教育(ABE)という学習教室の運営をすることと、貧しい家庭に食料を貸し出すフードバンクというプログラムを維持することだった。

 このフイ・コクアでの1年間の仕事は、じつに多くのことを教えてくれた。この思いがけないフィールドワークの機会は、逆に、社会学への関心を再び私に与えてくれた。この章では、KPTでのフィールド体験をもとに、エスニック集団を比較することの意味と問題点を考えてみたいのである。

彼らが理解できない

 仕事はすぐに始まった。私が担当するクラスは、ABEの初級クラスで、非英語圏からの移民や難民のために英語を教えるものだった。15人以上の登録があれば、州政府は無償で教師を週2回派遣する仕組みだった。

 フイ・コクアの所長は、日系女性。彼女に連れられて、担当のクラスに出向いた。教室は、団地内の集会所を借りて開かれ、教師には中国人の若い新米の教師が州の教育局から派遣されてきた。すでに、十数人の登録者が授業を受けていた。

 中国系ヴェトナム人の中年のおばさん、インドシナ系の母子の一群、ラオス人の老人の男性、サモア人の初老の女性、ホンコン移民のおしゃべりなおばさん、などなど。年齢、民族、社会的な条件、貧しいという共通項以外はみごとに多様な性格の集団だった。

 所長は、微笑みを絶やさない優しそうな女性だった。これなら1年なんとかやれそうだと思うまもなく、彼女はYWCAのスタッフに転職していった。私は当惑した。所長のいないオフィスを、私と2人受け付け担当のハワイ人おばさんと用務員のサモア人の老人と4人で切り盛りすることになってしまった。

 以後、ABEが開かれる朝には、一人で出席簿を抱え、緊張してクラスに出向く日々が始まった。教室を開き、椅子を並べ、受講者が来るのを待つのである。

 しかし、定刻になっても、誰も来ない。教師と私の二人でじっと待つ。いらつく私。笑みを浮かべるでもなく、平然と待つ中国系の女性教師。待つこと十数分、登録者たちが、三々五々、姿を見せた。母親たちが連れてくる子どもで、教室の中は大騒ぎとなった。しかし、誰もやかましいと文句もつけない。教師も、平然と授業を始めた。授業は、騒ぎまくる子どものために、再三、中断する。しかし、誰も怒らない。

 呆気にとられているうちに、クラスは終わった。ほとんど、何も教わらないうちに。そんなことが、毎回繰り返された。登録者の数は、すぐに減った。しかし、ある程度減ると、あとは安定した。ただ、その集団は、まったく学習意欲のない人々の群でしかないように、私には見えた。毎回、子ども連れでやってきて、ただ、椅子に座り、ほとんど集中力を示すこともなく時間を過ごし帰っていく人たち。母親たちに刺激されて、ラオス人の老人も孫を連れてくるようになり、クラスはますます騒然としていった。

さまざまな問題

 私は、混乱した。何もかもが説明不可能だった。これでは、まったく学習の効果があがらない。なぜ、こんなことになっているのだろうか。そもそも、この人たちは、一体どんな暮らしをしているのだろう。私は、受講者についていろいろと知りたかった。しかし、誰も英語を満足に話せなかった。

 問題は、それだけではなかった。そもそも、KPT自体が荒廃の極に達しつつあるように思えた。二つあるビルのうち、フイ・コクアが入っていないAビルでは、殺人事件が3件も発生していた。建物の破壊もあちこちで起こっていた。ダストシュートは出火のため、使えなくなっていたし、住人が高層の窓から投げ捨てるゴミのため、ビルの周辺は異臭が漂い、それを消す消毒薬の匂いも鼻についた。水泳プールは、いまやドブと化していた。路上には、部品をはずされ残骸と化した自動車が放置されていた。また、目につくサモア人たちには、することもなく無気力にベンチに座り込んだままの不健康に肥満した老人たちや、働くあてのない何人もの子どもを抱えた未婚の若い母親たちがたくさんいた。

 私の脳裏に、スラムという言葉がよぎった。

 そして、そんないらだちの中で、これらの難民や移民を見下し、差別している自分を見いだしたのだった。このままではいけない。何とかここの人々についての自分の認識を変えたかった。

 そんなとき、ほこりの被った棚を整理していると、フイコクアのプログラムの利用者の登録カードの束を見つけた。そこに、登録者についてのさまざまな属性データとプログラムの参加状況が記録してあった。

 私は、興味を持った。このデータを分析することはできないだろうか。そうすれば、ここの住人たちのことについて何か分かるかも知れなかった。

調査にとりかかる

 一般に社会科学の調査といえば、調査の枠組みを作ってから、それにもとづいてデータを収集するというのが建て前になっている。しかし、このような建て前は、福祉調査が置かれている現実の前ではもろい。というのも、私の場合でいえば、調査対象の人々と満足に言葉も通じず、調査をするにもお金も人もいないという状況だったからである。

 こんな時、研究者なら調査をしないという選択もあろう。しかし、ソーシャルワーカーには、その時点しかないのである。そこで、考えたのが、すでに収集され手元にあるデータの再利用だった。

 問題は分析の方法だった。これらのデータを使って、どうすれば、KPT住民の特徴を探り当てることができるのだろうか。私が採用した方法は、統計学者の林知己夫氏が開発した数量化理論第V類であった。このデータ解析法を使えば、対象者の特性を総合的に類型化することができる。

 分析法が決まれば、あとは、根気のいる作業があるだけだった。過去の登録カードを丹念に見直した。そして、すべての項目に情報が満たされている67のサンプルをえることができた。分析は、ハワイ大学の計算機センターの大型計算機で行った。

 さて、結果は、次として得られたカテゴリーごとの数値を表に記す。

−−−−−−表1(すでに送付ずみ)−−−−−−

 これら2つの軸は、数量化第V類で得られた5つの軸の中から相関係数の高いものから2つを取り出してクロスさせたものである。それらの軸の意味を解釈することによって、登録者たちを類型化するのである。

 私は、それぞれの項目がこれら2つの軸上に取る数値をよみながら、次のように2本の軸の意味を解釈した。

 まず、第1軸では、マイナス側に行くほど、KPTでの居住年数が長くなり、反対に、プラス側ではKPTでの居住年数が比較的短くなる傾向が認められるので、この軸を仮に定着性を示す軸と名付けた。(ただし、マイナス側で定着傾向が大、プラス側で小)

 つぎに、第2軸では、プラス側に行くほど、フイコクアのプログラムへの出席程度が高くなり、また、修了者もこの軸のプラス側に布置されている。一方、この軸のマイナス側には、出席の程度が低く、また、ドロップアウトも認められるので、この軸を参加意欲を示す軸と名付けた。(プラス側で参加意欲が大、マイナス側で小)

 そして、これら2つの軸を組み合わせた平面上に、すべての項目値を分布させることによって、登録者をグルーピングし、そのグループごとの特徴を見つけだした。

何が分かったか−分析の結果

 同じようにみえていた登録者にも、いくつかのタイプがあることが分かった。まず、第1象限には、高い出席率、再登録、プログラム修了、短い居住年数、女性などの項目が一固まりになって分布した。このグループは、つまり、KPTでの居住が短く、各種の教育訓練に対して強い動機付けをもつグループであるといってよい。そして、このグループと最も強く結びついていたのは中国系だった。

 第2象限には、インドシナ系の人々が位置した。彼らは、中国系と同様に、短い居住年数、移民、世帯人数5〜6人、失業などの項目と関連が深いことが分かった。ただ、教育訓練に対する動機付けに関しては、あまり高くはなかった。

 一方、これと対称的に、第3象限には、低い出席率、ドロップアウト、新規登録者、長い居住年数などの項目が一固まりになって分布した。この項目の群の周辺に分布されたのはハワイ人とサモア人だった。ただ、ハワイ人は、居住年数は長く、就業や非移民の項目の近くの位置を占め、他方、サモア人は、居住年数はハワイ人に比べれば短いが、世帯人数は大きく、教育訓練に対する動機付けはハワイ人より低かった。

 最後に第4象限には、それ以外のエスニック集団(白人、フィリピン系、日系など)が位置した。彼らは、フイ・コクアのプログラムへの参加は積極的だが、KPTでの居住年数は長く、また、非移民で、世帯人数は1〜2人と少数、高卒、高年齢などの項目と関連が高いことが分かった。

 以上の結果は、KPTの住民の中に2つのグループが存在することを物語っていた。第1のグループは、アジアから移民としてハワイにやってきた主に中国系の人々で、現在は職に就いていないが、KPTを当座の仮の宿とし、教育訓練などに積極的に参加して、新しい土地への適応に取り組む人々である。インドシナ系の人々も、中国系ほどではないが、これに近い性格をもっている。

 これに対し、第2のグループは、ポリネシア系の人々で、KPTに定着し、そこを長期の住まいとする傾向を示す一方、適応のための教育訓練への動機は低く、そのままKPTに定着していくことが予想されるグループだった。中でも、サモア人は、家族数も大きく、教育歴も低いので、一層適応が困難であるように見えた。

 つまり、社会上昇への強い動機付けをもつ移行型のアジア系住民と上昇への動機付けの薄い滞留型のポリネシア系住民である。

二つのスラム

 ここで、思い当たったのが、C.ストークスが指摘した2つのスラムのモデルだ。ストークスによれば、スラムには、「希望のスラム」と「絶望のスラム」という2種類のスラムがあるという。

 「希望のスラム」の特徴は、そこに住む住民の多くが、そこを人生の過渡的な仮の住処と考えていることである。彼らは、田舎や外国から移住してきて、今は豊かではないが、生活費の安いスラムに住みながら働いて蓄積をした後、いつかはそこを出て、都市民としての生活を享受したいと考えている。

 一方、「絶望のスラム」の特徴は、住民の多くが、そこを失敗続きだった人生の最後の地と考え、上昇の目的を持たず、貧困のうちに滞留し続けることである。そこには、身寄りのない老人、ギャングや売春婦、社会的な逸脱者たちも集まってくる。

 この類型は、C・ストークスが1960年代に発表した著書に紹介されており、スラム研究者には、すでに知られていた。KPTでの調査結果は、この類型と同じ傾向がKPTにも見られることを示唆していた。

 移民したばかりでやる気に満ちたアジア系住民にとっては、KPTはいわば「希望のスラム」である一方、ハワイに定着してはいるが社会上昇の機会が得られないポリネシア系住民にとっては、そこは、いわば「絶望のスラム」なのである。

 KPTのような地区をどう呼べばいいのだろうか。シカゴ学派を代表する社会学者のひとりであったL・ワースは、このような特定のエスニック集団が半ば強制的に居住させられた地区をゲットーと呼んだ。

 ただ、ワースの時代と明らかに異なるのは、たとえばKPTにみられるように、今日の先進諸国におけるゲットーが、福祉政策の衣を纏って存在しつづけていることだろう。特定のエスニック集団を多数派の社会から分離するために設けられたヒンターランドがゲットー型のスラムであるとするなら、たしかに、現代アメリカにもスラムは存在していたのである。

調査結果をどう受けとめるか

 この調査が示す事実をどう受け止めればよいのだろうか。KPTには2つのスラムが同居し、ポリネシア系住民は絶望のスラム、アジア系の住民は希望のスラムに住むと考えればよいのだろうか。

 私がKPTにやってくる前にKPTのサモア系住民に対していくつかの調査が行われ、その結果、サモア系住民は、社会福祉に依存する人々であるという定見ができあがっていた。たとえば、駒井洋氏らが1977年にKPTのサモア系住民63人に対して行った聞き取り調査でも同様の結論を導いている。駒井氏は、次のように書いている。

「社会福祉への依存により生活する人びとが、サモア人という特定のエスニック集団に多くみられることについてはどのような説明が可能であろうか。これについて一般のハワイ州民は、次のように考えているように見受けられる。サモア人はサモア文化を強く保持しつづけている。その文化では、大家族や親族が尊重されるとともに、女性が他の活動を犠牲にしても育児の主要な担い手であることを期待されるとともに、女性が賃労働に従事することはその女性の威信を下げる。そのうえ、彼女たちの英語能力の低さによる言葉の壁が労働市場への参入を妨げる。こうしてこの文化にあっては、母親である女性の社会福祉への依存は恥とならなくなるのである。」

 注記がないので、このような見解が誰によって示されているかは分からない。しかし、アメリカ在住のサモア人の抱える社会的困難についての見方には、共通した傾向が認められる。(たとえば、アメリカに移民したサモア人の家族内葛藤を観察したF・U・ムノスの研究がそうだ。)

 このような指摘に共通するのは、ひとつのエスニック集団の問題行動や社会的不適応の原因をそのエスニック集団が持つ文化特性に求める立場だ。このような立場は、オスカー・ルイスが「貧困の文化」という概念を提出して以来、広く受け入れられるようになった。

「貧困の文化」

 ルイスによれば、貧困者は、多くの国で類似した下位文化、つまり「貧困の文化」を保持するという。「貧困の文化」とは、貧困に適応した生活様式であり、人々を貧困から脱出するのを妨げる。ルイスの主張は、貧しさの中にたたずむ人々を理解する上で重要な示唆を含んでいた。貧しい人々に対して、道徳的な審判者や矯正者の視線を棄て、彼らの側にたって、貧しさの存在理由を理解することの大切さを説いたからだ。

 しかし、ルイスの暖かな視線にもかかわらず、ルイスが提出した概念はその後一人歩きを始める。それは、矯正者たちが貧困者を矯正することの正当化に使われるようになっていった。矯正者たちは、福祉や社会政策の名の下に、貧困を滅ぼすために、「貧困の文化」を駆逐するという作業に没頭するようになった。貧しい者の多くは、その社会の多数派と異なった文化をもつエスニック集団である場合が多い。その結果、彼らのエスニックな「文化」は、彼らの貧困の原因(=「貧困の文化」)とみなされ、矯正の対象となったのである。しかし、多くの場合、矯正者が「貧困の文化」を口にするのは、たとえば、行政が貧困対策に失敗して言い逃れをいうときだった。「貧困の撲滅は困難だ。だって、それが彼らの文化だから」という具合である。

 ライヤンは、このような倒錯を『ブレイミング・ザ・ビクティム』の中で、貧困を抱える人々の「文化」が貧困の原因にされることを、被害者を非難すること(Blaming the victim)だと述べ、その不当性を指弾している。

 そもそも、ルイスは「貧困の文化」が認められる条件として、市場経済、慢性的な高い失業率、貧困者自身の社会的政治的組織の不在、そして貧困は個人に原因があるとする価値観などが存在する場合、を指摘していた。これらは、今日の発展途上国とその反射としての先進国大都市の貧困地域が共通して抱える構造的な問題である。

 そう考えると、KPTのサモア住民の抱える問題は、彼らの文化的特性から由来する問題ではなく、むしろ、彼らを包み込む先進諸国の生活環境や社会構造にその原因を求めるべきだということになる。

別の見解

 私の後、この地域のサモア系住民の家族を追いかけ続けている文化人類学者の山本真鳥氏の研究では、次のような見解が出された。彼女の研究では、サモアからKPTに移り住んだサモア人たちには、いくとおりかのタイプが見られた。KPTから脱出することなく、自分の収入はおろか親族からの援助すらサモアの伝統的文化である儀礼交換(ファアラベラベと呼ばれる)につぎ込んで、体面の維持を図ろうとする年長者たち。職を得てKPTからの脱出を果たしながらも、心理的に親族からの援助要請を断れず、際限ない財の分配を行ってしまう第二世代。しかし、第二世代には、アメリカ的な個人主義と教育を身につけ、KPTからの脱出に成功する第3のタイプも同時に存在するという。いずれにせよ、これら第二世代の多くは、最底辺の仕事を引き受けながら、不十分な賃金の下で寡黙に働く人々である。彼女の観察は、文化が貧困を呼ぶのではなく、親族内の財の分配に関わる構造が結果として個人の社会上昇を疎外することを示した。

 また、同じくアメリカ本土のサモア人のエスニック集団を研究している社会学者の山本泰氏は、在米サモア人たちを取り囲む圧倒的な貧困や差別が、彼ら自身を結束させ、自分たちをサモア人であるという意識に駆り立てていると述べている。つまり、在米サモア人たちが、民族性を強く主張し排外的な態度をとる背景には、彼らを取り囲む貧困がある。他方、生活に不自由ないミドルクラスたち(多くは白人たち)は、サモア人たちが結束することが逆に差別を呼ぶのだと自分たちの差別を正当化する。

 そこには、貧困がマイノリティの民族性を覚醒し、それが多数派との差別を増幅させるというディレンマがある。そして、ここでも、少数派エスニック集団の社会問題が、その文化ゆえに生じるのか、また、貧困という環境から生じるのかという問いが繰り返されることになる。

 私の調査結果についても、それをどう読むかで結論も変わってくる。希望のスラム型の特性を示す中国系の住民は、KPTの最近の住民である。KPTという劣悪な環境の影響に曝される時間が短かったから、職業訓練や上昇機会へ動機付けも高い状態でいられたと考えられないだろうか。一方、ポリネシア系の住民は相対的にKPT居住の期間が長い。その結果、絶望のスラム型のライフスタイルを獲得してしまったと考えることもできるだろう。実際、肥満はポリネシア系だけでなく、長期在住の白人や日系人にも共通して見られる傾向だった。

答えのない問題

 私がKPTで体験したポリネシア系住民の問題をみなさんが自分に引き寄せて考えるということは、今後、日本の社会が異文化の人々と付き合っていく際に生じるさまざまな問題を予見することでもある。

 特定のエスニック集団が抱える社会問題の主要な原因を、そのエスニック集団の内在的な要因に求めるのか、それともその環境的な要因に求めるのか、それは社会学に突きつけられた大きな課題だといってよい。

 しかし、ここで重要なのは、問題の少ないエスニック集団と問題の多いエスニック集団を比較して、どちらが良いかといった議論をすることがいかに不毛であるか理解することである。比較社会学は、定式化された知識を比較という手段を使って相対化することによって、従来とは別の視点を導入しようとすることに意義があるのだから。

 だから、私は、正解のない問題をあえて選んで、みなさんに提示してみた。みなさんは、この問題にどんな解答を用意されるだろうか。


<考えてみよう:発展問題>1 あなた自身は、本文中の調査結果をどう解釈するだろうか。

(アプローチ:たとえば、居住期間の長短とプログラムへの参加度の強弱の関係をどちらが原因でどちらが結果と読むかで、結論が分かれてくることに注目してみよう。)

2 あなたの周囲にいる異文化の人々の社会問題について、メディアはどのように報道しているか調べてみよう。そして、その原因として文化要因にはどのようなものが挙げられているか、また、社会環境要因にはどのようなものが挙げられているか調べてみよう。

(アプローチ:新聞記事のデータベースから在留外国人問題関連の記事を検索してみよう。)

3 あなたの周りで海外移民したり、海外で就職したりしている友人や親類はいないだろうか。その人たちから、異文化の人々についてどのような見方がなされているか、また、日本人に対して現地の社会がどのような見方をしているかしらべてみよう。

(アプローチ:日本人が勤勉な民族だというイメージは正しいだろうか。そんな見方があるとするなら、その原因について考えてみよう。その際、海外での成功と日本人の勤勉さは相関するのか議論してみよう。)


<引用・参考文献>

・山中速人『アロハ スピリット−複合文化社会は可能か』筑摩書房、1987年

 KPTでソーシャルワーカーとして働いた体験をもとに、移民や難民の異文化適応の問題や多民族複合文化社会におけるエスニック集団間の関係について記述したフィールド記録。

・新津晃一編『現代アジアのスラム−発展上都市の研究』明石書店、1989年

・L・ワース(今野敏彦訳)『ゲットー』1981年

・駒井洋『移民社会日本の構想』国際書院、1994年

・Munoz, Faye U. Pacific Islanders: A Perplexed, Neglected Minority. Social Casework, (3)1976, pp.179-184.

・オスカー・ルイス(高山智博訳)『貧困の文化−五つの家族』新潮社1970年

 メキシコの農村部から都市部へ流入してくる貧しい人々の個人史を何人かの人々の一人称の文体の物語形式として再構成した生活史研究の古典的名著。

・Ryan, William. Blaming the Victim, Vintage Books, 1976.

・山本泰「マイノリティと社会の再生産」『社会学評論』175, 1993年, PP.20-39.

・山本真鳥『現代移民と文化葛藤−ハワイに移民したサモア人の生活史調査』

山中速人『ハワイ』岩波新書、1993年

 多民族複合文化社会としてのハワイの歴史とそれを構成する各エスニック集団の形成と特徴について概説した入門書。


<学習:この章の理解のために>

・林式数量化理論第3類

 質的変数間の相関関係を示すいくつかの軸を取り出し、その軸上に値を持つ個々の項目を配列することで軸の意味を解釈したり、また、その軸を二本以上を交差させた平面を作り、各項目をその上に布置させ、その偏り具合や集まり具合をみることによって項目のグルーピングを行い、対象データ群の類型化を行う多変量解析法の一つ。

・ムノスのサモア人調査

 ムノスの研究では、伝統的サモア社会の中で親族の意志決定に関して最高の統制力を有していたマタイ(首長)は、その権威のあり方が絶対的であるために、逆に移民することによって新しい環境に適応できず、若い世代の非行や犯罪などの社会的逸脱に対して、有効な統制をほとんどなしえなくなっていると結論づけている。

・ルイスの「貧困の文化」

 「貧困の文化」の特徴は、貧困者をとりまくより大きな社会への不参加、家族を超えた組織の不在、子ども時代の欠如と性への早い接触、低い自己評価、さらに自己に対する強い無力感などである。「貧困の文化」は、ひとたび価値体系として定着すると、それを終わらせるためには、たんに物質的な向上だけでなく、価値体系と意識の変革も必要だということになる。他方、ルイスは、「貧困の文化」が状況に対する適応の形であるとも主張し、この下位文化が生存のためのメカニズムとして肯定的側面をもつことも指摘している。

・サモアの儀礼交換(ファアラベラベ)

 山本(真鳥)によれば、ファアラベラベとは、結婚式、称号就任式、葬式、教会落成式といった儀礼が行われる際、細編みのゴザ(女財)と現金・食べ物(男財)とを交換する儀礼交換を指す。ファアラベラベは、サモア語で「不慮の事故」を意味し、親族関係を通じて否応なくこの儀礼交換に巻き込まれる。サモアでは、一人前のサモア人なら、この儀礼から逃れることは不可能とされるが、移民先のサモア社会でも、この儀礼交換は本国と一体化しつつ継承されている。

<テーマに関連する用語>

・エスニック集団

 1つの国家の国民でありながら、それぞれに異なった民族的な文化や生活を維持している集団をエスニック集団とよび、それらの集団に共通する民族的な特性をエスニシティとよぶ。アメリカなどの先進国社会が多文化化の傾向を強める中で、固有の民族特性をもつ人々の集団的結束が強まりつつある。このような傾向を反映して、最近、とくに注目されるようになった。 

・スラムと社会事業

 スラムとは、産業社会の発達によって、都市に流れ込んでくる大量の低所得者階層の受け皿として、大都市周辺に発生した過密集住地区のことをさす。貧困、失業、犯罪などの社会問題が集積する傾向をもつ。このような社会問題を解決するため、行政機関や宗教団体などの手によって、救貧、医療、児童保護、精神保険など、地域に居住する住民を対象とした様々な社会事業が行われてきた。社会学にとって、スラムは研究対象であると同時に、その研究成果を社会福祉事業の展開のために貢献する場でもある。

・国際経済と移民

 移民には、厳密には国内移民と国際移民の2種類あるが、通常は、国際移民をさす。国際経済の発展過程で移民は重要な役割を果たした。この観点から移民現象は、1.開発途上国の資本主義化の過程で不足する労働力を補うための移民(19世紀までのアメリカへのヨーロッパ移民、現代の東南アジアへの中国人移民、戦後のハワイへの日系移民)、2.資本主義中心地への周辺地域からの移民(現代アメリカへの中国人移民、ヨーロッパへのアフリカ人移民)に類別することができる。


  <コラム>

1 日本は単一民族社会か

 「日本社会は単一民族社会である」という言説は、どこからきたのだろうか。社会学者の小熊英二は、この神話は意外にも戦後生まれだという。小熊は、『単一民族神話の起源』(新曜社)で、この国が近代に開国して以来、自らをどのような民族として自己規定してきたかを、古代史学、人類学、民俗学などの碩学たちの学説を始め、国体論者やキリスト者たちの言説、ジャーナリズムの論調などを分析し、日本が周辺諸国を植民地化しつつあった戦前期には、意外にも日本民族=混合民族論が支配的であったと指摘している。

 しかし、敗戦後、大東亜共栄圏が崩壊し領土が縮小すると、内向的傾向が強まり、また、周辺アジアを覆う冷戦の緊張から「一国平和主義」的に距離を置こうとして、単一民族論が主流になった。この戦後の単一民族論とは、日本は古来から単一民族の社会で民族間抗争の経験がない平和な稲作社会だったという主張である。このように日本はいつのまにか古来単一民族社会であったという定説が行き渡った。これは文化人類学ではすでに有名な「伝統の発明」とでもいえる現象である。

 日本人の民族的な自己規定は、小熊がいうように「国際関係における他者との関係が変化するたびに、自画像たる日本民族論がゆれ動」き、「日本民族の歴史と言いつつ、じつは自分の世界観や潜在意識の投影」に過ぎないのであろう。

2 日本のエスニック・コミュニティ

 特定のエスニック集団に属する人々が集中して住む地域をエスニック・コミュニティという。日本のエスニック・コミュニティには、横浜の中華街や大阪市生野区周辺の在日韓国・朝鮮人街などをあげることができる。中でも、大阪市生野区の在日韓国・朝鮮人街は、通称「猪飼野」とよばれ、約2万人の在日韓国・朝鮮人、最近では韓国からの資格外就労者も居住する日本で最大のエスニック・コミュニティとなっている。この街の形成については、金賛汀『異邦人は君が代丸に乗って』(岩波新書)が詳しい。韓国・朝鮮の伝統的な食料品や衣料を扱う通称「コリアタウン」とよばれる御幸森通り商店街。民族学校。在日の企業家たちが経営する企業や工場が随所にみられる。ただ、多くの在日たちは日本式名を使っているので、一見では、わかりにくい。そこに日本人による差別の歴史と現実を知ることできる。しかし、最近、在日たちの民族的な自己主張が高まりつつある。コリアタウンも改装されコリア文化を全面に押し出した。ぜひ、訪ねてみよう。