96-02-01
ミャンマーの人々は「ビルマの竪琴」をどう観たか(後編)

『少年育成』96年4月号掲載


ビデオを抱えてミャンマーへ

 ミャンマーの人々は映画「ビルマの竪琴」をどのように観るのだろうか。そんな疑問を抱いているとき、絶好の機会がめぐってきた。95年11月、農耕文化研究振興会(代表:渡部忠世京都大学名誉教授)が企画するミャンマーの稲作農村調査に参加して、ミャンマーを訪問することになったのである。
 渡部先生とは、これまで数回にわたって、タイを中心に東南アジアの稲作農村の映像取材にお供をしてきた。ミャンマーを訪問するのも、この延長で、今回の調査での私の最大の任務は、ミャンマーの稲作農業についてのビデオ映像を収録することであり、数年来の企画である東南アジアの稲作農業に関するCD−ROM化を完成に近づけることであった。ただ、この機会を利用して、ミャンマーの人々にビルマの竪琴を上映できそうである。
 限られた日程と時間を調整して、上映は首都のヤンゴンではなく、パガンで行うことになった。調査団の受け入れに当たった現地側の通訳のピューピューアンさんに、調査団がパガンに滞在する日程に合わせて、視聴後のインタビューを補佐してくれる英語の通訳を1名確保してくれるように依頼した。さらに、この英語通訳に私のパガン到着までに、視聴してくれる被験者を4〜5人確保しておいてくれるよう依頼した。
 本格的な調査ではないから、被験者の人選にあたっては男女の比率をほぼ同数にするのと、戦後世代と戦前戦中世代がともに含まれるよう最低の条件を付した。パガンは仏教遺跡で有名な地方都市である。ピューピューアンさんの話では、人口規模も小さく、ホテルで小さな上映会を開くと言った催しをするには、ちょうどよいということだった。

5つのシーンを用意した

 映画「ビルマの竪琴」は2時間近い作品である。本来は、それを全部視聴してもらいたかったが、それでは、視聴後のインタビューまで含めると拘束時間が長くなりすぎる。その上、日本で手に入るビデオには、もちろんビルマ語の字幕スーパーはついていないので、長時間の視聴は無理かもしれないと判断した。そこで、物語のあらすじは、上映の前に通訳を通して私が言葉で伝えることにし、実際に上映する映像は、85年製作の新版の中からつぎの5シーンに絞った。これらのシーンの上映時間は、あわせて25分程度となった。これならいけそうである。

シーン1 敗走する小隊が、ある山村に一夜の宿を借りるため、水島上等兵(中井貴一)を偵察と交渉に差し向けた。安全が確保され、交渉が成立すると、水島は竪琴で音楽を演奏して、林に潜む小隊に知らせた。村では、小隊の兵士と村人たちの交歓の宴が始まった。村人の厚情への返礼として合唱で答える兵士たち。そこへ、突然、敵兵が村を取り囲んでいるという知らせが村人から伝えられた。緊張する兵士たち。隊長(石坂浩二)は、村人たちを会場から出し、敵に気づかれないため、「ああ玉杯に花受けて」と合唱しながら、戦闘の準備を始めるよう命じた。

シーン2 ムドンの収容所。帰国の日を無為に待つの小隊。そこへ、現地の物売りのおばさん(北林谷栄)が聾唖の孫をつれて通ってくる。兵士たちは、靴下などの回りの品々や手作りの箒や笛などと食料を物々交換するのだった。このおばさんに、隊長は、はぐれてしまった水島上等兵の消息をさぐるよう依頼した。

シーン3 戦闘に巻き込まれて負傷した水島は、ひとりのビルマ僧に助けられ、洞窟で介抱されていた。帰隊の願望を抑えられない水島に、ビルマ僧はこの世の無常を説き、イギリスがきても日本がきても、「ビルマはビルマじゃ」と淡々と語った。しかし、回復した水島は、僧が水浴の最中、袈裟を盗み髪を落とし僧になりすまして、ムドンへと数百キロの道を歩き始める。慣れない裸足の旅、血の滲む爪先。空腹で力尽きて荒れ地に座り込む水島。ところが、通りかかりの農民が水島に手をあわせ食べ物をささげた。僧と錯覚したのだ。
 民衆の喜捨を受けながら旅を続ける水島。山岳地帯の村で、朝の托鉢の僧たちにまぎれて食べ物を受け取る水島は、そのまま僧たちに導かれて寺院を訪れた。すると、出迎えた僧は水島の腕輪を指して「そのような高位の腕輪をした僧はお会いしたことがない」と、歓迎の言葉を受けた。

シーン4 やっとムドンに到着した水島は、聾唖の娘と老人が、森でオウムを捕まえているところに偶然出くわし、収容所の位置を尋ねた。帰隊の機会を待って、僧の姿のまま、近くの寺院に滞在する水島。窓の外から、埴生の宿のメロディーが聞こえてきた。イギリス兵相手に竪琴を弾いて小銭を稼ぐ子どもが練習していた。水島は、その子に自分が編曲した埴生の宿を教えてやった。

シーン5 ビルマに残ることを決心した水島上等兵は、小隊が日本に帰国する前夜、収容所の鉄条網の外に竪琴を抱え、オウムを肩に乗せ現れた。水島が埴生の宿を竪琴で弾く音色に、隊員たちは小屋から歌声をあわせながら次々と出てきた。いっしょに帰ろうと水島に迫る隊員たち。しかし、水島は一言もしゃべらず、それに「仰げば尊し」のメロディーで答え、夜霧の中に消えていった。

 以上の5つのシーンを選んだ。どれも映画の中では重要なシーンであるが、シーン5をのぞいて、これらのシーンは、とくに、ビルマの人々と日本兵との接触を扱ったシーンである。ビルマ人に扮した日本の俳優もたくさん登場するし、また、ロケした際のおそらくはタイ人のエキストラや俳優もこれらのシーンに登場している。被験者にとっては、これらの接触のシーンは、他のシーンと比べてより強い刺激因子となるはずである。
 以上のシーンを見せた後で、被験者に対して、全体をとおして何を感じたか。また、シーンに登場するビルマ人や日本兵の振る舞いや行動に奇異な点はなかったか、あるいは、得心できる行動や振る舞いはどれか。描かれる日本兵とビルマの人々の関係についてどう思うか。最後に、このような映画が製作されていることについてどう評価するか。これらの点について質問することにした。

パガンのホテルにて

 パガンに到着した。ホテルのロビーで依頼していた英語通訳の女性が出迎えてくれた。打ち合わせの結果、上映は次の日の夜と決まった。
 団長の渡部先生は、京都大学で教鞭をとっておられた時代に多くのビルマからの留学生を指導されておられた。ビルマには、教え子や知り合いの農学者がたくさんいる。今回の調査団も、そんな先生の知名度も手伝ってか、政府の特賓あつかいとなってしまい各地で政府のお役人が待ちかまえていて近代的な農業施設や日本の援助でできた施設を案内してくれた。わずらわしくもあったが、好意には素直に従うことにした。英語で説明するお役人の通訳をするのが私の役目だった。パガンでも、そんな訪問を足早に済ませ、フィールドにでだ。
 船をチャーターしてイラワジ川に出て、洪水敷に展開する蔬菜畑を観察した。雨期開けの河原に堆積した土を耕す農民の姿をそこここで見ることができた。中州を人力で開墾し、豆を作付けする農民の姿もあった。私は、さっそくビデオをまわした。農民の肩越しにはるか対岸にみえるパゴダの金色にひかる丸屋根がときおりレンズに鈍い光輪を描いた。
 暑く乾いた日中のフィールド調査が終わり、上映の夜がやってきた。
 上映には、ホテル側の好意で、ロビーを借りることができた。ヤンゴン育ちの30代前半の若い中国系の支配人は、これからは観光が発展すると予想し、この仏教遺跡で有名なパガンの町に親戚が出資して建てたホテルの支配人になった。地元のビルマ人たちを叱咤してホテルを切り盛りするかたわら、時間が許せば自ら車を運転して、観光客のガイド役も買ってでるやり手の男性だった。彼は、私が日本から持参した再生機能付きの8ミリビデオカメラと液晶モニタをみて、
「それでは、画面が小さすぎる。ロビーにあるテレビを使えばいいじゃないか」と進めてくれた。私が、
「ご好意はありがたいけれど、ミャンマーはPAL方式、日本のビデオは北米(NSTC)方式だから無理だよ」
と断ると、「いやいや、ぜんぜん、ノープロブレム」と私の言うことなど無視して、安請け合いをする。私は、この支配人、きっと外国にでたことがないので、方式の違いがわからないんだなと思い、まあ、映らないのを実際に示せば納得するだろうとビデオケーブルをそのビデオ入力端子に差し込んだ。すると、どうだろう。こちらの予想を裏切って、あっけなくパッと映ったのである。
「そらごらん」と、小鼻を膨らませて自慢げな支配人。
「へー。このテレビ、マルチ対応なんだ」と驚く私。
 ようするに、テレビ放送の発達していないビルマでは、ビデオカセットの視聴が受像器利用のかなりを占めるのだが、そのとき、闇で国外から流入するいろいろな規格のビデオを見るには、受像器の方がマルチ対応でなければならないというわけ。

上映が始まると沈黙が

 さて、待ち合わせの時刻になると、女性通訳に連れだって5人の被験者がやってきた。通訳が一人一人紹介してくれた。
 Aさん、32歳の女性、市場で総菜を売っている。
 Bさん、57歳の女性、かつて学校で英語の教員をしていた。
 Cさん、31歳の女性、ラッペットゥ売りをしている。ラペットゥとは、ミャンマーでよく見かけるおつまみで、お茶の葉に味を付けそのまま食べるものである。
 Dさん、58歳の男性、退職教師、来日の経験がある。
 Eさん、63歳の男性、左官職人である。
 これら5人の被験者にこれからビデオを見てもらうのである。
 かれらが腰をおろすソファーの前にテレビを移動させた。だだっ広いロビーには、私たちを遠巻きにしてホテルの従業員が何人も集まっていた。支配人も、当然のようにソファーに腰をおろしてビデオの始まるのを待っていた。
 ビデオの再生ボタンを押す前に、私は、今回の上映の主旨と視聴後依頼するインタビューについて英語で説明し、続いて、あらかじめ簡単にメモしておいたあらすじを話した。それを通訳嬢がビルマ語に翻訳していった。
「それでは、始めます。シーン1です」
 テレビには、兵士たちの行軍する姿が映し出された。じっと見入る被験者たち。かなり重苦しい進行だった。もうすこし、リラックスしてほしいところだが、こちらが研究者なのがよくないのかもしれなかった。シーンの半ばで、川谷拓三が演じる音痴の軍曹が水島上等兵の送った合図のメロディーを判別できず、隊長に確認してみんなから笑い者にされるシーンがあった。日本では受けたはずのこのシーンも、ミャンマーの被験者たちにはまったく響かないようだった。延々と重苦しい沈黙が続いた。
 ひとつのシーンが終わるごとに、全員に質問をした。
 はじめは男性がばかり発言した。いちばん多くしゃべったのは、なんとホテルの支配人だった。さすがヤンゴン育ちだけあって自信ありげに堂々と意見をいった。これに比べて、女性はおおむね控えめだったが、だんだん雰囲気がなごんできたためか、発言しはじめた。ただ、総菜売りの女性だけは、最後まで微笑するばかりでほとんど自分の意見を言わなかった。
 しかし、いったん話がはずんでも、つぎのシーンがはじまるとまた重苦しい雰囲気になってしまった。そのうち、「あー」とか「ふー」とか、溜息が聴こえてきた。どうもそわそわしているのであった。そわそわというよりか、居心地が悪いというか、居ても立ってもいられないという感じだった。私は、あらかじめ用意していたもう一台のビデオカメラでビデオを視聴する被験者たちを端から撮影していた。帰国して、その時撮った映像を丁寧に確認してみても、それがはっきりと分かった。
 途中、一カ所だけ彼らが笑ったのは、シーン3でビルマ僧に扮して苦しい旅を続ける水島上等兵が飢えと疲労で動けなくなったところをビルマの農民から思わぬ食べ物の喜捨を受け無我夢中でそれをほおばるシーンだった。日本人の観客なら、感極まってこそすれ、笑いがでるシーンではなかろう。しかし、この被験者たちは、そこで笑ったのである。どうも、何かが違うのだった。

違和感という反応−ビルマの竪琴はどう観られたか

 その理由は、インタビューの中でだんだんはっきりしていった。ここで各シーンに対する被験者の反応を紹介しておきたい。
 まず、シーン1では、「住民の話すことばがぜんぜん違う」という。私が、「日本人が扮しているからか」と聞くと、「もちろん、それもあるが、おそらくこの村はヒルトライブ(山岳少数民族)の村だからかな」と答えた。それから、「ビルマ人は、もっとにこにこしているよ」と登場するエキストラのタイ人たちを指していった。
 また、戦争を体験した世代は、映画の中の日本兵について、「日本兵はあんなに立派じゃなかったな。ガリガリに痩せていたし、惨めな感じで背がもっと低かった。戦後の日本人は体格がよくなったもんだ」と感慨深げに語った。また、「日本人兵より朝鮮人兵の方がきつかった」というようなこともいった。
 シーン2では、物売りのおばさんに扮する北林谷栄に対して、女性たちが共通の反応を示した。
「あれじゃ(日本の)兵隊たちがかわいそう」
 私が「どうして?」と聞くと、こう答えた。
「だって、あの女(北林)、兵隊たちのまだ新しい靴下や一生懸命作った箒をあんなくだらない食べ物と交換しているんだから」
 たしかに、ちらっと映ったカットの中に、北林が持ってきた数房のバナナと小さなパパイヤ1個が映っていた。ほとんどの日本人なら見落とすだろうほんの1、2秒のカットを彼女たちは見逃さなかったのである。さらに、「あんなに日本語のうまいビルマ人はいないわね」と途中で飛び入りしたピューピューアンさんが言った。彼女は、ヤンゴン大学大学院で化学の修士をとった秀才だが、就職難で日本語を学び直し、現在、日本人旅行者相手の通訳をしている。彼女の発言は、やや皮肉を含んでいた。というのも、北林谷栄は、教養のないビルマ人の物売りがしゃべるだろう下手な日本語を演技しているのである。
 彼女たちの意見を総合すると、北林谷栄のおばさんは、日本語を巧みに操って兵隊たちから品々を巻き上げる、ビルマ人の風上に置けぬ強欲ばあさんということになった。
 つづくシーン3が最も反応が強かった。反応の大半は、ビルマ僧のしぐさや服装などにまつわるものだった。
「袈裟が違う。あれはタイの僧侶のもの」
「あんな拝み方はしない。体全体を地面に投げ出すのが正しい。」
 また、喜捨を受けた食べ物を両手に受けて食べる中井のしぐさに「お行儀の悪い食べ方。僧侶はあんな食べ方は絶対にしない」と年寄りたち。「あれは、まったく日本人の食べ方だろう」と戦争体験のある男性。「いや、そういうわけではないけれど。そう見えますか」と私。「そう日本人の食べ方ね。両手で受けて、口から迎えにいって食べてるから。すくなくとも、ビルマ人じゃない」とピューピューアンさん。「それじゃ、この僧は日本人ということは誰の目にも丸わかりというわけ」と私。「そういうこと」とみんな。
 ほかにも、ビルマ僧のおかしな点について指摘が続出した。
「お寺についたとき、そこの僧侶が水島のしている腕輪をみて『こんな位の高い腕輪をしている僧ははじめてだ』とかいいますね。ビルマの僧侶は一切の装飾品を身につけることは禁じられています。時計もしませんよ」
 私は、タイの僧侶たちが高価な腕時計をしているのをみた話を伝えた。それに対して、被験者たちは、口々にそんなことはビルマでは絶対にないと強調した。
 ビルマの仏教習慣について、この映画が完全な逸脱をしていることは、つづくシーン4やシーン5でも次々に指摘された。
「ビルマでは、僧侶は歌を歌うことも禁じられている。楽器にさわることも」
「物乞いの子どもに竪琴の弾き方を教えるなんてあり得ない」
「オウムを肩にとまらせているのも吹き出してしまう」
「タイでロケしたのが、よくないね」などなど。
 クレームが、あまりにたくさん出され、その上、通訳の女性もだんだん興奮してきて、自分が通訳と言うことも忘れて意見をまくしたて始めたので、インタビューはかなり混乱してしまった。だから誰がどの意見をいったか、正確に確認できなくなってしまったことを今残念に思っている。しかし、いずれにせよ、この逸脱が強い反応を被験者から引き出したことは確実だった。

描かれた側からの解釈−「水島」とは何だったのか

 被験者たちが示した違和感に満ちた反応は、映像が表現するビルマのディテールにおける逸脱や食い違いに原因するものだった。「あまりに間違いが多いので観ていられない」と被験者たちは語った。実際、最初興味深げに観ていたホテルの従業員たちも三々五々消えてしまい、最後にロビーに残ったのは関係者だけになってしまった。
 文学作品と異なり、映像は抽象的な表現を受け付けない。たとえば、「袈裟」ひとつとってみても、それがどんなデザインや色で、どう身につけるかという具象性を抜きに表現することはできない。そこが言葉の表現とは異なっている。
 映画の理論家として著名なジェイムズ・モナコがいうように「われわれは言語体系の中で言葉を変化させることができるようには映像の記号は変化させることはできない」のである。映像の記号は、短絡的な記号である。たとえば、「僧」という文字をわれわれが子ども時代に学んだとき、それはある種の畏敬や尊敬などの意味を付加されて心の中に刻み込まれたはずである。だから、その言葉を聞いたとき、われわれはそのような観念を同時に想起する。しかし、視覚像としての映像は、それが示す意味ともっと直接的な関係をもっているのである。
 竹山がビルマ僧に化けた日本兵を言葉で表現したとき、無意識にビルマ人から尊敬を受ける日本人の姿をそこに塗り込めることができた。しかし、市川の映像はそうはいかなかった。ビルマ人の被験者から見えた中井のビルマ僧は、日本人そのものであり、彼らは、それを「ビルマを放浪する、一目でそれと分かるみじめな敗残日本兵」として理解した。
 他方、日本人にとっては、ただの南洋の食べ物を意味する記号に過ぎないバナナとパパイヤのカットも、それが日常生活のなかでもっと詳細な意味をもつ記号として存在しているミャンマーでは、日本人とは別の意味を含むカットとして理解されたのである。つまり、「あの安物でややしなびた小さなバナナや熟していない硬めのパパイヤ」を高価な繊維製品である靴下と取り替える物売りの強欲さが、そこから解読されたのである。
 私は、当初、この映画をビルマの人々がみれば、当然、日本の戦争責任の問題が話題の中心になるだろうと予想していた。もちろん、はるばる日本からやってきた日本人に対して、礼に篤いビルマの人々が無遠慮に日本を非難したりすることはないだろう、しかし、映画が映画である。当然、話はそういう方向に流れていくと思っていた。そうなれば、実際にビルマで日本兵が行った行為とこの映画に描かれているそれとのギャップや、ビルマ人に対するこの映画の描き方の中に含まれている日本人の偏見や誤解が発見されるのではないかと考えていた。
 しかし、私の予想は大いに外れてしまった。私が当初予想していたような物語の内容や政治的意味に踏み入る以前の段階で、映像に表現されたビルマの習慣や生活のディテールがあまりにかれらのものと違うため、彼らを入り口で立ち止まらせてしまったのだった。
 この事実から、近年国内で大論争を引き起こした日本のアジアに対する戦争責任の問題について、われわれは多くの教訓や示唆を得ることができるはずだが、それは今はいうまい。
 ただ、印象に残ったことをひとつつけ加えておきたい。ビルマ僧に化けた水島上等兵が実は日本人であることがばればれだと被験者たちにいわれたとき、私は「それじゃ。こんな状況設定はどだい無理なんですね」と聞き返した。この問いに対して、被験者たちは、こう答えたのである。
 「いやそんなことはない。日本人と分かっていてもビルマ人は水島を助けただろう。それは、彼が袈裟をきているからだ。たとえ、それが日本兵だと分かっても、袈裟を着ている限りその人物は護られる。それがビルマだ」
 ミャンマーの一般の人々がもしこの映画を観たとしたら、この映画の意味する世界はずいぶんちがったものに理解されるだろう。日本人が思い浮かべる水島は、ビルマ文化に深く精通し、僧侶の姿に身をやつして危険をさけつつ敵中数百キロを踏覇した思慮深い人物。そんな人物が、道中、打ち捨てられた日本兵の遺骸をみてビルマに残留することを決意する。そこに、日本の観客は自己を同一化するのだろう。
 しかし、ミャンマーの人たちは同じ映像から異なった理解をするだろう。つまり、ビルマの風俗習慣について無知なひとりの日本兵が、袈裟を着ているばかりに、それと知りつつ助けるビルマの人々のおかげで無事目的地にたどり着く物語として。
 このような被験者たちの見方をどう考えればよいのだろう。それは、来訪者である日本人の私に対してビルマの仏教文化を理想化して語ったものだろうか。それとも、彼らの生活世界におけるリアリティなのだろうか。おそらく、実際、どちらでもあるのだろう。少なくとも、その言説が公然と受けとめられている社会がそこにあることは事実なのである。そして、それを知ることによって、われわれは今すこし謙虚になれる。
 不十分ではあるが、今回の試みからすくなくともつぎのようなことはいえるだろう。他者に対する理解や思いは、たとえ、それが好意的なものであったとしても、その他者からの理解や思いを無視して一方的に抱き続けることはできないということである。他者に対する理解や思いは、その他者が確認することによって、はじめて相互的なものへと変わることができる。そして、そのような変化こそが、両者の関係を本当に変えていくことができるのであると。