リュミエール映画の興奮はもはや失われたか?
  ─ くり返される人類と映像との出会いの衝撃

『季刊民族学』109号、2004年夏


 数年前、南フランスの地中海に面したラ・シオタという小さな港町を訪ねたことがある。マルセイユから車でしばらく走ると白っぽい石灰岩質の海岸が開け、小さな港町に到着した。お目当ては、町はずれにあるラ・シオタ駅である。
 もうご存じの向きもあろう。この駅は、映画の父と呼ばれるリュミエール兄弟が1897年に撮影した「駅に到着する列車」(「続・はじめての映画」ジュウネス企画、15000円収録)の撮影舞台となった駅である。列車が白煙を吹き出しながらプラットホームに滑り込んでくる映画史に残る有名な映像をみた人は、今日でもすくなくないだろう。ラ・シオタの駅は、映像文化に関心をもつ人間なら、一度は訪れてみたいと思う場所であろう。
このときも、民族誌映画の研究プロジェクトの海外調査を兼ねて、映像メディアを研究したり、制作したりする仕事にかかわる、私を含む中年のおじさんたち4人が、はるばるこの映画発祥の地に巡礼にやってきた。
 駅には、銅板でこしらえられた、リュミエールの偉業を顕彰するために、兄弟の写真とともに「到着する列車」の写真のレリーフが、駅頭にかかげられていた。その駅のプラットフォームに、中年の日本人おじさんたちが陣取って、それぞれにカメラを手に構え列車が到着するのを待っていた。おじさんたちのもくろみは、もちろんリュミエールと同じアングルで、プラットフォームに滑り込んでくる列車をビデオ撮影しようということにある。この風景はさぞ地元の人々には奇異に映ったことだろう。しかし、今日のラ・シオタ駅は、列車の到着時にぱらぱらと昇降客がゆきかう程度の閑散とした駅となっていたから、おじさんたちの奇怪な行動もそれほど目立つと言うことはなかった。
   ◆
 本当のことをいうと、おじさんたちのもくろみは実は二番煎じであった。リュミエール映画誕生百周年を記念して1995年に行われた「リュミエールとその仲間たち」というイベントでも、同様の企画が行われている。そして、最近、その記録DVDが出版された。(「リュミエールとその仲間たち」1995年、日本版DVD:学習研究社音楽出版事業部、3800円)そのイベントでは「歓楽通り」(2002年)「列車に乗った男」(2002年)を撮ったパトリス・ルコント監督が、リュミエールとまったく同じカメラアングルでラ・シオタ駅に入ってくる列車を撮影している。撮影で使用したカメラはリュミエールが発明した手回しカメラを復旧したもので、フィルムもそのカメラ用の17ミリフィルムを特注するという懲りようだったという。
 ただし、被写体となった列車は、蒸気機関車ではなく、フランスが世界に誇るTGVであった。他にも、この企画では、同様のカメラを使って、ヴィム・ヴェンダース、スパイク・リー、デイビッド・リンチら多彩な映画作家たちが、世界のあちこちでまざさまな被写体を相手に撮影を試みている。
 リュミエールたちがこの映画が上映したとき、最前列の観客たちは、怒濤のように押し寄せてくる列車の映像に恐怖を覚え、いっせいに椅子を蹴って逃げ出したという。映像メディアの持つ訴求力は、圧倒的だったといわねばならない。もうひとりの映画の父といわれるエジソンは、リュミエール兄弟に先んじて、アメリカでキネトスコープという覗きからくり式の箱形上映装置を発明しているが、観客に与えた感動という点では、あきらかにリュミエールが発明したスクリーン上映式のシネマトグラフに軍配をあげねばならないだろう。実際、キネマトグラフの上映は大盛況だったといわれる。 
   ◆
 この成功を受けて、リュミエールたちは、世界中にカメラマンを派遣し、世界の各地で彼らの発明したカメラを使って、さまざまな事物を撮影していった。先述のイベントは、そのリュミエールのこころざしを再現したといえるかもしれない。
 今日、リュミエール・コレクションと呼ばれるこれらの映画フィルムの中には、日本の歌舞伎をはじめ、世界各地の民族の風俗や生活を撮影した映像が収録されている。その一部は、先年、開催された民博特別展「進化する映像」の一環として公開され、『影絵からマルチメディアへの民族学〜進化する映像』千里文化財団(国立民族学博物館・特別展図録)の付録CD-ROMにも収録されている。これらの映像は、動く映像が初めてとらえた民族の記録でもあった。
 しかし、それは同時に、当時世界中に植民地を増殖させつつあった西洋の目がとらえたゆがんだ世界像でもあった。
 たとえば、リュミエールによって派遣されたカメラマンの一人であるガブリエル・ヴェールが1899年に安南(ヴェトナム)で撮影したフィルムには、撮影のためにわざと街頭にまき散らした硬貨をわれさきを競って拾い集める子供たちの姿が記録されている。地面にはいつくばって硬貨を拾う子供たちの姿は、植民地という現実が、その下での生活を余儀なくされた人々にとっていかに屈辱的であったかをこれほど如実に物語るものはなかった。
 ヴェトナム独立の父といわれるホーチミンは、1917年にはすでにパリに滞在しヴェトナム独立闘争に身を投じていたから、きっとパリのどこかでこの映画を観たかもしれない。もしそうなら、若き日のホーチミンはその映像がもたらした衝撃と屈辱を強く心に刻み込んだことだろう。それから数十年の後、ホーチミンの軍隊はディエンビエンフーの戦いでフランス軍をうち破り、ヴェトナムは独立をその手にしたのである。
   ◆
 そして、それからまた半世紀が過ぎ、映画誕生百年のにぎやかなお祭り騒ぎも終わったいま、ふたたびリュミエールの映像は人々の関心から遠ざかろうとしている。
 人々のあきっぽさは、今にはじまったことではない。「到着する列車」の映像が公開されたパリでは、しばらくすると、観客たちはもうその映像になんの驚きも感じなくなったという。新奇な映像に対する人々の際限のない欲望は、さらに刺激的な映像を映画に求めるようになっていった。映像表現の新奇さと人々の欲望との間のいたちごっこはここに始まったといってよいのかもしれない。
 そして、そのいたちごっこは百年後の今も続いている。デジタル技術を駆使した夢のようなSFXにも、すでに人々は食傷を示すようになった。眼鏡をかけて鑑賞する3D映画も、視野全体をカバーするアイマックス映画にも、人々はもう驚かない。リュミエール映画の興奮はすでに過去の残照に過ぎないのかもしれない。
 しかし、ほんとうにそうだろうか。それはどっぷりと映像メディアに生活世界を取り囲まれたいわゆる「先進」地域にすむ人々の特異な現象にすぎないのではないだろうか。
   ◆
 数年前、友人の人類学者とともに、中国雲南省のコングー人(プーラン族)の村を訪問したことがあった。その村の村民の中に、映像メディアと呼ばれるものは身分証明の写真だけしかもたない家族を数多くみかけた。
 シーサンパンナからジープで幹線道路を約2時間、幹線を逸れてでこぼこ道をさらに1時間入ったところにあるこの村には、省の役人もめったに立ち寄らないと言った。97年からようやく電気が通うようになったが、電灯以外の使用はまだなかった。村の指導者の一人の家を訪問したが、モンクメール系特有の高床の家の内側には、都市で普通に見かけるようなプラスチックス製品や大量生産される生活財といったものはまったく存在しなかった。そこにあるのは、博物館で見かけるような手作りの家財であり民具であった。そして、この家族は写真を所有していなかった。
 また、別の年に訪れたラオスのルアンプラバン周辺の山岳地域に住むモン族の村でもそのような家族にであった。
 この家族が写真をもたない最大の理由は貧困であった。この村は、ラオス政府が山岳部で実施中の実験的な農業プロジェクトに労働力として93年に半ば強制的に動員されてきた人々によって構成されており、村人たちは一般のラオス人の村と比べて、また他のモン族の村とくらべても生活は貧しかった。政府から米の支給は受けているようだったが、十分な労働賃金が支払われているかは定かでなかったのである。
 このように、世界にはまだ映像メディアにいまだ日常的に接触していない地域が数多く残されている。そのような地域をわれわれはたんに文明から遅れた地域として視界の外に置き去りにしてきた。
 しかし、われわれは映像の歴史を近代に始まる機械的映像技術開発史として描く視点にあまりにもなれ過ぎてはいないだろうか。それは文化史の体裁をとりながら、じつは技術史としての暗黙の合意を前提とし、そこには、低いレベルの技術から高度な技術へという進化史的ディスクールがあらかじめ与えられているようにみえる。
 しかし、現実の世界には、今日でも、映像メディアに初めて接する人々の感動と興奮に溢れているのではなかろうか。私たちはメディア接触という経験を先進国の限定的経験だけではなく、人類史的規模で再検討すべきときがきているように思える。
 リュミエール・フィルムが人々にもたらした衝撃は、今でも形を変えてひろく世界の隅々に広がり続けているのにちがいない。