紙芝居からマルチメディアへ
〜うけつがれるべき表現と技〜


『季刊・民族学』no.103, 2003.1


写真 紙芝居の原画を手入れする塩崎ゆうさん(塩崎紙芝居博物館館長)




 故塩崎源一郎翁の名を思わぬところで聞いた。信州信濃町、黒姫山の山麓に建つミヒャエル・エンデ記念童話館の館員さんと山小屋で食後の雑談をしている時だった。
「ええ、塩崎さんのお名前はここにも聞こえていますよ」
 大阪を遙か離れた雪国で思わず耳にした、若い館員さんの尊敬のこもった言葉遣いに、塩崎翁の偉大さを今更ながら思った。
 塩崎源一郎翁の自宅兼博物館は、大阪西成区の天下茶屋にあった。翁の名は、それに携わる人々やマニアの間で絶大な響きを持っていた。大阪における街頭紙芝居の絵元であり、収集家であり、新作のプロデューサーとして、東京ではすでに博物館の中に入って久しいと言われた街頭紙芝居の灯を、亡くなる直前まで全身を賭してともし続けた人物だからである。
 街頭紙芝居にのめり込む友人に誘われて、生前の翁を幾度か自宅兼博物館に訪ねたことがある。地下鉄四つ橋線「花園町」で降り、長屋の続く小路をしばらくいくと、その長屋の一軒に塩崎翁の自宅があった。しかし、ひとたび扉をくぐるとそこには外観からは想像できない世界が広がっていた。土間、書棚、押入、はては階段にまで、整然と、しかし、ぎっしりと詰め込まれた数万巻はあろうかと思われる紙芝居原画たちが息を潜めていた。私は、まずその量の大きさに圧倒されたが、つぎに、そこに収蔵された紙芝居の画面に踊るヒーロー、悪漢、はたまた妖怪やお化けなどの異形の者たちとの突然の再会に目が眩んだ。タイムマシンに乗って少年のころの自分にふいに遭遇したときの驚きというのはこういうものに違いない。
 しかし、それは私の失礼な思い違いだった。彼らは現役のヒーローであり、悪漢であり、妖怪だったからだ。塩崎翁と彼に師事する人々の手で、街頭紙芝居は今日でも、その逞しい生命を保ち続けているのである。

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 大阪は、一九八四年まで免許制度が残っていたほど街頭紙芝居が盛んな街であった。そして、今でも多くのファンが存在し、公演を支えている。(塩崎翁の事跡と大阪の街頭紙芝居の現状については、『大阪人』[二〇〇二年九月号・大阪都市協会]が特集を組んでいる。)学校教育の一環として演じられる教育紙芝居と異なり、街頭紙芝居は都市の雑踏空間で演じられる強烈なパフォーマンスである。街頭の騒音と闘って観客=子供たちの視線を力ずくで奪い取る絵の迫力と色彩。元来は動かない絵に生命を吹き込む紙芝居屋の(生活がかかった)職人芸。この街角で演じられる紙芝居屋と観客との丁々発止のやりとりが持続しなければ、街頭紙芝居は、その命の大半を失う。それは、昔も今も変わりない。
 現在、もはや紙芝居を専業とする者はいない。ただ、上演の形態を守りながら、この芸能を継承し発展させようとする大阪人は少なくない。主婦、教員、医療従事者など、職業は千差万別ながら街頭紙芝居の可能性に魅入られた人々が今を支えている。
 しかし、それだけでは不十分だ。彼らにネタの「絵」を提供しつづける塩崎翁のような絵元が存在しなければ、この芸能は存立しないのである。だからこそ、塩崎翁の存在は、大きかった。塩崎翁が亡くなられた今、生涯を連れ添った伴侶のゆうさんが、翁の遺志を受け継いで、八〇歳を超え健康に不安を抱えながらも健気に絵元の役目を続けている。絵元と紙芝居屋。大阪の街は、この車の両輪を奇跡のように転がし続けてきたのである。
 一方、東京の街頭紙芝居は、保存を優先し原画を博物館に収蔵したために、紙芝居屋たちがそれを使って自由に「商売」することができなくなったことによって、その芸能としての生命を失ったと言われる。口さがない大阪人ならこう言うに違いない。ときおり虫干しでもするかのように引っ張り出した紙芝居を、芸術の薫り高い舞台で演じたとしても、それは「似て非なる」レプリカに過ぎないと。

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 塩崎翁の葬儀にも一周忌にも参列できなかった。遅きに失したお別れのご挨拶を申し上げるために、寒風が肌を刺す霜月のある日、友人の鈴木常勝氏と一緒にその自宅兼博物館を訪ねた。博物館は現在閉じているとのことだったが、週に一度、紙芝居屋たちへの絵の貸し出しに応じるため、ゆうさんは自宅を開いていた。扉を開けると、ゆうさんが丁寧に出迎えてくださった。友人は、ここにある街頭紙芝居に魅せられて、自ら紙芝居師を名乗り公演を行うようになった。この日、絵を借りに来たのである。ゆうさんから在りし日の塩崎翁についてお話を伺った。

「人情にもろい人でした。夢想家でもありました。原作者や画家をかばって、駄作でもなんとか活かそうとする人でした。でも、アドバイスをするときは、ストーリーができてからでも、ここはこう直した方がいいと的確に指示を出しました。原作の筋を頭に入れて十分に計算をしてから細かに指示を出したりすることもありました。」
 
 こうやって多くの原作者や原画家が塩崎翁に育まれた。その中には、演劇の美術担当や絵本作家、漫画家など他の芸術領域から越境してくる人々も多かった。街頭紙芝居は、時代を共有する多様なメディア芸術の中で生きてきたのである。

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 話は変わるが、私がデジタル技術を使ったCD-ROMやDVDのマルチメディア作品を制作するようになって一〇年、最近、つくづく思うことがある。この世界、けっして新しいものではないということである。
 絵と肉声の融合、仕込み絵を使った動き、そして、観客の好みに応じたインタラクティブな進行といい、今日のデジタル技術を駆使したマルチメディアは、紙芝居のメディアとしての機能にきわめて近いものがある。
 かつて『見世物からテレビへ』(岩波新書・青版)の中で、加藤秀俊先生は、日本におけるテレビ文化の発展の基盤に、この社会が育んできた豊かな視聴覚芸能からの影響があることを指摘した。三〇年以上も前のことである。
 「応仁の乱からあとをたどってみただけでも五世紀の歴史を背負っている日本には、セルデスがアメリカで発掘したよりはるかに多くの視聴覚コミュニケーションの諸形式があったし、それらは、なんらかのかたちで、こんにちの放送、そしてこんにちの日本文化に連続しているはずである」
 このことは、街頭紙芝居とマルチメディアの関係にもみごとに当てはまる。さらに、加藤先生が指摘したテレビと伝統芸能の不連続性としての「自由な時間の進行」というの問題も、オンデマンドとインタラクティブ性をもつマルチメディアにとっては、むしろ連続性を示す特徴となった。マルチメディアの時代にこそ、この日本の文化が育んできた街頭紙芝居という視聴覚文化から学び、その豊かな表現力を受け継いでいかねばならない。
 だから「街頭紙芝居の灯を消すな」という言い方は間違っている。そのような言い方では、この芸能がまるで衰退しつつあるかのように聞こえるではないか。そうではない。この豊かな原画とそれを演じる紙芝居屋たちによって承継される視聴覚文化は、新しい時代と街に適応して変化し続けながら、今この街で光を放っている。しかし、塩崎翁という偉大な一人の人物によって担われてきた絵元の仕組みが、新たな時代の担い手を見いだし倦ねているのである。生きている文化なのだから、博物館に「収蔵」するというやり方は感心しない。ならば、どのような仕組みが最適なのだろうか。私たちは、次の時代に向かってその新しい仕組みを考え出さねばならないのである。

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 さて、友人が好んで使う馴染みの会場は、平野の商店街に隣接したお寺の境内である。演目は、名作の誉れ高い「蝋人形」や「ネンゴネンゴ」などのホラーもの。
 かつて夕暮れの路地裏に自転車に乗っていずこからともなく現れた紙芝居屋のおっさんは、すでに過去のものとなったが、駄菓子に群がり、上演を今か今かと待つ胸の高鳴りは以前のままである。
 ほら拍子木が鳴り始めた。開演である。