女性への性転換手術後死亡した人物を「男性」と表記した新聞は、
性同一性障害者の性アイデンティティを理解していたのだろうか。
2005年7月2日


 7月2日付け朝日新聞朝刊の社会面のトップを次のような記事が飾った。「性転換 医の谷間 手術後に男性急死」
 同記事は、麻酔医をおかずに性転換(性別適合)手術を行った大阪市のクリニックが、術後、呼吸困難を起こした患者の急変に対応できずに、患者を死亡させた事故を取り上げ、安易な性転換手術を実施したクリニックの責任を追及するものとなっている。
 記者がクリニックの安易な性転換手術の危険性を告発しようとしているのは、理解できる。しかし、この記事を書いた記者には、性転換手術を受けようとした人物をほんとうに理解しようという意志があったのだろうかと強い疑いをもつのである。
 というのも、性転換をうけた人物が、自分の「女性」としての性アイデンティティと「男性」としての物理的身体との間に強い不適合感をもっていたから、身体としての「男性」を「女性」に転換させたのだろう。ならば、その性転換手術が終了した時点で、この人物は「女性」としての統合性を獲得したと考えるべきではなかろうか。
 この人物は、この手術のあと、順調に推移したのなら、当然、戸籍上の記載も男性から女性へと変更させる手続きをとったことだろう。そして、現在の法においては、この人物の戸籍上の性別変更も、順調にみとめられていったはずだった。
 しかし、無念にも、この人物の性別変更のプロセスは、思わぬ術後の急変によって断ち切られた。心身共に女性としての人生の出発に期待をいたいていた彼女にとって、ほんとうに心残りで無念な死だったに違いない。
 ところが、それを報じた新聞記事は、彼女を術後であったにもかかわらず、「男性」と呼んだのである。なぜ、性転換手術を受けた後の彼女を「男性」と呼ぶ必要があるのか、その根拠を問いたい。戸籍上の変更手続きが完了していないからか。では、新聞は戸籍係
の回し者か。新聞がその報道において、報道の対象を「男性」とか「女性」とか、「男」とか「女」とか、呼ぶのは、何のためなのか。戸籍上の性別を報道しているのはないだろう。
 片方で、「性転換」手術という表現を使いながら、その手術を受けたあとの人物を転換前の性別で呼ぶことに、なんの矛盾も感じていないのである。無自覚でデリカシーを欠くこのような表現に何の痛痒も感じないのなら、この記事を書いた記者は、この事故で亡くなった彼女に対する根本的な理解を欠いていたといわざるを得ない。
 不慮の事故で亡くなった彼女が、もしこの記事を読んだとしたら、どれほどくやしい思いをしただろうか。命をかけて手に入れた「女性」としてのアイデンティティに準じた表記を、彼女は欲したに違いない。この記事を書いた記者が、被害者の立場に立って考えるというジャーナリストとしての基本を忘れているのを悲しむ。