海外生活体験記

                      どんなに経験豊かな駐在員も初めは疑問がいっぱいの海外生活です。  

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グルメ天国 台北

 

台北での楽しみといえば、一番に食事です。

安くて美味しいものが町中に溢れ、朝からサンドイッチの屋台や絞りたての豆乳を売る小さなお店は大繁盛。

昼になれば台湾名物「牛肉麺」「トマト麺」「酸辛湯麺」、小籠包、焼き餃子、水餃子、焼飯、青菜炒めなどびっくりするほど安く食べられます。

お持ち帰りの習慣も定着しているので、ビニール袋に入れたスープや麺などもバイクのハンドルに引っ掛け運転する人が多くて驚きます。

夜市に行けば、B級グルメの屋台がところ狭しと並び毎晩大賑わいです。臭豆腐やいろいろな香辛料の匂いと亜熱帯のムッとした空気が混ざりあい、

日本人には苦手ではありますが、臆せず食べてみるとクセになる美味しさです。

台湾では殆どの食材が台湾国内で作られていて、豚や鶏肉、米、野菜、果物も新鮮で豊富で地産地消の文化が根付いているので、

農薬などの心配もなく衛生面でも安心して何でも食べられます。

今日本でも人気のマンゴーのかき氷、タピオカ入りミルクティーなどデザートの楽しみもあり、女性には嬉しい限りです。

外で作りたての美味しくて安い食事がいつでも出来るので、台湾の女性は家で料理を殆どしません。台北では食事作りという家事から解放されて、

いろいろなグルメを試せる楽しみが沢山あります。



いいとこどりのドイツ生活

ドイツ駐在の3年間は、夢のような美しい風景とともに思い出されます。

少し郊外の住宅地は緑溢れるよく手入れされた庭に素敵な建物、お散歩するだけでも楽しく気持ちの良いものでした。

広い庭付き一軒家に日本の生活を持ち込み、食事もほとんど日本仕様。

もっとも日本の食材が思うように揃うはずもなく、あっても約3倍の値でフランクフルトまで買いに行きました。

特に子供が生まれてからは、日本人同士で集まって遊ばせたり情報交換をしたり、いろいろと助けてもらいました。

駐在員妻にとって暗く長いドイツの冬を楽しく過ごすには、沢山の趣味を持つことが役立ちます。

私も様々な手芸を教わりましたが、特にバウワーマーレライの作品は、今でも素敵なインテリアになっています。

今、自分がガーデニングに嵌っているのも、ドイツの綺麗な風景に想いを馳せているからなのかもしれません。

 

 

  南イタリア滞在記 食べるものと食べる事・・・
(イタリア モラ・ディバリにて 2)    

私が三年半住んだ プーリア州 モラ ディ バリ は南イタリアの小さな田舎紺碧の海と照りつける太陽の街。

漁港があり船が戻ると市場に活気があふれる。小ぶりのサバ・・・・・グリルかトマト煮込みだろうなぁ。

クロダイ・・・・・・・・・・

これはグリルが美味しい、俗に言う塩焼き+レモン。たらの子(だと思います)・・・これはフリット!

揚げたてに塩をパラパラと振りこれもレモンを必ず。素材が良いので料理法はいたってシンプルだがほんとうに美味しい。

海岸沿いを車で走ると面白い光景に会う。おじさんが何かをバタン、バタンと打ちつけている。結構激しく。

・・・獲れたてのタコを柔らかくしているのだそう。

これを湯がいて オリーブオイル++酢と合わせ刻んだパセリ、セロリ、ニンニクと混ぜる。

美味しい前菜のひとつになる。コッツェ(ムール貝)の養殖も盛んでマンマ達は手際よく殻を外し(片側だけ)生で食べたり、

オリーブオイル+パルミジャーノ+パン粉+パセリを合わせたものを貝の上に載せオーブンで焼く。

バジル、パセリ、セロリは良く使う。味のアクセントになり、これぞ南イタリアだな!とおもう。

ワインはプリモティーボかイル、ファルコーネ どちらも赤が好きだった・・・

週末は夕がた早くからバルコニー近くにテーブルを寄せてゆっくり夕日の落ちるのを眺めた。言葉はいらない時間。

でも極上の物がそこにはあったと心から思う。

お肉料理で思い出すのは・・・ブラッチョーレ・・・牛または馬の薄切り(6,7ミリ)でパセリ+ニンニク

+
パルミジャーノ+(家庭によっては挽肉)を巻き、玉ねぎを炒めた後巻いた肉を入れさらに炒めパッサート

(トマト果汁のビン詰め)を入れコトコトと煮込む。

肉は、セコンドとして食べ、旨味が詰まったトマトソースはペンネやオレキエッテに絡めて食べる。

そこには各家庭のマンマの味があり、我が家の味が一番!!とそれぞれに自慢しあう。ほんとうに美味しかった。

日曜の昼時、家族が集まり、時には友人も交え10人20人でひとつのテーブルを囲み、大いに食べ、笑い、議論をし夕方まで過ごす。

たとえデートをしていても昼時には家に寄り、みんなに付き合っている彼、彼女を紹介し、一緒に食事をし、また出かける。

決して一人寂しくテーブルに着く、ということがない。

マンマはみんなの為に料理を作り、美味しく食べているか、元気に食べているか、足りているか見渡し、ニコニコとしている。

やっぱり私の料理が一番でしょう!!という顔だ。

一緒に居るとこちらも笑顔になる。

たとえ言葉は分からなくても気持ちが伝わる。町には珍しい日本人に、この町の良いところを一生懸命に伝えてくれる。

野菜ならあの店、肉はここ、必ずあの場所には行った方が良いとか。

そして最後に困った時にはいつでもいらっしゃい!!と言ってくれた。

あなたが来ることは私の喜びよ!とも。同じ物を食べ時間を共有することが何であるか!

これを教わって日本に戻ったような気持ちがしている。



*フランス生活 〜 魔法の言葉

「ボンンジュール、マダム!」「ボンジュール、ムッシュー!」フランスにおいて、この言葉は「魔法の言葉」だと私は思っています

フランス人は、割とぶっきらぼうな人が多いのですが、それでも自分が相対する人には、

明るく「ボンジュールマダム・ムッシュー)!」と言って必ず挨拶をします。

ブティックやデパートの店員さんに、スーパーのレジ係の人に、マルシェの店員さんに、バスの運転手さんに、

空港のパスポートコントロールの係員にも、必ずどちらからともなくこの挨拶をし、目を合わせてにっこりとするのです。 

実はボンジュールだけでなく、後に、相手が女性ならマダム、男性ならムッシュー、と一言付け加えるのが大きなポイントです。

これを付けるか付けないかで、相手の反応は全く違います。相手の人をリスペクトしている気持ちが、この一言で伝わるからです。

観光でフランスにいらっしゃっても、フランス語は難しい、全然分からない、と敬遠される方が多いでしょう。

でも余り深く考えずまずは一言「ボンジュール マダム(ムッシュー)!」と口に出してみてください。

必ずやフランス人は、「あらっ!この日本人はフランス語で挨拶をしてくれるのね」とニコッとしてくれて、

その後のコミュニケーション(たとえそこからは英語でも)がうまくいくこと間違いなしです! 

そして出来れば最後に、「メルシー(ありがとう)」と「オー・ルボワール(さようなら)」も忘れずに!



* 上海生活の楽しみ方 その1 布市場 

上海に暮らし始め実感することは、英語なんてまだまだ通じないということです。

何はさておき中国語を習う事が大事です。語学学校、個人教授、大学での中国語講座など色々あります。

不慣れな海外での生活における精神的な負担の中で無理の無い語学レッスンをお勧めします。肩に力を入れ過ぎずに。

上海生活に少し慣れてきたころにお友達が「布市場」に行こうと誘ってくれました。

「布市場」って何だろうと興味津々。

タクシー、バス、地下鉄、いずれの交通手段でも30分程度で行ける市場と言うよりは3階建て程度の

ちょっとしたデパートです。各フロアーにそれぞれ70から80の小さな店舗が並んでおり、

そのごちゃごちゃ感に圧倒されます。各店舗がおのおの特徴を出して仕立てた洋服を

マネキンに着せて店先に並べています。どの店の仕立てが良いのか判らないので友達が薦める店で

とりあえずパンツ1本仕立ててみました。とにかく生地の量がすごく、

生地を見ているだけであっという間に時が経ってしまいます。

パンツだから伸びる生地が良いのはわかるのですが、縦だの横だのと店の主人は中国語でまくしたてても何もわからない。

そして、値段の交渉にもエネルギーがいります。

半値八掛けとはいかないものの言い値は値引き代がたっぷり載っかっているので、とにかく値引き交渉。

が、友達に通訳してもらわないと何ともならない。ここでも中国語が出来ないと足元見られちゃって高いもの買いに!

1週間ほどで出来上がったパンツを取りに。試着してみるとキツキツ!パチパチ!!でかがめない。

細すぎる、と言うとタイツをはいているからだと言う。そういう問題じゃない!

直してもらおうとすると縫代が必要最低の5〜6mmしかない。これだよ!

やっぱり値切って安くすると生地を節約されてしまい作り直しです。

そんなこんな紆余曲折を経て顔なじみの店舗ができ店員さんと仲良くなり中国服なども作ってみました。

今、考えるとよくこんな太い足を見せるスリット入りの服を作ったかなあとは思います。

「布市場」は至る所にあり、シャツ、スーツ、コート、毛皮、何でも出来るんです。

ぜひ自分好みの「布市場」を見つけて中国人の店員とJapanese Chineseを駆使し自分に合った物を作ってみてください。


  パリの家  

パリの駐在・・それはそれは夢のような話で、シャンゼリゼでお買い物、美味しい食事に美術館!

けれども、初めてのパリでの生活に心躍ったのも出発まででした。初めてのアパートメント探しは、築50年は新築、

150
年前でふつう。ようやく決めたアパートは築100年?エッフェル塔の見えるリビングはちょっと自慢ですが、

エッフェル塔が見えても浴槽が無い。やはり生活はエッフェル塔より浴槽の方が重要だったと思いながらも

日々の生活に追われています。

古いアパートメント、大昔にはエレベーターなど無かったのは予想がつくものの我がアパートメントも

後で付けられた小さなエレベーター。人が1人乗って精いっぱい。友人が来た時などは、1人ずつ上る。

荷物が多いときは先に1人が上がり・・次に荷物だけを乗せて上で人が引き取り最後に残りの人が上がる。

あー疲れた、と我が家に入りエッフェル塔を見ながら日本のお風呂を懐かしむ日々です。

 

『イタリア人になりきる!』〜日本の常識を捨てたら楽になった! 

私達が、イタリアのローマに転勤が決まった時、皆に羨ましがられました。しかし、現実のローマはスリや泥棒は当たり前!

遭遇しない人は幸せだね〜という感じで、日本の常識では思いもよらないことが日々起こり、ビックリの連続。


水道管が古く、破裂した時、門番さんが水道を止めて、水道工事の人を呼んでも、「いつか行くよ〜!」という感じ。

美術館に日本からのお客さんを案内しても、「これからストだよ〜!」と締めてしまう。

バスでいつもと違う道を通っているので、ビックリしたら、お婆さんが運転手さんに

「あんた、道を間違えてるんじゃないよ!」と怒鳴っている。地下鉄でボヤがでても、

何の放送もない!新聞にも掲載されない!スーパーで卵や牛乳の賞味期限が切れている物がある!等々と、

几帳面な日本人の中には精神的にやられてしまう人もいます。


イタリアというと、芸術・旅行・料理を楽しめるという印象がありますが、このラテン系の国で生活することは大変なことです。

『人生はなるようにしかならない』『色々あって、毎日が新鮮』と考えられるようになってきた時、もっとイタリアに住んでいたいな!

と思えるようになりました。




  米国 ニューヨーク アパートでの挨拶

マンハッタンのアパートでは、エレベーターや廊下で住人と出くわす機会が多いです。

200世帯以上の大きいアパートで知らない人のほうが圧倒的に多いのですが、顔を合わす住人のまずほとんどが挨拶をします。

おはよう、お休み、よい週末を、といった簡単なものです。東京のマンションも同じような世帯規模だったのですが、

エレベーターで会っても挨拶する人は少なく、この知らない人と挨拶を交わす、時には、ちょっとした天気とかの会話もするというのは、

とても新鮮ですし、気持ちのいいものです。同様に、会社のオフィスが入っているビルの中で、他の会社の人も挨拶します。

会社の同僚にこの話をすると、「アメリカが、昔から銃社会だから、知らない人と出会ったら、挨拶し友好的に見せないと危ないから、

そういう習慣があるんだよ。イギリスではそんな習慣はない。(と聞いたことがある、たぶん)」と解釈をしていました。

この意見の真偽はわかりませんが、知らない人同士が、たまたま同じ建物に住んでいる、

仕事しているという事で挨拶を気軽に交わすというのは成熟した大人という感じではないでしょうか。

これは、日本に持ち帰りたい習慣ですね。



  ジャカルタ奮闘記

ジャカルタに赴任して1カ月半、あっという間でした。ビザの申請にはシンガポールに行きました。

毎日のようにあちこちのショッピングモールに買い物に出かけました。日本のように一つのスーパーで

何もかもが揃うと言うわけにはいかないのです。

日本にいる時の何倍も時間を費やしてお炊事をして1日が暮れて行きます。

ジャカルタの水道水は地下の水道管自体が劣化しているので、途中何が混入しているかわからない。

例えば有害物質が混入する可能性もあると教えられ、お水の扱いにすごく神経質になっています。

衛生上悪いものなら火を通せば問題ないでしょうが、有害物質となると熱するだけではどうしようもないでしょう?

完璧は無理ながら、すべての口に入れる物はまず水道水で洗ってから飲料水を掛け流すようにしています。

食器も洗ったらすぐ拭いて水滴が残らないようにしているし果物を切ったり茹でた野菜をしぼったりする時には

水道水の付いた手も同じように飲料水で流してからにしています。

一時が万事この調子ですから1ガロン?の飲料水が2日でなくなってもったいないし、手間も大変で、本当に疲れます。

シンガポールもフランスも水道水が大丈夫でしたので初めての経験、これさえなければうんと快適なのにと思います。

こちらに来てすぐは外食だったので、まずはインドネシア料理を飽きるまで食べようと何回か続けましたが

飽きる事もなく私も夫も美味しく楽しんでいました。

しかしながら、イスラム教の国なのでアルコールを置いていないレストランが多いです。

よって、平日はお酒を飲みながら家での食事になり、休肝日の日曜日にはインドネシア料理を食べに行っています。


 


*タイ:タガメのから揚げ*

タイのバンコクから約2時間弱、ラムチャバン港周辺には各国の自動車工場が集中しており、東洋のデトロイトと言われています。

港の近くのシラチャという街には日系企業の日本人向けのアパートメントや日本食屋等の飲食店が軒を連ねており、

活気にあふれています。

タイのお正月には、ここシラチャの公園に沢山の屋台が並びまさに日本の初詣のような人でごったがえします。

屋台にはタイ各地から持ち寄られた名産品がずらりと並び、その中でもひときわ日本人の目に留まるのは、

タイ北部の名物、タガメのから揚げです。

今はタガメを見たことがない日本の子供達も沢山いるようですが、ここの屋台で売っているものは

日本のタガメを2倍にしたくらいの大きさで、油で揚げたタガメが黒褐色の光沢を放っていて、なんともその怪しさを倍増させています。

タイ北部では一般的に食されているようで、貴重な良質のタンパク源として昔から重宝されているとの事。

まあ、日本でもイナゴの佃煮があり、あまりそれと変わりませんね。当時は食べる勇気はなかったのですが、

次回はぜひ挑戦したいと思っています。





* フィリッピン:駐在員は2度泣く

最初の涙は駐在の辞令をもらった時です。これは皆さんも容易に想像できることで、

「あんなに危険で暑い国で働かなくてはならないのか?運が悪い」と嘆きます。

私も同様でした。当時中国の深センに単身で駐在していたのですが、

ある日突然フィリピンに行ってくれないかと言われ、即座に「この話断れないでしょうか?」と言ったのですが、

無駄な抵抗とすぐに悟りました。サラリーマンの悲しい宿命です。家族も嘆いてくれました。

「えっ!もう香港に行けなくなるの?中国も、まだどこも観光に行ってないのに!?」

2度目の涙は駐在期間が終了し、日本への帰国辞令が出た時です。

多くの駐在員及びその奥様が、あんなに来るのがいやだったフィリピンから「離れたくない、もっといたい」と

みんな帰任辞令を嘆き悲しんでいました。

私も例外ではありません。日本に帰っても家族の了解がとれるならリタイヤメントビザを取り、

残された人生をフィリピンで過ごしたいと思っている程です。

 

サラマッポ(有難う)フィリピン!マブハイ(歓迎/祝/万歳)

 

  太陽と海の輝く街 イタリア モラ・ディバリにて 1

イタリアの南部、地図で言うと長靴のちょうどアキレス腱のあたり、アドリア海に面したプーリア州モラ・ディバリ。

二度目の海外生活は、日本人が3人しかいない小さな港町で始まった。

一度目の海外赴任もアメリカのノースキャロライナ州の日本人家族が同会社の5家族しかいないような田舎町だったが、

二度目は英語ではなくイタリア語、何より3人の子供は成長し夫婦2人だけの生活というのが大きな違いだった。

夫は俗に言う会社人間。心根は優しい人だと信じるが会社に居る時間が長く、自然に私一人でいる時間が多い。

私は何をどうしていったらいいのだろう・・・?・・自問自答の日々、閉塞感に苛まされる時が流れた。

が、その内に見えてきた物があった。

一から始めたイタリア語を使ってみると、拙い私の一言一言に懸命に耳を傾けてくれる人が何人もいた。

そんな風にイタリア人と接するようになり日本とは違う時間の流れ方、使い方がわかってきた。

そして、どこまでも広く抜けるような青空と紺碧の海が作り上げる美しい見知らぬ土地が少しずつ

居心地の良い場所へと変わっていった。

 


 

  明るい一日と暗い一日 〜カナダ バンクーバーから〜

カナダの西海岸バンクーバーの6月、1年のうちでこれからが一番良い時期を迎えます。

日も長くなり、夜になっても太陽が沈んだようでも空は白く、そのまま日が昇る。

これが白夜なんだと思いました。

昼が長くなるとどうしても行動しやすくなるもので、仕事が終わった後にゴルフに行く事も可能です。

ゴルフのスタートが17時・・・終わっても21時。

まだまだ明るいのでどうしても寝不足気味になってしまいます。

それでも1日中明るいので、心も明るく、疲れているのだか元気なのかわからない生活の3か月です。

日本で言う8月のお盆を過ぎたあたりから、涼しく感じられるようになります。

そして、9月に入るといきなり秋がやってきます。9月からは打って変わって一日中夜…のような生活になります。

真冬になるともっと悲惨で、明るくなってきた!と思うと、夕焼けが始まるような日々。

日本では体験できない季節と時間を感じます。

 

*ドバイ便り  「神様の思し召し」

毎日暑いドバイの生活にも慣れたころ。

英語だろうが現地の言葉だろうが皆、言葉の最後に共通して「インシュアラー」と言う事に気が付いた。

最初は方言なのか・・・はたまた流行文句?などと軽く受け流していたのだが、

ある日水道が壊れて、どうにもこうにもポタポタ水が流れるので修理をお願いしたところ

「明日行く、インシュアラー」との返事。翌日待てど暮らせど誰も来ず、ポタポタは止まらず。

怒りも込めて催促の電話をしたところ「インシュアラーだった」との返答。

「インシュアラー?どうでもいいから早くきて!」とお願いしても「インシュアラー」って?

「インシュアラー」それは神様の思し召し。神様が行かないと言っているので、今日は行かない、との事。

「はあああ?」そう、ドバイでは神様がすべてを決める。そういうわけで、約束もすべて神様の思うがまま。

私の覚えた新しい言葉・・・「NO ! インシュアラー!」神様の思し召しではなく、必ず約束守ってね!

 

*カリフォルニア便り1 3度目のアメリカ赴任夫の海外赴任に伴って

3度目のアメリカ生活を送っています。

現在、San Franciscoから車で1時間南下したCupertinoというところに住んでいます。

気候は、温暖で晴天日がとても多く乾燥している地域です。

アジア人が多く、中でもインド人と中国人の多さにびっくりです。

よく中国人に間違われます。こんなことNJではありえませんでしたが・・

これまで2度の赴任は子供連れでしたので、習い事や学校行事の参加等で子供中心の生活でした。

今回は17年も間があいての渡米となり、しかも夫と二人だけです。

子供がいない分楽な面もありますが、夫に腹が立った時度は逃げ場がないです。

ですが、修復にかかる時間も短いような気もします。

まず、こちらにきてすぐにしなくてはいけなかったのが、

前回の赴任地NJからCAの免許の書き換えでした。

移ってきて、とにかく早めに取得しないといけないという事でしたので、久々に教本とニラメッコで

勉強して合格する事がきました。試験は日本語で受けられ書き換えだったので筆記のみでした。

その筆記試験もカシコマッテでなく日本の選挙の投票のように立ちながらで・・ナントアメリカ!(笑)

日本でペーパードライバーでしたので、今は毎日練習の日々です。

3度目ということもあり生活には何の違和感もなく暮らしていますが

、やはり言葉の壁というものがありまして、これから地域のアダルトスクールのESLに通う予定です。

アメリカ人と少しでもコミュニケーションが取れれば、と思います。

 

*インドネシア:バンジル(洪水)対策  

 インドネシアに赴任して数カ月・・・引っ越し荷物も漸くどうにか片付き、

会社の奥様たちとも親しくさせて頂き、話をするのも楽しくなってきた頃・・・

ふと気がつくと、いつも「雨?帰んなきゃ」と言う夫人が決まっていらっしゃる。

日本から来たばかりの私は、「洗濯物かなあ?」」と勝手に思い込んでいましたが、

終いには「今日は雨なので来られない」。私は「???」漸く気がついたのは我が家の運転手から

「今日は雨で行かれない」と朝電話がかかってきた時。インドネシアでは雨期になると、至る所で洪水になります。

それをバンジルというのですが、車体の低い車、いわゆるセダン車は洪水になると走れなくなります。

それでセダンに乗っている婦人たちは、バンジルが始まると さっさと帰宅の路につくのです。

ジャカルタでも有名な超高級アパートメントにお住まいなのですが、そこは土地が低いときたもので、

雨期の時期は洪水になると何週間も水浸しです。


ちゃっかり者のインドネシア人は、手漕ぎの小舟をアパートの前につけ、

エグゼクティブの人達を運転手の待つ車まで運んで「ハイ、100円」・・・!!

 

*憧れのフランス語  

ベルギーの暗い冬が終わると美しい春が来て、絵本のように綺麗な町並みが映えます。

夏は夜10時すぎまで明るく寝不足になりそうですが1日がゆったりしています。

ヨーロッパの他の国も通貨が同じなので国内のような感覚で行け、長い休暇は気分転換ができ

家族の思い出ができます。

昔から続いているお祭りを見るのも、とても楽しいです。

そんな国、ベルギーの首都ブリュッセルに私は住んでいます。

この街はオランダ語とフランス語地域に分かれていて私の家はフランス語地域にあります。

そこで、ずっと憧れていたことばフランス語の教室に通い始めました。

最初は何を言っているのか分からず落ち込む日が続きました。フランス語メニューしかないカフェに

入ると冷や汗が出ました。

でも近頃、少しずつ分かる
うになってきて美味しいビールと食べ物を楽しみに勉強を

続けられるようになりました。





*ブラジルの生活って危険?

駐在が決まり、情報を得る為に色々と調べてみましたが、どれもとても危険な所だというものばかりでした。

銃保持国ですし、かなりの覚悟をして赴任してみると、駐在 員の皆さんは、さほど危険も感じないように楽しく

暮らしていました。けれど、現地にはたくさんの事件が起こっていました。夜の運転中、赤信号で停まった時

に拳銃強盗に遭った、昼間でも、歩行者が信号で待っていたら財布を掏られた、

レストラン強盗、マンション強盗等々。

しかし、サンパウロでの生活に慣れてくると、自主防衛をしながら楽しく過ごせることがわかってきました。

自主防衛といっても、そんなに大袈裟なことではなく、常に周りを気にして歩く、夜の運転は避ける、

服装は華美にせず、装飾品もなるべく身に付けない等簡単なことです。

危険情報に敏感になり過ぎて生活を楽しめないのは勿体ない!

外出して異国の生活を楽しむことをお勧めします。

 

*スウェーデン:長女が保育園に

長女は地元の保育園に入り、何も言葉がわからないながらも違和感なく溶け込んでいきました。

先生方が分け隔てなく接してくださったおかげだと思います。間もなく私も娘の親友の母親と親しくなり、

英語でいろいろ教えてもらって随分と心強かったものです。しかしPTAでは何をしていいかわからず、

正直疎外感も味わいました。が、子ども同士のつきあいで誕生会などにはよく招待されました。

そんな時親の再婚した相手まで同席していたりして、国民性の違いに度肝を抜かれたものです。

当地ではマイナス10度でも子ども達を外で遊ばせます。

私は次女を乳母車に乗せて凍った道を押して毎日公園に出かけました。

短い夏には近所の湖岸でしびれるほど冷たい水浴びです。

いつしか子ども達は寒さに強い体質になっていきました。

近くに日本人が住んでいなかったので、保育園と平行して、週1回日本人の母親達で子ども達を一緒に遊ばせる

グループに参加するようになりました。土地が広いので母親達も車の運転が必要です。

ここでは母親たちもリラックスしておしゃべりを楽しみ、情報交換します。

お互いの家を訪問しあって家族ぐるみでつきあったり、クリスマスには持ち寄りでパーティーをしたり、

父親同士日本ではなかなかできない交流ができたのもいい思い出です。









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