Wonderful Words by Roshi

内山興正老師語録(著作の抜粋)










●これでいいのかしらと思う坐禅,それでいいのだ
●仏法の教えてくれるもの
●死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか?
●ただこれこれ
●延命十句観音経(いのちをふかめるじっくかんのんぎょう)
●身近な根本事実--眠りにおけるナマのいのち性
●ゆきつく所にゆきついた生き方
●真実の宗教
●人生究極の問い
●人間的思い・煩悩的思い≠仏法
●自己の真実を求める
●それは実物ではない
●生きている悟り
●いまの息はいま息しつつ
●普遍的な意味のある坐禅
●物足りようの思い
●阿弥陀さまにすくわれている
●坐の尽界と余の尽界の違い
●自己否定のところにはじめて神の智慧が語られる−しかし…
●生命の実物としての自己
●われわれが坐禅し修行しようと思う心は欲望ではないのですか?
●道元−沢木−内山の坐禅
●「死」−近い将来,世の終わりが来るという新宗教の予言は信ずべきか?
●宗教とは…
●何故宗教を求めるか?
●坐禅というのはいくらやっても何にもならないけれど…
●一坐二行三心
●帰命
●坐禅と日常生活
●坐禅は自己の正体である

●これでいいのかしらと思う坐禅,それでいいのだ

 その点(公案禅と比較して),曹洞宗の人は坐禅のねらいがよくついていない。坐禅のねらいとは何か。要するに居眠りをしない,考えごとをしない,それだけを守っているということです。
 ところがこれが,いつまでやっても何か眠くなるし,何かまた考え ごとが浮かぶし,これではたしていいのかしらと思えてくる。実際われわれの坐禅ほど見ようによっては頼りないものはない。いつまでいってもそうなのだから。従ってあまり張りあいがなさすぎてとうとう坐禅をしなくなる。
 しかし,ほんとは「これでいいのかしら」と思いながらやる坐禅がいいのです。どこまでやっても張りあいがなく頼りない,それがいいのです,われわれどうせ凡夫なのだ。それがなにかを得て得意になったら碌なことはないのだ。凡夫が頼りなくて「これでいいのかしら」と自信を持ち得ないところに仏が現われる。
 そのことをよく承知して坐禅しなければならない。これが坐禅のねらいというものです。つまり,いま,坐禅の正しい姿勢をねらって生き生きとした坐禅に立ち戻ったときには,あらゆるものがふっと消える。このふっと消えるのが大切なのです。
(『証道歌を味わう-禅の心悟りのうた』(p66-67)より)


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●仏法の教えてくれるもの

 ところがお釈迦さまはたいへんアタマがよかったので(私がいまさらホメてみても始まりませんが)早くこの「底知れぬ味気なさ(「よりよい生活」は案外手近にもはやその限度があるかもしれない。歓楽のはてを予感するようになったとき「生き甲斐の途切れ」を感ずるときなのかもしれない。という内容--付:HIRO)」を予感して,ただ欲望のみで生きる世間的生活を捨てて出家し,かえって真実の生き方を追求し,真実の生き甲斐をもって働く道をきりひらかれたところに,仏教という宗教もはじまったのだとおもいます。それでもし仏法というものが,そうしたものであるなら,そのような真実の生き甲斐をもって働く宗教生活とは一体どんなものであるか−当然はっきりわれわれに教えてくれるに違いありません。
 ところが,通常知られている仏教という教えは,あまりにも広遠幽邃な話ばかりが多く語られていて,直接今日のわれわれの生活にどうあてはめたらいいのか,当惑することが多いようです。
 その点ここに道元禅師のかかれた『典座教訓』という書籍がありますが,これにはまったく懇切丁寧にわれわれの日常生活に即しつつ,実際の生き甲斐の感じ方,その働き方がかかれてあります。わたしはつぎに具体的な今日のわれわれの日常生活をみつめつつ,そのような宗教生活の一々を,『典座教訓』から学びたいと思うのです。
(『人生料理の本-典座教訓にまなぶ』(p19-20)より)


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●死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか?

(ある老医師が「死後の霊魂はあるかないか」についてアンケートを送ってきた話の続き)
 こんな算術に対しては,はっきり「霊魂はある」「いま貴方がたたかっている相手がそれなのだ」といわねばなりません。こんな先生にもし亡霊など全くないことが科学的であり,仏法の「諸法無我」は現代の科学と一致するなどといえばとんだことになります。「諸法無我」はまったく人間的倫理道徳の破壊につながってしまいますから。(しかし私はこの八十歳を越えている老医師に対し,これ以上は悩ませたくないので,この手紙の返事は書きませんでした。)
 その点,仏教では昔からのインド人の信仰であった輪廻転生説を受け入れ,そのまま説いているわけですが,もしこの「諸法無我」を客観的真理のコトバとするならば,この輪廻転生を荷う主体がなくなり,因果歴然の教えも無意味となってしまいます。それが有部の『倶舎論』などでは無我とはいわず,破我といい,そして業感縁起を説きます。さらに無著・世親の唯識系統では阿頼耶識説を説くことにより,いまいうような霊魂についてばかりではなく,われわれ日常行為における因果関係についても,まったく詳細巧妙に説明する心理学を展開しています。そういうつもりで唯識教学などを勉強すると,われわれの実際修業における日常生活の心構えにも大いに役立つと思います。
(『いのち楽しむ 』-3死者の霊魂や死後の世界は本当に存在するものか?(p17-)より)


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●ただこれこれ

    ただこれこれ

   悲しいときもあり
   嬉しいときもあり
   苦しいときもあり
   楽しいときもあり
   絶望のときもある
   しかしわたしは
   「自己ぎりの自己」として
   ただわたしを生きるよりほか
   仕様がないではないか
   どっちへどうころんでも
   ただこれこれ
(『観音経を味わう-東洋の行』「二十二 ぜいたく経」)


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●延命十句観音経(いのちをふかめるじっくかんのんぎょう)

     延命十句観音経(いのちをふかめるじっくかんのんぎょう)

   観世音   世を観ずる音は
   南無佛   南無仏(なむおんいのち)
   與佛有因  仏(おんいのち)を生きていながら(正因仏性)
   與佛有縁  仏(おんいのち)を生きると知って(了因仏性)
   佛法僧縁  仏(おんいのち)を拝んでいるとき(縁因仏性)
   常楽我浄  常楽我浄の御いのち
   朝念観世音 朝(あした)にも念ず世を観ずる音
   暮念観世音 暮(くれ)にも念ず世を観ずる音
   念念従心起 この念ずる今心(いまのこころ)こそは
         心(なまのいのち)より起って来(き)
   念念不離心 この念ずる今心(いまのこころ)こそは
         心(なまのいのち)を離れない
(『御いのち抄』(p158))


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●身近な根本事実--眠りにおけるナマのいのち性

   眠りを計算に入れぬ
   大都会不夜城の光りは
   現代文明のまさに象徴
   だがしかし生理的にも
   安らかな眠りの時なく
   生きられぬことだけは
   われわれ忘れまい

   思いを手放し私は眠る
   だが眠るあいだも
   思いと関係なしに事実
   呼吸がつづけばこそ
   死ではなく生きており
   目醒めたあとは又思う
   思う世界が凡てでなし
   思いを超えたところに
   生あり死あり眠りあり

   思い出煮たり焼いたり
   する以前を生という
   つまり生のいのちが
   思いとしても現れ
   眠りとしても現れ
   生としても現れ
   死としても現れる
   この生死はすなはち
   仏の御いのちなり
   又この生のいのちこそ
   直接私に働く
   創造する神の御ちから
   われら神の中に生き
   動き亦在るなり
   大事にしよう御いのち
(『御いのち抄』(p26))


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●ゆきつく所にゆきついた生き方

 その点いまもいったように世間の人たちはまったく「中途半端,いい加減,誤魔化し,不十分」だけで生きている。何故そんな生き方をするかといえば,大体ただ惰性だけで生きているからだ。こういうのを「居眠り呆け」という。あるいは何か自分の欲することにカッカのぼせ上がって夢中になって追いかけて一生を送る。これは「欲呆け」だ。
 それから沢木老師はよく「グループ呆け」といわれたけれど,これはおのおの自分の所属するグループにおいて,一番価値ありとされることを追求する。このグループ呆けにはいろいろあって,いまの人たちが「企業のおん為」「会社のおん為」とやっているのは,グループ呆けのなかでも「組織呆け」というべきでしょう。あるいは主義主張のため,イデオロギーのおん為というのは「組織呆け」だ。そしてこの世の中は生存競争だというので,勝ち抜くためにはどうしてもいい学校に入らなければならぬ,その為に「勉強しろ,勉強しろ」という類いは「競争呆け」だ。
 そういうのはすべてみな「中途半端,いい加減,誤魔化し,不十分」な生き方でしかない。大切なのは,自己から出発して,どこまでも自己のゆきつく所にゆきついた生き方をしなければならない。そしてこれこそが,すべての根本でなければならない。
(『宿無し興道法句参』「第二章 沢木興道老師の坐禅について」(p175-176))


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●真実の宗教

 宗教に心理主義というのがありますが,この心理主義が,真実の宗教になりえないことは,いまやあきらかです。
 たとえばカトリックは音楽が美しいというので入信するひとは,それとおなじような単純な動機で出てゆくでしょう。禅寺はサッパリしていて気持ちがよいといって,寺へきて坐禅するひとがあるとすれば,そのひとはまたかならず,そんなサッパリとした気分であるはずの禅寺も,じつは世の中と変わらないことを発見して,やめてしまうでしょう。そんな人間の気分や感情の発心など,じつは発心とはいえないものなのですから。
 また一生懸命,努力修行しなければと,夜もねないでたとえ坐禅してみても,人間の気分や感情で努力精進しているかぎり,やがてクタビレがでてきて,やめてしまいます。これも人間の自力修行などタカがしれているからです。
 さらにまた,あの澄んだサトリの境涯になりたいと,その思い描くサトリの境涯ぐるみが,じつは人間根性の描いた妄想でしかないことも,よく知っておきたいものです。
「坐の尽界と余の尽界とはるかにことなり」−どうしても人間の気分や感情,知性などの「余の尽界(坐禅以外のところにひらかれている世界)」からは,「坐の尽界(坐禅したところにひらかれる世界)」のことは思い描けるはずはないのです。思い描いたとしたら,それは妄想というものです。−「この道理をあきらめて」,なんとしても,「佛祖の発心,修行,菩提,涅槃を弁コウし」なくてはなりません。佛法はどこまでも坐の尽界−坐禅という行に,事実身をまかせてゆくところにのみ開ける世界です。
(『自己−宗派でない宗教』(p255-256))


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●人生究極の問い

 私は若いころ,「人は何のために生きねばならぬか」を問い,世の中のオトナたちから「それは世間知らずの問いだ」といわれ,「コドモを産んでみたらわかる」ともいわれましたが,じつはこの問題は,世間を知ってみても,コドモを産んでみても,わからない問題であり,それどころか,老いていよいよ,そして死の前のひとときには必死に問われてくる,人生最後の問いであり,また人生究極の問いであることが,よくわかりました。
(『人生科読本』(p21))


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●人間的思い・煩悩的思い≠仏法

 アメリカの坐禅というのはLSDから出発したけれど,この頃はもうLSDは卒業したらしい。それでは今はそのスパティニアスというのが流行っているらしい。もともとアメリカという国は,プラグマティズムの国ですからね。たとえば,借金取りがやって来て,金を返してくれと言った時に「喝ーッ」と大喝一声追い返してしまう。もしそういう自発性が出てきたら役に立つもね。人間的な役に立つ。またアタマの思いとしては非常にスッとする。ところが,この”気持ちがいい,スッとする”というのは煩悩的思いが気持ちがいいんだ。愉快なんだ,痛快なんだ。だけどそんなものは仏法ではないということは分かるでしょう。仏法というのは,そういう人間的な思いが,サイダー飲んだみたいにゲップが一つ出てスッキリしたという,そういうものではない。そのへんの筋合いをよく分からなければならない。
(『求道−自己を生きる』(p21))


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●自己の真実を求める

 私の場合は,そこで宗教に入るのを一切やめて,オレは自己の真実を求めなければならないと考えたのです。そしてそのとき,たまたま正法眼蔵を買って読んでみたら,ほかのことはさっぱりわからないが「現成公案の巻」に「仏道をならふというは,自己をならふなり」という言葉が目にとまった。
 「おや,道元という男はオレと同じことを考えている」(笑い)。ほんとうにそう思った。お釈迦さまも「自己のよりどころは自己のみなり」といっているから,やはり同じだと思った。そこで仏教のなかでも道元門下の坊主にならずにはいられないという気になってしまった。その気持ちがさらに決定的になったのは「自証三昧の巻」に「たとひ知識にもしたがひ,たとひ経巻にもしたがふ。みなこれ自己にしたがふなり」という言葉に出会ったときです。知識とは師匠。つまり師匠について経巻を読みながら勉強するのは,なにも師匠や経巻が向こう側にあって,それを自分が学びとるというのではない。実は師匠がオレの中身なのだ。経巻がこのオレの内容なのだ。つまりオレがオレが学ぶのだという。
(『正法眼蔵 八大人覚を味わう』(p212))


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●それは実物ではない

 普通人はいつもなにか根拠らしいものに,依りかかっていないと安定しないような気分をもっている。このような需要があるところ,また必ず誰かが適当にもっともらしい説をたてて,それでなんとなくその説に納得して安心しているにすぎない。それは実物ではないのだ。そんなものに依りかかってはいけないということです。
(『正法眼蔵 山水経・古鏡を味わう』(p93))


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●生きている悟り

 悟りにしても,いったん悟ったらもう迷うことはない,悩むこともないなどという,そんなつっぱった悟りでは困る。生きている悟りというのは迷えば迷える,悩むとき悩めるという悟りでなければならない。それではじめて生き生きした悟りです。生き生きとナマで生きているということは,人間理性をもっているのだから,その理性をもって分別しながら,一切を無相として見ている,つまり分別を解脱しているということです。言い換えれば,いろんな人間的思いを頭の分泌物として眺めるということだ。
 この「思いは頭の分泌物」というのは,けだし名言だね(笑い)。それも沢木老師について二十五年,老師が亡くなられてさらに十年,一生懸命坐禅していたときには,この名言が出てこなかった。そこれから隠居して,のんびりとして,何年かたってから出てきたのだから妙なものだと思う。いや,思いというものは物質ではないというなら,分泌物を分泌エネルギーといってもいい。要するにそういう見渡しができるのは,坐禅以外にありません。今日はむしむしするから分泌物が多いとか,今涼しいから分泌物がおさまっている,といったことさえも,ちゃんと見ていることだ。
(『正法眼蔵 山水経・古鏡を味わう』(p98))


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●いまの息はいま息しつつ

 例えばオギャアと生まれてきた赤ちゃんに向かって「お前はこれから一生生きるのに,いまの息は今しつつ百千万発息しながらいきなければならないんだよ」ともし告げたとしたら,赤ちゃんはそれを聞いただけで疲れてしまって「ああそんなんならもう死にたい」と思うに違いない。あるいは「百千万発をまとめて一発ドカンと大息をしといて,後は何とかその惰性で生き,息をしないで済む法はないものか」と思うかも知れない。頭で考えたら毎日休みなしに息をして生きるというのは大変だもの。しかし実際はそうでないでしょう?いまの息はいま息しつつ生きることは,生(なま)のいのちとして当り前のことなのだ。
 同じように「一発菩提心を百千万発する」ことは,生(なま)のいのちとして一番自然であり,当然やらねばならないことだ。それをやれ公案だ,やれ見性だ,俺悟ったなどとあざといこといい出す。これはドスンと腹応えがあって,一物胃袋につかえたわけだ。何んのことはない,ただの消化不良ですよ。 食い過ぎて胸につかえた一物が気になるより,胃袋の存在さえ忘れている時の方が健康であるに決まっている。御いのちの話としては,無色透明ナントモナイというのが一番いいのです。結局いまの息はいま息しつつ,いまの悟りはいま悟りつつだ。一発ドカンと悟っておいて後はそのおこぼれで一生すごしらいと思うのは,全く横着な頭が描いた心だ悟りだ。生きた悟りは生(なま)ものだから刻々に見直し見直し,出直し出直し,いまのいのちをいま生きるみずみずしさが大切です。
(『正法眼蔵 発無上心を味わう』(p130-131))


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●普遍的な意味のある坐禅

 わたしは坐禅修行僧ですが,わたしは坐禅修行の態度の根底には,「坐禅の背後には,佛教の教相があるべきであり,その佛教の背後には,自己の人生という,地盤がなければならぬ」という考えが,根本的に横たわっております。
 そうあってのみ,地方的にかぎられた形の坐禅ではなく,ほんとうに現代およびこれからの,そしてすべての人類にとって,普遍的な意味のある坐禅になりうるのだと,確信しているからです。こんな確信をもつのは,わたしが,ただ,自己の人生にのみ関心があり,それを追求しつつ坐禅にいたった人間なのであって,その逆ではなかったからでしょう。しかしおもえば,お釈迦様の場合も,自己の人生から出発され,この自己の人生追求のうちに,坐禅する態度もキマリ,八万四千の法門もひらけたのではないでしょうか。
(『自己−宗派でない宗教』(p183))


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●物足りようの思い

一,「物足りようの思い」というものは,まず自分自身で安らえず,それゆ
  え,「他との関係において安らおう」という精神であること。
二,したがって「物足りようの思い」を遂行した限り,その「自らに安らえ
  ぬ精神」も同時に遂行したのであること。
三,それゆえ「物足りようの思い」がたとえ満足された場合でも,その真唯
  中にあってこの「自らに安らえぬ精神」は「どうにもならないもの」と
  して温存され,これはただちにつぎの「物足りようの思い」をまきおこ
  すこと。
(『自己−宗派でない宗教』(p214))


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●阿弥陀さまにすくわれている

 等正覚とは,お釈迦さまの悟りをいう。お釈迦さまが悟りをひらかれたとき「われと大地有情と同時成道,山川草木ことごとくみな成仏す」と言われたという。お釈迦さま一人が悟りをひらいて,あとのものは迷いのままだというのではない。一人の人間が悟りをひらくとは,一心一切法,一切法一心,その生命体験する一切ぐるみ悟りになる。
 坐禅をしてアタマ手放しにすれば,世界がガラッと変わるというのも,そういうことです。お釈迦さまが悟りをひらけば,お釈迦さまの心にある一切法--山川草木ことごとく成仏する。すべてが仏さまの姿なのだ。
 その意味で,ほんとは,われわれはすべて,お釈迦さまによって悟られているのだ。これを真宗では「阿弥陀さまにすくわれている」と表現する。
(『正法眼蔵 弁道話を味わう』(p97-98))


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●坐の尽界と余の尽界の違い

 もう一つ,坐の尽界と余の尽界がどれほど違うかということで私が思い出すのは,沢木老師が昭和十年代によく話された白犬と黒犬の話が。
 あるとき黒犬が白犬にむかって羨ましそうに言った。「シロよ,シロよ。お前は結構なもんじゃなあ。白犬はこの世の生を終えると生まれ変わって人間になるというが,お前はまっ白いから来世はきっと人間に生まれ変われる。うまいもんじゃなあ」。するとシロが涙ぐんで「そう言うてくれるのは有難いけれど…じつは人間に生まれ変わったら,われわれが土用のうちに三遍は食わねばならぬという人間の糞にありつけるだろうかと思って…それが心配でかなワン」と言ったという。
 この話は大変面白い。犬の分際だと人間の糞は土用のうちに三遍食わなければならないほどご馳走なのだ。ところが犬が死んで人間に生まれ変わったら,何も人の糞を食おうなんて誰も思いはしない。その辺白犬の分際と人間の分際と欲求の筋合いが全く変わる。考え方そのものがガラッと変わるので
す。
 そうすると凡夫の思いでたとえ発心しても,本当の発心・修行・菩提・涅槃というのはそれの続きにはない。白犬地盤の発心は人間の発心にはならない。同じように人間地盤の発心修行菩薩涅槃は,仏法の発心修行菩薩涅槃にはならないということだ。
(『正法眼蔵 心身学道を味わう』(p19-21))


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●自己否定のところにはじめて神の智慧が語られる−しかし…

 しかしわれわれおそらくこの自己否定ということさえも,どうも常に人間根性でうけとりがちであり,そのため直ちに再び宗教の世界はまったく閉ざされてしまうでしょう。というのは「人間根性の自己否定」といえば,われわれ自身の人間根性<煩悩>やら,人間的思い<妄想分別>やらを全く断滅して,いわゆる無念無想の境地になることだとオモイこんでしまったり,あるいは人間的罪の思いを嫌悪しきっていわゆる戒律堅固になりきることだとオモイこんでしまうからです。そこで一方コチコチの無念ノイローゼ,戒律ノイローゼなどが出来上がるかと思うと,他方「とうていわれわれ煩悩妄想を無くすることは出来ませんよ。何しろわたしは本能を何より大切にする凡夫なんですからね」などどいう全く見当外れの抗議まで出てくる始末です。この際忘れてはならぬことは,この人間根性の「自己否定」ということは,人間根性をむりして抹殺することではない。ただ神のモノサシによって素直に測られるということなのです。そのとき人間根性ではとうてい推測もできぬ神の恩恵が用意されてあるでしょう。「凡ての人,罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず,功なくして神の恩恵によりキリスト・イエスにある贖罪によりて義とせらるるなり。」(ロマ三の二十三,二十四)−この神の義のモノサシの感得こそが宗教というものです。
(『観音経 十句観音経を味わう』(p176-77))


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●生命の実物としての自己

 たしかにふだん私たちは,この自分,自分といっている小さな個体を生きていることは事実です。それでわたしたちの「思い」は,この小さな個体を自分だと思い,自分自分といっているわけですけれど,しかしほんとうの生命の実物としての自己は,けっしてこのたんなる個体ではなくして,個体以上のものでなければならないでしょう。
 早い話が,さきにいいましたが,私において心臓がうごき,血液が全身に流れ,一分間にいくつの割で呼吸している力などは,すべて私自身がはからって,私自身が働かせている力ではありません。まったく「私の思い以上のところで働いている力」によるものです。では「私の思い以上の力」であるからといって,この力は私ではないのか,というと,事実私において働いているかぎりは,これこそ自己の生命の実物たるにちがいないでしょう。
 いやこんな身体的な働きだけでなく,私のアタマにいろいろな思い浮かんだり,考えたりするのも,なるほどその思いや,考えの内容についていえば,いかにも私の思い,私の考えであるようにみえますが,その思い考えを働かせる力そのものは,やはり私の思いをはるかに超えた力だといわなければなりますまい。しかしたとえそれが私の思いをはるかに超えた力だといっても,事実私において働いているかぎりは,やはり自己の生命の実物たることはまちがいありません。つまり自己の生命の実物とは,小さな個体的な私の思いをはるかに超えたところにありながら,現にこの小さな個体的私に働いている力なのです。
 ところで私においてと同様,あなたにおいてもそうなのです。してみれば小さい個体としての自分,およびその個体の考えるさまざまな思いの内容というものは,なるほどおのおのこの小さな個体を自分と思い込んでいるのだし,そのまた自分の思いだという点で,各別であるわけですが,しかしおのおのの個体に働いていろいろと考えさせる所の生命の力というものは,いずれも「小さな私の思い以上の力」であるという点で,ぶっつづいているわけです。
(『生命の実物』(p106-108))


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●われわれが坐禅し修行しようと思う心は欲望ではないのですか?

 そうです。われわれが坐禅し修行しようと発心するのは,大抵の人は,坐禅修行することによって,少しでもなんとか自分を向上させようと思って始めるにちがいありませんが,そのかぎり欲望のつづきです。というのは,なんとか自分を向上させようというアテを,現在の自分より外と未来に向かって描き出し,そんな自分になりたいと思うのですから,欲望といいます。しかしこの欲望は,他(アテ)への追求のなかに生き甲斐を感ずる心なのですから,もはや現ナマの自己の生命現成ということからは,とっくに外れてしまっております。それで道元禅師もいわれます。
 「人はじめて法をもとむるとき,はるかに法の辺際を離却せり」(正法眼蔵現成公案巻)
 ところでいま真の自己の向上とは,いまの自分をさしおいて,外あるいは未来に向かってアテを追うことではなく,今此処の自己の生命の実物を実物することなのだと知り,そういう態度に転換したとき,もはや欲望とはよびません。それは外へのアテに向かってではなく,ただ自己みずからの生命現成なのだからです。
 ------この力はそれでは一体何と呼ぶべきか。
 ------これは欲望とは呼ばず,生命力というのです。
 あたかも植物や動物の生命体が傷ついたとき,それは自然になおってゆくでしょう。あるいは石ころの下におしつぶされている路傍の草は,その石の横から顏を出しつつ,さらに成長してゆきますが,これら「治癒する力」や「障害をのりこえて成長する力」を欲望というでしょうか。そうではありません。これは生命力です。われわれがいま坐禅し修行する力もそうです。何んのアテも描かず,しかし自己みずからの生命の実物を発現現成する力なのです。
(『生命の実物』(p141-142))


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●道元−沢木−内山の坐禅

 結局,仏教の話はどこまでも自己こそが根本です。この自己におちつくことを沢木老師は「自分が自分を自分する」といわれ,道元禅師は「自受用三昧」といわれたのです。道元禅師の教えられる坐禅というのは,この自受用三昧であり,沢木老師の教えもこれが根本です。(p182-183)

 「坐禅は自分が自分を自分することである」というのは,自己の存在価値を自己において見いだしながら,本当の生命の実物になるということで,これが自受用三昧の根本です。(p187)

 宇宙を悟りと迷いの二つに分け,「迷いを捨てて悟りたい」というのでは,宇宙一杯ではない。幸も不幸も,悟りも迷いも,生も死もまったく一目にみて,どっちへどうころんでも自己は自己の生命を生きる−そういう自分が,自分を自分しなければならない。そういう宇宙一杯,天地一杯こそが,「私の帰る処」なのだから。(p203)

 だから「出会う処わが生命」。何んにもならないところで,しかしながらほんとうの純粋自己の生命力としてただする−そういう自己で生きたいですね。そうすれば何も勝った敗けたで,泣きべそかいたり,あるいは幸福はよいが不幸はいやというので逃げたり追ったりする,そんなウロウロした生き方をしなくてもいい。
 本当に堂々と,天地一杯の自己,その生命力で真直ぐに生きてゆく−こういう生きる態度こそが一番大切です。道元禅師が教えられる坐禅および,坐禅の生き方とは,そういうものなんです。(p208)
(『宿無し興道法句参』より)


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●「死」−近い将来,世の終わりが来るという新宗教の予言は信ずべきか?

 そしてそんなことよりも,もっと根本的に考えるべきことは,例えばわれわれが溺死するためには,何も太平洋,大西洋のような大海原という舞台が持ちだされる必要はないということです。その辺の小川や池,あるいは井戸の中に落ちただけでも,結構溺死することができます。それと同じく私が死ぬというためには,何もこの世の終わりという大舞台を持ち出す必要はありません。私はそれこそ今日交通事故に出会っただけでも死んでしまうのです。そしてこの私自身が死ぬことは,その時,私の父母,妻子,兄弟たちとも別離せねばならぬ時であり,それどころか,私が今まで生きてきているこの世のすべてとも別れねばならぬ時なのです。それこそがまさに私にとって世の週末の時なのです。つまり,一口にはっきりいえば,世の終わりや最終戦争などの世の事件的なことが起こって初めて,私が死ぬのではありません。かえって私という個の死の中に,私とってのすべての世の終わりがあるのです。
(『いのち楽しむ』p13-14)


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●宗教とは…

 宗教とは何よりも先ず,この地上にあらわれては消えてゆく,無数の生命存在の流れのうちの単なる一個でしかない私が,その流れのなかから「私自身」をとりあげて,いったい「わたしの一生の営みは何であったか」「何であるのか」「何であるべきか」と問いおこす−この問題にかかわるものではないかと思われます。
(『観音経 十句観音経を味わう』(p46-47))


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●何故宗教を求めるか

 先に大昔の人々が宗教をもつようになったのは,この有為転変不安の世の中において何か依り所をもって生きたいという心が,宗教という文化を展開させてきたのだといいましたが,実はこの世を有為転変不安の世と感じる根本は,まさしくこうした−
 (一)生きたい生存本能をもちながら,必ず死なねばならぬ必然性をもつ絶対矛盾。
 (二)しかも生きている限り,死の正体を見ることはできない,全く不明暗黒の深淵であること。
 (三)さらに生と死は表裏一体の関係であって,いつの瞬間でも生は死ぬ可能性においてあること。
 こんな死を予感するので,不安を感じざるをえないのでした。そしてそれなればこそ大昔から人類は,何か宗教という領域の中に手探り模索しつつ求めてきているのだといえましょう。
 その点われわれは,本当はこの生と死をもつ自己いのちを一目に見渡して,その上に立って今,自己一生をどう生きていくべきか,しっかり決まった処で生きたい心(これも生存本能によるものですが)をもつのであり,その心がわれわれに宗教を求めさせるのです。それで昔は人間の営みのすべての領域が宗教の名でなされていたわけです。
 しかし今は先に述べたように,すべてのわれわれの生活不安や生活不便は科学技術や社会政策などで片づけられており,今やそうしたものにおいて宗教の名でなさねばならないことは何もなくなってしまっています。しかし,それにもかかわらず「具体的な自己いのち」そのものの中に,以上のような死の問題を内蔵し,孕みもつ限り,依然として人は宗教を求め続けずにはいたれない本質的契機を持つのです。
(『いのち楽しむ』p121-22)


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●坐禅というのはいくらやっても何にもならないけれど…

 道元禅師は正法眼蔵の中でいつも強調しているのは「尽(じん)」という言葉です。これは英訳するのに何て訳したらよいかわからないという。「尽十方界」とか「尽一切」とか,「尽大地尽衆生」とか,あるいは「尽地尽界尽時尽法」というように,道元禅師は,ほんとうにたくさん「尽」という言葉をつかわれる。要するに,全部をひっくるめたということ。アタマの中じゃ,この俺だけが俺だと思っているのだけれども,アタマを手放しにしたところでは,すべてとぶっ続いているということです。
 このぶっ続きの生命というのが,なかなかわからない。本気でそうだと思えないんですね。私も坊主になり,ずっと坐禅修行して,三十何年になったわけだけれど,俺というものがすべてとぶっ続いているということだけは,だんだんとはっきりしてくるようだ。坐禅というのはいくらやっても何にもならないけれど,しかし,やればやるほど,あらゆるものごとが他人ではないということだけは,だんだんとはっきりしてくると思う。まあやってごらんなさい。坐禅して,アタマを手放しにしていることだけ一所懸命やっていると,すべてとぶっ続きということだけがよくわかってくる。
(『求道−自己を生きる』p109-110)


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●一坐二行三心

 坐禅は具体的に「得は迷い,損は悟り」を実行し,二行(誓願行・懺悔行)三心(喜心・老心・大心)として,生活の中に働く坐禅でなければならない。


(『求道−自己を生きる』p103)





●帰命

    帰 命

   分別や思いは あたまの分泌物
   生死の分別をこえている
   いまの生命実物に
   いま帰ることを帰命という
   いま帰命いま拝む 天地一杯ただ拝む
(『<生死>を生きる-私の生死法句詩抄より』p64)


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●坐禅と日常生活

 ではこんな坐禅と,われわれの日常生活と,どんな関係にあるか。
 これはいま申しあげたように,坐禅は自己の正体であり,正気の沙汰の自己であり,これこそ佛であり,われわれのご本尊さまなのですから,この正気の沙汰の坐禅に見守られ,導かれ,力をあたえられて,ふだんの生活もしてゆこうということでなければなりません。
 われわれはふつう,よっぽど被害妄想でもして,やにわに人を切りつけたりでもしないかぎりは,気狂いとはされず,正常人とみなされているわけですが,このわれわれが正常人であるということは,じつはとてもアヤシイのではないですか。
 ちょっとしたことでもすぐに業の思いにふりまわされて,カッとノボセあがったり,情痴に狂ったり,ねたんだり,企んだり,金や地位がばかにありがたかったり−みんなオカシイんだとおもうのです。それをオカシイとおもわず,正常だとおもっているのは,けっきょくグループ呆けなんですよ。「あんたもそうなら,わたしもそう。人間だから,多少煩悩があるのは仕方ないでしょ」と安心している。−まったく人間なのだから,どこまでいっても煩悩はなくならないでしょうが,「あんたもそうなら,わたしもそう」というのでグループ呆けして,正常だとおもっているだけは,正気の沙汰でないことは事実です。
 われわれナマ身のからだで,煩悩があるのは仕方ないにしても,しかしこれは少なくとも多少狂っている,正気の沙汰じゃないということだけは知っておきたいものです。そうでないと,本当に狂ってしまうことになるからです。
 いまわれわれが,ふだん自分を正常人だとおもっているのは,自分の狂っている程度が測れないほど狂っているだけのはなしで,本当の意味の「正気の沙汰」でいるわけではありません。宗教とは,まずこの自分が狂っているなと,知るところからはじまらねばなりません。もし自分が狂っているなとわかれば,それだけ正気をとりもだしたことなのだからです。
 だからごらんなさい。親鸞上人はよく,自分を極重の悪人凡夫だといわれておりますが,これはけっして親鸞上人がほんとうにわれわれより,とくべつひどい悪人凡夫だったからというのでは,ありません。むしろわれわれとはくらべものにならない,清らかな聖人であられたことはまちがいないのですが,それよりも親鸞上人のモノサシが,それほど澄んだ「正気の沙汰のモノサシ」であったからです。それで自分をいかにも極悪人のようにいわれているのです。
 われわれときたら,親鸞上人とはむろん比較にならぬ悪人凡夫なのだけれど,それほど思っていないどころか,おれは善人,正常人だとおもっている−それほどわれわれのモノサシは,「モノサシぐるみ狂っている」わけです。
 それでわれわれ,せめて自分が狂っており,悪人であることを,すこしでも自覚したい−それを測定する「真実,正常なモノサシ」が坐禅というものです。
 するとよく,「ははあ。それじゃ坐禅は,理性や良心とおなじですね」なんていうひとがありますが,それはとんでもない早合点です。
 というのは,理性とか良心とかいうものは,「考えられた正気」なのであって,この「人間の考えた正気」というやつは,まったくいい加減なものです。いやそれどころか,血走った理性や良心などは,自分の気狂い沙汰を勝手に論理づけ正義づけ,大衆を説得して,世をあげて気狂い行動をとらせることさえあるのですから,これこそまことに危険なものなのです。
 坐禅はそういう「考えられたもの」ではなく,一切不為−「ツクリゴトなし」です。そうしてただ「身をもってする正気の沙汰」ですから,いわゆる理性とか良心とかいうものとは,まったく同一次元のものではありません。
 だから,われわれ,しょっちゅう坐禅しずめにしていれば,まったくまちがいはありませんが,しかしわれわれ人間は,生きているかぎり,なんといっても業の姿で生きているのだからそう簡単にはゆきません。そこには生活があります。生産もしなければならないし,金儲けもしなければならない。学びもしなけばならぬし,人とのつき合いの世界にも住まわなければなりません。これらの地上的営みをぬきにして,われわれの生理的生命はありえません。
 それでわれわれは,しょっちゅう坐禅しずめにしているわけにはゆかないのですけれど,しかしどこまでも,この「自己の正体たる坐禅」に見守られ,みちびかれ,力をあたえられて生きてゆきたい−坐禅こそは,わが人生の最究極の姿であり,方向であると,−これを何より大切に護持してゆくのが,われわれ佛教徒の生活というものです。
(『自己-宗派でない宗教』p173-176)


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●坐禅は自己の正体である

 従来わたしは「物足りようの思いでつかんでいるもの」を,ふかく「自己」ときめこみ,この「物足りよう」をしずめないことには,と,それをしずめるために,坐禅というものをうけとってしまっていたのでした。つまり思いを「しずめようとする思い」の道具,手段として,坐禅をみていたわけです。
 ところがこの「しずめようとする思い」そのものが,じつは「物足りようの思い」の一つの変形でしかなかったのです。それで坐禅すれば坐禅それぐるみ,坐禅修行すれば坐禅修行の生活それぐるみが,そのまま始末のつかぬ懊悩となってしまいました。
 しかしじつはそうではなかったのです。よくかんがえてみれば,この「自分」としてきめこんでいた「物足りようの思い」とは,けっきょく遺伝的性格やら,うまれた環境やら,そだった境遇,おしえられた教育,習慣,いままでの経験,時代の風潮,食物や陽気の加減など,ただ偶然の集積でしかなったので,したがってその条件さえ変われば,じつはああも考えられるし,こうも考えられるといったようなものでしかなく,こんな思いのなかに,真実の私というものは,あるはずはなかったのです。
 むしろこんな偶然的な思い以上のところにこそ,真実の私があるのでなければなりません。だから坐禅とは,たしかに「思いを追わぬ姿勢」「思いでない姿勢」にはちがいありませんが,これは「物足りようの思いをしずめるための手段としての姿勢」であるべきではなく,かえって本来,「坐禅」そのものが「自己の正体」なのでありました。
 「坐はすなわち佛行なり。坐はすなわち不為なり。是れすなわち自己の正体なり。此の外,別に佛法の求むべき無きなり。」(正法眼蔵随聞記)
とありますが,まことにこの道元禅師のおことばこそ,坐禅のもっとも本質をいいあらわしたことばだといわねばなりません。
 してみれば四聖諦にしても,「苦のもとは欲望である」,それゆえ欲望を滅すれば,寂滅の楽が得られる」などといういいかたをすればアヤマリです。
 「寂滅の楽を得ようとする,そのことが欲望ではないか」と,かって発したわたしの疑問は,けっしてアヤマッテはいませんでした。寂滅の楽をえんとする欲望がそのまま,かえって修行者をして,抜くべからざるディレンマに追いこむだけですから。
−真実の佛法のおしえは,そんなことではありません。
 「欲から苦が生ずる私がある。」
−まず苦,集の二諦は,かくおしえます。これは流転輪廻する自分のすがらのことをいうのです。
 しかし同時に「これとまったくちがった自己」があります。それはつぎの滅,道の二諦がおしえる。
 「道をあゆむなかには,寂滅している自己がある。」
ということです。
 四聖諦はただこの二つの自己の道をならべてみせるだけです。もしこれを聖書のことばを借りていえば,
 「肉によりて生まるるものは肉なり。霊によって生まるるものは霊なり。」(ヨハネ三の六)
あるいは
 「肉にしたがうものは,肉のことをおもい,霊にしたがうものは,霊のことをおもう。肉の念(おもい)は死なり。霊の念は生命(いのち)なり。平安なり。」(ロマ八の五)
ということです。まことにかかる言葉があればこそ,聖書のなかに,正しき宗教があることを,わたしは信じます。それに反し,もしたとえ佛教者と自称するひとたちといえども,「それゆえ寂滅の楽を得んがため」にと,この二つをつなぎあわせるとき,とたんに功利的な新興宗教とちっともちがわぬものとなってしまうことを,あらためて確認いたします。
 真実の佛法は,「本来寂滅の自己なるがゆえに,寂滅の道をあゆむ」のであり,あるいは「寂滅の道をあゆむために,寂滅の道をあゆむ」だけです。つまり真実の自己とは,「思い以上の自己」なるがゆえに,「思い以上の道」をあゆむだけです。そしてこの「思い以上」というのが,坐禅なのです。
 だから坐禅してぼつぼつ思いをしずめようとしたとて,じつは坐禅のなかには,しずめるべき何ものもありません。坐禅はただ(祗管)坐禅するだけです。坐禅は,坐禅の独悟現成でのみあります。
(『自己-宗派でない宗教』p246-249)


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