Why do I Love Roshi?

僕が内山老師を好きな理由(わけ)









text by Kuwako


 本当に困ってしまう。

「内山老師の事を書け」なんて言われても。たんに僕は内山老師が「好き」。好きな人のことをアレコレ理屈で言葉にして書くとなんだかダメになってしまう気がする。

 多くの青年が

「広末涼子好きだなあ……」

 という次元で

「内山興正好きだなあ……」

 という感じなのだ。そんな「ミーハー」に老師のことを語れる資格はないと思う。

 それにちゃんとしたお弟子さんも書いてるんでしょ?読む人もちゃんとしたかたなんでしょ。まったく恥ずかしいじゃないかあー!

 ……逃げ口上。


 僕と内山老師の出会いは教育テレビの「こころの時間・生死二つなし」だったか、それとも「生命の実物」を読んだのが先だっただろうか。

 たぶん本を読んで「面白いなあ」と思い、テレビ(こころの時間)でお顔を拝見してますます好きになったのだと思う。その風貌、表情、笑顔、しぐさ、姿勢、雰囲気……なんとも心暖まる感じだった。

 というか、一目見て「あっ」と叫んだ。なぜなら僕の父方の祖父にそっくりだったからだ。

 詩吟と剣道をやり常に矍鑠とした祖父は僕をかわいがった。ほとんど怒ることはなかった。いつも笑ってた。内山老師の笑顔に祖父の笑顔が重なった。

「ミーハー」たる所以である。

 なんだか単純な理由だなあ。でも僕にとって顔や表情やしぐさや雰囲気はとても重要。どんな立派な教えを説いてても

「ああ、恐そうだなーー。偉そうだなーー。うさんくさいな……」

 と思ったらダメになる。好きになれない。好き嫌いが激しい。

 内山老師の場合、教えもいいし、顔もいいと思った。ビビッときた。それだけで判断していいのかわからないけど、それしか判断する材料がないから仕方ない。あと「サライ」のインタビューも良かったなあ。

「老人力」というのが少し前にブームになったけど、内山老師こそ最高の「老人力」を体現してたような気がする。内面的な掘り下げ(いのちの深さ)を老いても尚コツコツと耕してた。

 それが「カッコ良かった」。老いても尚「カッコ良い」。イヤ、老いてますます「カッコ良くなった」。


 沢木興道老師も好きだった。

「妻を娶らず、寺も持たず、全国を遊説して歩くお坊さん……」

 写真で見るお顔も凛々しい。おお、カッコイイ!というまたまたミーハーな 気持ちで惹かれたのだ。「禅談」「沢木興道聞き書き」「沢木興道全集」「禅に聞け 」・・などを読んでいった。

 でも僕にとっては沢木老師の敷居は高かった。もし僕が沢木老師の弟子にな ったら滅茶苦茶叱られるだろう。殴られるだろう。辛くて逃げ出しただろう。

 でもそんなとき、内山老師が「ヨシヨシ」と慰めてくれるに違いない。内山 老師はやさしいからな。キリスト教の先生だったし。一緒に沢木老師に謝ってくれる だろうな。

 そんな気がする。

 ……何書いてんだ。


 そういういい加減な理由で好きなだけだ。もし僕が「麻原某」にビビッとき たらオウム信者になったかもしれない。でもビビッとこなかった。「うさんくさい」 と思った。

 でもそれも所詮人間の色メガネで見ているだけ。極論すれば「内山老師の教 えはヨイ。麻原某の教えはワルイ。」とはならないと思う。

 でも僕は内山老師を選んだ。オウムは選ばなかった。それは、

 坐禅

 をやってたからだと思う。「坐禅力」のお陰だ。

 なんだか偉そうだ。いやエライのだ。この際思いきって声を大にして言って しまおう。

 坐禅をやってる人はエライ!!

 坐禅はなんにもならないらしい。

 でも、なんにもならないことを一生懸命やるところが素晴らしい!!

 内山老師は

「アタマの思いを手放して坐ればいいのだ!」

 としか言わなかったのじゃないか。そんな気がする。

 老師は「老人力」と「坐禅力」の二つを持ってた。カッコイイわけだ。鬼に金棒だ。虎に翼だ。坐禅をやってる老人はみんなエネルギッシュでカッコイイ!

「坐禅は思いを手放し、ノボセを下げて、尽一切(すべてのすべて)にぶっつづきの生命の実物を覚触せしめる」

 そうか。思いを手放せば「生命の実物」を覚触できるのか……

 という思いも手放す。そして「坐禅してる自分」に帰る。でもまた思い始める。でもまた手放す。また思う。また手放す。……その繰り返しだ。

 それって、「ヴイッパサナー瞑想」に似てる……と思うけど、どうなんだ ろう。教えて下さい。

 まったくお坊さんでもないのに何書いてんだと思う。読んだことをそのまま 書いてる。釈迦に説法じゃないか。ホント恥ずかしい。


 とにかく、僕は毎日坐ってます! 短い時間ですけど。部屋でひとりで。たまにお寺で皆さんと。

 それは内山老師の言葉を信じてるのもあるし、最近自分でも「坐禅力」があ るんじゃないかと自惚れはじめたからだ。

 ……バカだ。それこそ手放せ!

 それに、僕から坐禅をとったら「何も残らない」。最近そんな気がしてきた。

 というか「何も残らない」ほうがいいんだろうけど。うーーん。


KUWAKO●web page『東京晒餡』開設。曹洞宗のお寺で坐っている。『東京晒餡』の中に仏教や禅・精神世界について臭皮袋日記という隠れた名コーナーがあります。


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