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内山興正老師から学んだこと









textbyIsshoFujita(ValleyZendo)


1.内山老師との最初のご縁

 私は法系からいうと内山興正老師の孫弟子にあたります。私がヒョンなことから坐禅に出会い、いろいろな曲折をへてから本格的な禅修行を志したときには、内山老師はすでに安泰寺から引退され宇治木幡の能化院に隠居されておられました。禅宗では叢林において師と弟子が生活を共にするという修行形態が特に大切にされていますが、私はそういうかたちで内山老師から直接の禅の手ほどきをうけた直弟子ではありません。老師の著作を読むこと、そして何度か恵まれた相見の機会にお話をうかがうこと、私が老師の教えに接したのはこの二つのことを通じてでした。どのくらい理解できたかはともかく老師の本はほとんど読ませていただきました。また、そのころから今日にいたる約17年間に直接お会いしたのは十四、五回ほどになります。今の修行生活、とりわけ坐禅に対する基本的な考え方や修行に取り組む態度に関しては、老師からの影響は絶大であり決定的です。

 実は私ははじめ臨済宗の禅にとりくんでいました。東洋医学の師である故伊藤真愚先生や横山観風先生の縁で、大学院生をやりながら円覚寺居士林の学生接心や練馬の高徳寺、上野の徳雲院の坐禅会などに顏をだしていたのです。「曹洞宗は儀式重視であんまり坐らない。坐禅するなら臨済だ」と聞いていましたし、格闘技(合気道)を長年やっていたこともあり臨済宗のあの独特のマッチョな(?)雰囲気が自分の好みにもあっていましたから、曹洞禅には全く目をむけていませんでした。ところが、ちゃんと正式の雲水になって僧堂に入り公案と坐禅の修行に専念しようと腹を決めて当時の高徳寺住職福富雪底老師(現大徳寺派管長)に相談したところ、思いがけなく曹洞宗の修行道場である安泰寺を勧められました。さて、どうしたものかと思案しているところへ、以前から親しくさせていただいていた柏樹社(内山老師の著作を多数出版している出版社)の故中山信作社長が横田先生の所へ治療に来られ(当時私は住み込みの内弟子でした)、「そういうことなら明日、京都の内山老師のところへ用事で行きますから、一緒にどうですか。きっと相談にのってくださるでしょう。」と誘ってくださったのです。こうして中山さんと一緒に内山老師のおられる能化院をだずねることになりました。(実はそれよりだいぶ以前、やはり中山さんと一緒に内山老師と一度東京でお目にかかったことがあったのです。住んできた大学の寮の近くにあった柏樹社の一室で朝、岡田式静坐法を一緒にやっていた中山さんがある日、「今度、内山興正老師という方が用事で東京に出て来られます。旅館におたずねすることになっているのですが、よかったらあなたも会いにいきませんか」と声をかけてくれました。それで、「禅の老師というのは一体どんな人物なのかひとつ見とどけてやろう」という単なる好奇心からのこのこ出かけていったのです。その頃はまだ禅との縁は全くなく、内山老師の名前も初耳でした。たしか、NHKの宗教の時間で澤木興道老師の特集が組まれることになり、高弟である内山老師がそれに出るために上京されたのだったと記憶しています。私のほかに5、6名が同席しました。その時、老師が何を話されたのか全然憶えていません。ただ、侍者の雲水さんと部屋に入ってきて(ずっと後になって、その雲水さんが安泰寺からアメリカへ禅の指導に最初に行ってこられた瀧見観音堂現住の唐子正定さんだと知りました)着座されるなり、たもとから煙草を取り出して火をつけうまそうに吸い出したことだけは今でも鮮明に憶えています。「ヘエー、禅の老師でも煙草を吸うのか」と意外な気がしたからです。「ざっくばらんで飾らない人」というのがその時の印象で、自分が抱いていた”禅の老師”のイメージとは全く違っていました。ともかくその時はそれだけのことで、まさかその方が後になって自分の人生に深く係わることになる人だとは夢にも思いませんでした。)

 さて、初めて内山老師の能化院をお訪ねしたときのことに話をもどします。それは冬のある日のことで老師は着物の上にちゃんちゃんこを着て炬燵に入っておられました。私たちも炬燵に招かれ、お茶とお菓子をすすめられました。中山さんとの話が終わったあと私の方を向かれて、「安泰寺に行きたいんだってね。冬の間は外部の人は受け付けないことになっているけど、まあ手紙を書いて問い合わせてみなさい。どうすればいいか返事してくれるでしょう。あそこの接心はきついけど是非経験してみなさい。」と指示を下さいました。そのあとたしか「葉公(せっこう)が龍を愛し、居室に龍の彫刻や絵画をかかげて楽しんでいた。天の真龍がこれを聞いて降りてきたら、葉公はこれを見て驚き失神してしまった」という故事を語られ、どうせ龍を愛するなら本物の龍でなくてはというようなことをおっしゃったように記憶しています。そして、かつて京都に安泰寺があった場所の近くにある清泰庵に櫛谷宗則という弟子がいま居るから今夜はそこに泊めてもらって話を聞きなさいとすすめて下さいました。私は老師のところを失礼したあと、言われたとおりに宗則さんに会いにいきました。それからまもなく安泰寺へ下見をかねて接心に行き二十日間ほど滞在させていただきました。 こうして内山老師にお会いしてから自分でも思いがけない展開で、安泰寺への道が開かれていきました。老師を能化院にお訪ねしてから四ヶ月ほどのち、私は大学院を中途退学し、九年間住んだ東京を去り、「まず十年は安泰寺で黙って坐禅すること」という内山老師の御忠告を胸に安泰寺に入山しました。1982年のことでした。


2.内山老師から学んだこと

 内山老師から私はなによりも「宗教としての坐禅を行ずること」を教えていただきました。といってもそれについての答えを教わったのではなく、それを大きな問いかけ・課題・公案として与えていただいたということです。(この場合「宗教」といっても宗派根性にたったセクト的宗教でもなく御利益本位の新興宗教でもなく形骸化してしまった既成宗教でもなく、あくまでも人生の「畢竟帰処」、人生において一番大切なこと(=「宗」)を明らかにする「教え」という意味でのいわば「宗教的宗教」のことです)「ほんとうの宗教生活を生きるとはどういうことか」という抽象的でとらえどころのない問いに対して、老師は具体的な坐禅の正体・内実を明らかにすることで、応答しているのだと私は受け取っています。純粋に正しく行じられている坐禅のなかに包含され表現されている真の宗教性のありようを老師は口語体で縦横無尽に語ろうとされました。ともすれば見当はずれな方向にむかって坐りがちな私はそのおかげで何度も軌道修正をすることができました。 我々凡夫が教えに出会わずそのまま坐禅にむかえば、必ずといっていいほどそれを自己暗示やら自己催眠(自己コントロール)の一方法・精神の鍛練法・神秘体験の獲得をねらった瞑想法・自分一人が向上するための手段・迷いや苦悩から逃げて悟りや楽を求める方法等々にしてしまいます。それでもどこまでも、このちっぽけな自分に何かを付け加えようという吾我中心の思い(「ものたりようの思い」)から来る中途半端で不徹底な人間の営み(「三界の法」)でしかありえず、いきつくところへいきついた「仏祖の法」ではないのです。私自身をふりかえってみても、坐禅を始めた当初はまさにそうでしたし、いまだにそういう傾向性を払拭し切れているとはいえません。だた違いがあるといえば、はじめはそれ以外に考えようがなかったのに対し、いまはそれではいけないのだと気づいて出直しできることくらいでしょう。道元禅師、澤木興道老師そして内山老師の生き方とことばがなければそういう気づきが開けることはなかったでしょう。

 ともかく本当の坐禅は、矮小でせせこましい人間根性や世間常識(「人情世情」)からは夢にも思い描けないほど、雄大で悠々としたものだったのです。どこまでいっても有限な凡夫の思いの袋のなかに無限な坐禅を詰め込むことはできません。坐禅とはこの思いを手放し手放ししてただ坐ることなのです。この単純明快なことが何故か私たちにはなかなか得心できず、あきらめきれません。それで、一生懸命になってあれこれ小細工を弄そうとするのです。そこからさまざまな形で坐禅の誤解や歪曲、堕落が生じ、時には人の命にかかわるような悲劇につながっていくのです。凡夫がせり上がって偉くなろうとするかぎりいくら一生懸命にやってもそれは人間技であり、宗教としての正しい坐禅にはなりません。どうしてもそこには凡夫が根底から引っ繰り返る(凡夫根性お破産、自己の絶対否定)という質的転換がなくてはなりません。自分で自分を何とかしよう、自由にしようという自力根性が徹底的にすたらなくてはいけないのです。それを理屈でなく実地に、段々にではなく即実現(「一超直入」)にするのが坐禅だったのです。しかもそれをこの生身の凡夫のままでやらせていただけるのです。

 どこまでも有限な凡夫がどこまでも無限な坐禅を行じることができる。そこの覚知せざれどもおのづと「行仏」が現成している。「区切りとったこの私をいうかぎり、それはどこまでも凡夫でしかないのですが、それにもかかわらず坐禅はかならず仏です。」この坐禅という不可思議な出来事の構造にむかって、内山老師は誰よりも自覚的に、言葉を用いて知性が納得できるぎりぎりの限界まで肉迫していこうとされました。老師はいつも「一鍬でも掘り下げ、深めた表現をしたい」とおっしゃっていましたが、そのことば通りお会いするたびに新しい生きのいい表現を聞かせていただきました。「これはね今朝できた詩なんですよ。」と言って、大学ノートに万年筆で記されたできたてほやほやの「法句詩」(老師の領解をその都度短い詩の形にまとめたもの)を披露していただいたことがしばしばでした。一昨年最後におめにかかった時にも『今夜安眠抄』と題された小冊子をわけてくださり、「それができてからこの間また一つ新しいのができたので、今から言いますから書き足しておいて下さい。」とおっしゃいました。この息の長い一貫した「道得」への情熱には本当に頭が下がりました。

 その裏には「平素ふと自分自身、内的にふりかえって自分自分に愛想がつき、まったくやる瀬なくなってしまうときがよくあります」「我々は神の前では全く単なる罪人でしかないことを忘れてはならない」とおっしゃるように、どこまでも老師ご自身が凡夫でしかないという謙虚で率直な認得があるのだと思います。だから無限に修行参究を続けるのみなのです。「やっただけがやっただけ、積み上げはきかない。今の息は今するしかないように。」ですから老師は権威がかったポーズとは無縁の「普段着の人」でした。どこまでも謙虚で真摯な一介の求道者でした。カリスマ性をぷんぷんさせて「俺こそできあがった正師だぞ」とふんぞりかえっているような人では決してありませんでした。(やはり有り難いご縁でお目にかかることができたヴェトナム人禅僧ティク・ナットハン師にも老師と同質のものを感じました)人間界に通用しているモノサシのからくりと空しさをよくご存じだったのです。人間が神棚・仏壇に祭り上げられるような宗教はどこかオカシイ(ごまかし・トリックがある)と思った方がいいのです。私にとって老師はどこまでも尊敬すべきその道の大先輩・大先達なのであって神格化・偶像化するべき人ではありません。もしそんなことをすればそれこそ老師を冒涜することになってしまいます。 どこまでも深い凡夫性への凝視とどこまでも高い坐禅(=仏法)の宗教性への追求。内山老師のなかではこの両方向へのベクトルが同じ強度で微妙な均衡を保っていたように思います。そして両者の間にみなぎる緊張関係の上にことばを紡ぎだしていったのです。実は一方がなければ他方もあり得ず、また一方の強度が強ければ強いほど他方の強度も強くなるのであり、両者は切り離せないものだと思います。 私は現在米国で、アメリカ人達と一緒に坐禅をしています。修行熱心な人が多いことはたしかです。ただよく見るとそこにはこの深さと高さという「垂直軸」方向への視線がまだまだ浅いように思うのです。キツイ言い方をすれば、人間界(「世間」「三界」)のなかでの背比べ・頑張りの域を出ていないような印象を持つのです。サトリという日本語は正しく理解されているかどうかは別にして、少なくとも仏教・禅に関心を持つ人達の間ではかなり衆知の言葉になっていますが、ボンプ(凡夫)という言葉とそれが指し示す内実についてはまだほとんど知られていません。ましてや自己の凡夫性への深い凝視といったことは全くといっていいほど修行者の話題になりません。私などには人間をあまりに楽天的に見すぎているのではないかとさえ思えるくらいです。指導者達も人間性の危うく暗い部分についてはあまり触れようとしないように見受けます。それは修行へのやる気をそこなうことを配慮してのことなのでしょうか。あるいは人間のもつポジティブな可能性に対して強い信頼をもつというアメリカ文化の一特徴からから来ているのでしょうか。しかしそれでは片手落ちだと思うのです。どうしても底が浅くならざるを得ません。

 また坐禅が瞑想法の一つと考えられている場合が多く、従って自己の能力向上・啓発の効果的方法という程度の次元でとらえられまた行じられています。どこまでも「私」が行ういろいろある修行法のなかの一つが坐禅なのです。坐禅そのものが仏法の全分であり、そのように行じられるべきものであるというような発想はなかなか受け入れられません。ですからいくら熱心といってもまだ坐禅への「はまり」が浅く、坐禅の高い宗教性が現成しないのです。坐禅につきものの肉体的・精神的苦痛に対する文化的(?)耐性の低さ(苦痛=良くないもの=避けるべきもの)は、それ以外の修行方法へ彼らを容易にスライドさせていきます。チベット仏教、南伝仏教、大乗仏教それぞれの各派が百貨店のように店を開いているこの国では、軽やかにそれらの店々をショッピングしてまわるのがあたりまえで、一つの行にそれほどまでに重点をおいてコミットすることは「こだわり」「狭量」としか映らないのです。またキリスト教・ユダヤ教といった西洋的宗教に対する失望感・嫌悪感が彼らの中には多かれ少なかれあり(一神教的宗教という意味での)「宗教」という観念にアレルギー反応を持っています。ですから「禅は宗教ではなく信仰を強要しないからいい」というような発言をよく聞きます。たしかにそういう面がないこともないのですが、それがいきすぎて禅のもつ宗教性に盲目にならなければいいがなと心配にもなるのです。その結果、社会の現状への批判、人間の有限性・限界の指摘といった本来の宗教がもつべき神や仏といった超越的な次元から人間や社会を批判的に見つめる力が忘れ去られることになるのです。私は、仏教がアメリカ社会の主流的価値観から都合のいいように解釈されて、現状の維持・正当化の道具として利用されているところがあるのではないかという感想をもっています。

 話が内山老師のことからだいぶずれてしまいましたが、こういう文化環境のなかで坐禅をしていると、内山老師が生涯をかけて追求し表現しようとしたことがますます有り難くまたこの上なく大切に思えてくるということを言いたいのです。「宗教としての高い坐禅とそれを中心に据えた深い宗教生活の展開」アメリカにおいてはそれはまだ緒についたばかりの段階だと思います。「生命の深さと坐禅の高さ」ということを老師は繰り返し語られましたが、今、アメリカの仏教に一番必要なのはこの一事だと思っています。そこへ眼を向けさせていただいた老師への感謝をもって、この拙い文を結びます。

合掌  


藤田一照(ふじた・いっしょう)●米国マサチューセッツ州・ヴァレー禅堂住持。東京大学教育学部卒。内山興正老師の孫弟子に当たる。「まず十年は安泰寺で黙って坐禅すること」という内山老師の御忠告を胸に、1982年、現在の安泰寺に入山。1987年よりヴァレー禅堂にて「独立した修行者のネットワーク」を目指す。


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