Why Kosho Uchiyama Roshi, now?

なぜ、今、内山興正か? −"内山興正歴"5年目の私見








text by HIRO


 ●何を求めて生きるのか?

 宮台真司は「終わりなき日常を生きろ」と言ったけれど、何が正しくて何が間違っているのか? 何を信じればいいのか? 自分って何? そういう「何」がよくわからない、アノミーさが日常化したこの時代を私たちはどう生きればいいのだろう? 「まったり」生きるのか? それとも「何」かを求めて生きるのか?

 インターネットも普及して、「何」かを見いだすための情報は玉石混合、たくさんあるし、それを指し示してくれる指導者や求道者もたくさんいると思う。その中で「内山興正」という言う人は、もっともイケる部類の人だ、と私は思う。

 内山興正老師は、昨年3月に満85歳で亡くなられたが、昭和16年に曹洞宗の沢木興道老師について出家得度して以来坐禅修行一筋、求道一筋の人生を歩まれたお坊さんである。こう言ってしまうと、そういうお坊さんは他にもいるだろう。
 また、師匠の沢木老師は、まさに禅僧らしい禅僧で人々から「最後の禅僧」とも言われていた。内山老師も著書の中で「なにより人柄に気合いがかかっていました。いうこと、することが洒脱でした。声も大きかった。面構えもいかつく立派だった」と評している(内山興正著『天地一杯の人生』より)。ところが一方弟子の内山老師ときたら、男前で(本人談(^^;)、いかにも「気合いのかからん男」だったそうだ(前掲書)。それで、内山老師は澤木老師に「私のような気合いのかかっていない男が、老師の跡を継いで人を引っ張っていけるでしょうか」と聞いたそうだ。その時澤木老師は、「宗門では坐禅こそがご本尊なのだ。坐禅だけしておればいい」と答えたそうだ。で、そんなカリスマ的でもない「気合いのかからない」、坐禅だけしてきた内山興正老師が、なぜ、今!なのか?ということなのだ。

 世紀末といわれる今……もう一昔前のように、物質的にも精神的にもリッチな生活、よりよい人生よりよい老後!といった夢(=アテ)は描けない。そんなこと言わんとちゃんと人生に「目標」を持ってやったほうが……と説教じみたことを言ったところで意味はない。始めから白けてしまうか、いーじゃん今が、私が楽ければさぁ……と思うのが関の山か……。でなければ、より抽象的なものにアテを作って、一生懸命追っかける。今という時代はそこまで深刻なアノミー状態だ。

 実は、内山興正老師は何十年も前から、目指せ三種の神器とか、所得倍増とか、マイホーム……といった目眩しのアテが、まだ生きる張り合いとして通用していた頃から、アテを描かない生き方をしよう! そういうことを言ってきたのだ。


 ●「自己」と「思い手放し」

 内山老師は、「自己」と言う。そして「思い手放し」と言う。
 内山老師の言う「自己」とは、「生命の実物」=「御いのち」=「不二いのち」だ。普通、自己とか自分と言うときは、大概「自分頭の中で考えた自分」を自己・自分と言っているけれど、内山老師のいう「自己」はそんなケチなものじゃない。自分の頭で思っても思わなくてもあるところの自分、天地いっぱいぶっつづき、これを「自己」と言っている。だから、「自己」=「生命の「実物」」であり、天地いっぱいぶっつづきの「いのち」であり、自分の思いで主客が二つに分けられる前のいのち=「不二いのち」なわけだ。

「思い手放し」とはどういうことか? (坐禅するとよくわかるのだが)自分の思い、あれやこれやと頭に思い浮かぶ思いは、単なる頭の分泌物。あーなんだか今日は憂鬱だなぁ……、今日は絶好調だぜー!と思う思いも頭の分泌物。それは「温度と湿度の関係だ」と内山老師は言う。で、それを「手放す」と、ぱっと覚める。坐禅の場合、「思い手放し」すると、目の前は事実壁だけ。事実としての生命そのものがあるだけ……。坐禅したら何とかなるんじゃないか……というようなアテなどない「ナントモナイ坐禅」と内山老師は言う。

 要するに思いを手放し手放しやって、「自己」=「生命の実物」=「御いのち」=「不二いのち」に覚め覚める、と内山老師は言うのだ。これは坐禅だけの話じゃない。生活の構えも同じ。つまり、「思いを手放し生命の実物に覚め覚める」ということは、「生きていくのにアテを作らず、目の前の今やるべきことをやる」という態度。非常に単純なことなのだ! 非常に簡単でナントモナイから、手ごたえもない。


 ●「なんともなさ」のリアリティー

 何ともなくて手ごたえもない。一見全然面白くなく、興味も沸かないかもしれない。でも、その「なんともなさ」「手ごたえの無さ」が、かえっていいんじゃないのだろうか? 「ナントモナイ」状態とは、「ノボセが下がった」状態だ。「正気の沙汰」だ。

 大体選択肢の多くは、未だに何かアテを作ってそれが充足できてナンボのモンというのが多い。そのアテが充足されてもそれはアタマが満足するのであって、妄想とどこが違うんだろう? 「ノボセが下がる」どころかどんどん「ノボセル」方向で、「正気の沙汰」とは行けば行くほどかけ離れる。じゃあ「まったり」生きることと同じじゃないの? という声が聞こえそうだが、「まったり」と内山老師のいうことは明らかに違う。まったり生きることは、アテを作らないんじゃなくて、逆にすべてをアテにすることだ。それでは理性的な状態のことを言っているのか……と言うと、これも違う。そんな人間根性の話ではない! では既存の仏教はどうか? たぶん仏教と称する多くのものも、内山老師が言っていることと同じようなことを言っているだろう。しかしその多くは、アリガタイ話だしイイ話だし、他人事みたいでリアリティーに欠ける。

 だが内山興正という人の言っていることは、事実どうなのかということ、「実物」「自己」ということに根差していて、アテを作らずとも、ネライ所はすこぶる明快! 空想や妄想等々頭の中だけのこととは違い、非常にリアリティーがある。身体感覚があると思う。だから、こんなアノミーな時代にこそ、価値あるものだと思うのだ。(澤木興道老師もズバッ!と表現されてるが、その語り口とはまた違い、内山老師自身は、明快だがギリギリまで言葉を尽くして説いてくれている。)

 以上は、HIROの私見である。えらそうに書いたが、私は内山老師の提唱を聞いたこともなければ、お目にかかったことすらない。内山興正歴5年目だから内山老師の言っていることの十分の一も理解できず、そのまた十分の一も説明できてないかもしれない。ただ、内山老師の言おうとしていることと、全く別の方向を向いているということは無いだろう……と不遜にも思っている。

 もし、この特集をみて、何かしらビビッ!と来るものがある人がいれば、どれでもいい、是非、迷わず内山興正老師の本を開いてみて欲しいと思うのだ。


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