I recomend this book!











一人一冊! おすすめの内山老師の著作


『人生料理の本』…いっぽうさんおすすめ!

(曹洞宗宗務庁 昭和45年5月第1刷)


 私が安泰寺の参禅会に初めて参加した時に,玄関横の机の上に置かれてありました。出版日から半年程の時点ですから,お寺で頒布されていたので早速買い求めたといういきさつがあります。
 この本は道元禅師の「典座教訓」を解説されたもので,その中で古今無比の最高の宗教書だと内山老師は書いておられます。
 食事そのもの料理の仕方も書いてありますが,同時にあらゆる物,あらゆる事柄,あらゆる人を料理する態度が書いてあり,もっと根本的には「自己自身の人生をいかに料理するか」を具体的に書いた料理の本であるということです。
 最高の宗教書を内山老師は根本的なことをきちんとおさえて,実に分かりやすく書いておられます。典座教訓は私が知っているだけで10冊くらいの本がありその中の数冊を所持しておりますが,何といっても老師の右に出る本はありません。
 中でも「出遭うところわが生命」の一節は,仏教の本質的ところが書かれてあり最も大事なところです。だから,この「出遭うところわが生命」という老師の言葉がとても気に入っていつでもどこでも耳鳴りさせるようにしてきました。つらい時も嬉しい時も「出遭うところわが生命」。 
 今も月に1回は読む愛読書です。
 ただ,残念なことに現在は出版されておりません。古書を手に入れるか,どこかで借りて読むしかありません。


『宿無し興味法句参』…山下良道さんおすすめ!

(柏樹社 昭和56年6月初版)


 沢木老師,内山老師の言葉として,その信奉者のかたがたの間で語られるのは大概 がこの本を出典としています。逆にいえばこの本を熟読すれば,沢木ー内山老師の 系譜の,基本的な常識が手に入ります。「ようユウレイというものがこの世にある ものですか,ないものですかなどと質問するやつがあるが,そんなことを考えてお る人間をユウレイというんじゃ。」誰もが一度は聞いたことのある沢木老師の有名 な言葉も,内山老師という聞き手があって後世にまで残ることになりました。読み 返すごとに新しい発見のあるこれらの言葉を,内山老師らしいコメントとともに, 是非味わってください。


『観音経 十句観音経を味わう』…藤田一照さんおすすめ!

(柏樹社 1986年7月初版)


 編集子から内山老師の著作からおすすめの一冊をという依頼がありました。実践面からいえばなんといっても『生命の実物』ですが,ここで書いたような宗教性に関しては『観音経 十句観音経を味わう』をおすすめします。
   「覚知せざれども受諸苦悩のゆえに一心称名す
    覚知せざれども皆得解脱のゆえに一心称名す
    覚知せざれども自在之業のゆえに一心称名す
    覚知せざれども一心称名のゆえに一心称名す」(観音経跋)
こういう宗教的な生きる態度に目覚めることがなによりも大事だと思いますので。


『』…TANSETZさんおすすめ!





『生命の実物-坐禅の実際』…KUWAKOさんおすすめ!

(柏樹社 1986年7月初版)



老師は生死の問題を徹底的に追求されたのだと思う。というか、仏教の根本テーマはそれなのだろう。
特に「老いと死」についての発言が顕著だ。
「生存本能を持っているにも関らず併し同時に何時か必ず死なねばならない絶対矛盾」
その絶対矛盾を「人間の正体」と喝破し、そこから「自己の拠り所は自己のみなり」と仏教の教えを導いていく。
それは老師自身の「老いの現場」からの生々しい貴重なルポでもある。
でも僕は正直言って「老い」の問題はそれほど実感としてない。まだ老いてないから。・・・若くもないけど。
「老いと死」の老師の教えが本当に身に沁みてわかるのは、自分が老いてからだと思う。
だから老後の楽しみにしておきたいなー。そんな気がしてる。
・・・長生きするぞー。
ということで、
僕は老師の「坐禅についての本」を選びたい。そうなるとやはり『生命の実物』だ。
なんといっても短い。読みやすい。わかりやすい。
文庫本にしてポケットに忍ばせておきたいぐらいだ。
思いを手放した坐禅。
ただ坐る。
それは物足りない。まったく途方に暮れる感じを持つかも知れない。
「坐禅においては、この小さな自分、くだらない凡夫が物足りず、途方にくれればこそ、そこに小さな自分の思いをこえた無量無辺の大自然的生命が働くのであり、くだらない凡夫の思いをこえた仏の力が働くのです」
坐禅とはもともと「物足りず」「途方に暮れるもの」だと説く老師。
なるほど。
「じゃとりあえず坐ってみようかなー」という気分になる。
でもしばらくすると再び、「こんなんでいいのかなー」と悩みだす。
この本を再び読む。「それでいいんだ!」という気持ちになり再び坐りはじめる。
でもまた「これでいいのか」と悩みだす。再び読む。坐る。悩む。読む。坐る。悩む。読む。坐る・・・
何回も繰り返し読まざるを得ない。
文庫本にしてポケットに忍ばせて置きたい所以だ。1回読んで本棚にのほほんと収まってはいけない本のような気がする。


『正法眼蔵 発無上心を味わう』…HIROさんおすすめ!

(柏樹社 1994年3月初版)


 信心とか信仰とか信じるとか言うけれど「信」ってどういうありようなのか?事実「信」を実践するとは,現成するとはどういうことなのか?ずっと分からなかった。信じるという行為に実感が持てなかった。そして読んだのがこの本−内山老師「正法眼蔵味読会」最後の提唱をまとめた『正法眼蔵 発無上心を味わう』。発無上心とは発菩提心・発心。発心は1回しておしまいじゃない。発心は「百千万発」する。目から鱗!である。この話によって,それまで一つに繋がらなかった,発心・畢竟帰・南無・信ということが,スッと繋がるとともに,やっと仏法というもが,単なる有り難いお話や平たい人生訓の話ではく,実に生き生きといした立体感をもって,或いは生々しい自分自身の生き様として受け止められるようになった…ちょっとだけだが。


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