Meditation in Myamma

ミャンマーでは、瞑想は日常の風景なのだ。

 このインタビューは、1996年に日本テーラワーダ協会の招きで来日されたミャンマーの瞑想指導者ウ・ジャナカ・セヤドーに、滞在中のホテルの部屋でお聞きしたものです。セヤドーはこの数日前の講習会でもお会いしたのですが、ほんとうに南方仏教の比丘の雰囲気を持った方。威厳があって、きびしい表情のなかにも、慈愛のこもった眼をされています。こちらの質問に、いつも最初は「イエース」と答えてくれるのが印象的でした。
 インタビューの内容はミャンマーでのヴィパッサナ瞑想の現状から入って、瞑想に入る前段階としての帰依と信の大切さ、マインドフルネスと智慧の関係など、なるほどと思う言葉が多くありました。インタビューをアレンジして下さった日本テーラワーダ協会の鈴木一生さんに感謝します。


500人の女の子が出家

BODHI PRESS(以下BP) 日本では一般の人が瞑想するということはあまりないんですが、ミャンマーではどうなのでしょう。
セヤドー イエス。ミャンマーでは、瞑想することは当然のように多くの人がやっております。10歳の子どもから、男女を問わず、瞑想を実践しております。
BP セヤドーのセンターにも、そういう子どもたちが来ますか。
セヤドー たいへんな数の子どもたちがやってきます。とくに夏休みには小学生から大学生までたくさん来ます。この前の4月から5月には500人の女の子が髪を剃って瞑想しました。男の子は200人くらいが出家しました。お経の勉強も含めて。彼ら彼女たちは仏教文化の試験を受けます。20段階の試験があるんです。お釈迦様がお生まれになり亡くなった日には成績のよかった子どもたちに卒業証書と賞品を出して励ましています。しかし今年は海外に出てしまったので、帰ってから7月11日に卒業式をおこないます。その日は満月の日で、お釈迦様がお悟りになって最初に説法をした日でもあります。


8歳から80歳までが瞑想を

BP 瞑想するかたはどんな階層にわたっているのですか。
セヤドー ありとあらゆる年齢層にわたっています。80歳の老人もいます。
BP 日本で瞑想をするというとどうしても時間のある大学生とか、女性が多かったりします。壮年の男性は忙しくて坐禅などもする時間がないのですが。
セヤドー ミャンマーでは、下は8歳から80歳まであらゆる年齢の人々が瞑想センターに来ます。10日くらいから3カ月くらいまで、期間は異なりますが。仕事を持っている男性でも10日間くらい、出家をして瞑想をします。3月4月5月は夏時間で、その期間に休暇をとって瞑想するのです。学校も休みなので、子どもたちも出家をして、両親たちと一緒に瞑想するということがあります。
BP いいですねえ。日本では瞑想することは特別なことと見られがちですが、ミャンマーではどうでしょう。彼らはなにか目的があってやっているんでしょうか。
セヤドー 特別なことはありません。瞑想することは、ふつうのことなんです。大人は自分の子や孫、甥や姪たちに、出家をして瞑想することをすすめます。


仏教を学ぶ環境

BP 日本ではお寺に生まれてお坊さんになります。でもミャンマーでは違いますよね。先生も、ご両親にすすめられて、瞑想を始められたのでしょうか。
セヤドー 周囲の非常に熱心なひとびとにすすめられて、比丘になったら面倒をみてあげましょうといわれて、出家しました。
BP 何歳くらいのことですか。
セヤドー 15歳のときです。20歳のときに戒律を受けて、比丘になったのです。
BP 比丘になられたときはどんなお気持ちでしたか。
セヤドー たいへんうれしかったです。得度を受けられたときは。自分としてはみんなに仏さまの教えや瞑想の仕方を教えることができると思ったから。
BP 15歳でお寺に入る前から、お坊さんになろうと思っていたのですか。
セヤドー 10歳の時から仏教の道に入ろうと思っていました。お経にとても興味があったからです。
BP 仏教を学びたいひとにとって、とてもいい環境だったんですね。結局のところ、これまで日本にはテーラワーダの教えは入ってくることがなかったのですが、そのことに関してはセヤドーはどのようにお考えでしょうか。
セヤドー 日本は豊かな国です。お坊さんたちは遊ぶことに夢中です。テーラワーダの教えでは、商業的な活動は一切できません。お金やモノに対する執着がありません。
 もしテーラワーダ仏教が日本に入って定着していれば、今の日本の仏教のあり方はなかったのではないかと思います。ありとあらゆるものは正されなければならないのですが、それをやっているひとが正そうという気持ちがあるかどうかです。鈴木さんのように一生懸命、仏教のあり方を正しい方向へ持っていこうと努力していくわけです。鈴木さんや学識のあるかたがたが努力すれば、遠からず日本の仏教もいい方向へ行くのではないでしょうか。
 でも、まず在家の方にテーラワーダ仏教を紹介するのがいいと思います。出家なさっている方が方向を変えるのは難しいですから。
 この前の一日の講習でたくさんの方がいらして瞑想をなさっているのを見て、こういう在家の方々に広めるというのが近道ではないかと思いました。一週間から十日くらいのリトリートを2回か3回くらいおやりになれば、だんだんヴィパッサナ瞑想やテーラワーダ仏教が理解されて広まっていくのではないでしょうか。
 アフリカのケニアでは仏教のことに関心のあるひとはいないだろうと思っていたのですが、チベット仏教の方々に招かれてリトリートをおこなったのですが、みなさん、非常に理解が深かった。30人以上の方々がヴィパッサナ瞑想をやりたいと意志を示されました。今年の4月に初めて紹介したのですが、来年も来て欲しいと招待されています。


帰依と信

BP 瞑想のことをお聞きしたいのですが、この前も瞑想の前に三帰依文を唱えました。やはり瞑想の前に、戒律を守る、仏陀に帰依するというのは絶対に必要なことなのでしょうか。
セヤドー イエス。私たちは「仏陀に礼拝します」と唱えることによって、これからの瞑想を深いものにすることができます。仏法僧への帰依をあらわすことによって、瞑想へ向かって努力する気持ちが励まされるのです。
BP 瞑想の初心者が一番気を付けるべきことはなんでしょう。
セヤドー イエス。最も大切なことはお釈迦様が教えてくださった瞑想の方法を固く信じることです。


風の要素

BP 呼吸の際にお腹の膨らみに意識を集中するというのはどういういい点があるのでしょうか。他の流派では、鼻の穴を意識するというとこともありますが。
セヤドー イエス。ほとんどの瞑想者はお腹が上がったり下がったりするのは呼吸法のひとつだと思うでしょうが、そうではありません。上がったり下がったりする動作を知覚する心が大事なのです。ただ息が出入りするのとは違います。
 たとえ話をしてみましょうか。部屋に何人かひとがいるとしましょう。外から2、3人が入ってくると奥にいるひとは窮屈になりますが、その2、3人が出ていけばまたもとに戻ります。結局、動くのはその2、3人だけです。それよりも、部屋にいる全員を意識することができたほうがいいでしょう。
 仏教では6つの風の要素があります。ひとつは呼吸の風、お腹にある風、上がってくる風、下へ行く風、腸の中を通る風、四肢を通る風。それぞれ違うわけです。
 お釈迦様が言った4つの要素がある。それに集中しなさいという。最初は土、肉体的な現象が固かったり柔らかかったりする性質。二番目は水の要素。流れたりする性質ですね。三番目は火の要素。身体の熱かったり冷たかったりする要素。四番目は風、動いたり震えたりする性質。これにしたがって瞑想するひとは風の要素でお腹の上がり下がりに集中するのです。物質の要素に集中するということで、呼吸の瞑想ではないんです。
 集中してお腹の上がり下がりを深く瞑想していますと、動きを観察することによっていろんなことが分かってきます。息の出入りだけに集中していると、気づきが少ないのです。
 ただこのお腹の上下は重要なものではありますが、唯一の瞑想の対象ではなくて、肉体的心理的な動きを観察することになります。


マインドフルネスは智恵の元

BP ヴィパッサナ瞑想によって、私達はなにを得るのでしょうか。
セヤドー 平和的に、しあわせに生きるということが第一です。もし精神的なわだかまりがあれば、平和に幸福に生活することができません。心がほんとうにきれいになったとき、人間は幸福に生活できるようになります。
 自分の肉体的心理的な動きを観察し見通すことによってのみ、幸福な状態を手に入れることができます。心が汚れていると負の原因になります。ほんとうに幸福になるためには心や肉体のほんらいのあり方を理解する必要があります。
 それを真に理解するためには刻一刻と自分の心や体にどういう変化が起こっているか、知る必要があります。それがゆえにいつでも自分の心や体にどんなことがおこるか、はっきりと気づいていなければいけません。そういう心や体の動きをちゃんと把握できるような集中力を発揮するのがヴィパッサナ瞑想です。
BP ヴィパッサナの状態、つねにマインドフルである状態こそが、仏陀の心の状態であったということですか。
セヤドー イエス。仏陀はつねに自分がなにをしているか、なにをしゃべっているか、なにを考えているかについてマインドフルでした。だからこそ、仏陀の言っていることに偽りはないんです。
BP そのとき仏陀ご本人は意識しているがゆえにそういう状態にいたのでしょうか。それともごく自然に、マインドフルだったのでしょうか。
セヤドー 仏陀が悟りを得られる前は努力してマインドフルであったのでしょうが、悟りを開かれてからは、ごく自然にマインドフルな状態だったのです。
BP 仏陀の知恵というのはイコール、マインドフルネスと言うことができますか?
セヤドー マインドフルネスというのは知恵そのものではなくて、知恵のもとなのです。マインドフルであることによっていろんな洞察する力が生み出されます。マインドフルネスは洞察の原因なわけです。マインドフルネスはサティです。知恵はパンニャーですね。
BP ということは、私たちもつねに心にサティを保っていれば、いつかは仏陀になれるという……。
セヤドー イエス。もし私たちが仏陀になりたいと願えば、なることができます。
BP すごく分かりやすいですねえ。


瞑想の13の階段

鈴木 無常・無我・苦を悟るということが一番大きな要因であるといわれていますが、どういうふうに心が変化してその三つを悟ることができるのでしょうか。
セヤドー 私たちが集中しているとき、自然にそういうことが分かるようになります。最初に座ったときの心と、しばらくしてからの心とは違うものです。変わっていくわけです。しかしながら、ひとつの心が起こって過ぎるとき、これは事実リアリティです。集中度が増してくると、こういうことがすべて把握できるようになります。
 私たちの心がある状態に集中しているときだけ、洞察力が生まれて、ものごとが絶えず変わっていくということが分かります。それが悟りにつながるのです。
鈴木 毎週、ヴィパッサナ瞑想をやっていると、苦しみというのが減っていくんです。でも悟るためには一切は苦しみだと知らないといけない。そこに矛盾を感じるんです。
セヤドー 瞑想をやっていると13の段階の洞察を通らなければいけません。瞑想をする者は3、4段階は苦を通っていかなければなりません。11番目の洞察を過ぎると、苦はなくなります。でもあるひとたちは、苦を通して悟りをひらいた方もおります。でもその場合の苦というのもきついものではなく、苦痛が出たり無くなったりすることに集中することによって悟るのです。
BP その13の段階というのは外側から見ていてもはっきりと分かるものでしょうか。
セヤドー マハシ・セヤドーの言葉によりますと、お釈迦様以外は他人のことはよくは分からないんだ、と言います。私の経験では毎日の対話のなかで、だいたいどのくらいまで瞑想がすすんでいるかは分かります。瞑想している本人は、分からないでしょうね。



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