How to meditate?

まずは、ヴィパッサナ瞑想のキホンを知ろう。

ウ・ジャナカ・セヤドーの瞑想会より(平成7年7月)


ヴィパッサナとは

 まず最初に、ヴィパッサナ瞑想の実際的な面についてお話しいたしましょう。その後、私の指示に従って、瞑想の実践に移っていただきます。
 ご存知のように、仏教の瞑想には2つのタイプがあります。ひとつはサマタ瞑想、もうひとつが今みなさんがおやりになるヴィパッサナ瞑想といわれるものです。
 サマタ瞑想のサマタとは、集中ということです。サマタ瞑想では、ディヤーナdhyanaと言われるような高い次元の意識の集中ということを学んでいきます。
 ヴィパッサナというのは洞察という意味です。心とからだの働きの3つの特色を見ていきます。ヴィパッサナというのは、自分の内側を見て、心とからだ、心と対象の関係を貫き通して、見通すということです。
 ヴィパッサナとは複合名詞です。viは無常・苦・無我という三つのことをあらわします。passanaとは正しく理解することです。このふたつの言葉がつながりますと、無常・苦・無我という言葉のほんとうの意味を理解すること、ということになります。


永遠に続くものはない

 ここで無常というのはどういうことかというと、心の中にいろんな事象がおこり、また消え去っていく、ということです。心の動きというのは瞬間的におこって、また瞬間的に消え去っていくものです。だから無常といいます。肉体的な感覚というものもおこってはすぐに消えていくものですから、これも無常です。
 わたしたちはふだんは無常というものを実感することはありません。この肉体的精神的な無常は考えたり哲学的に理論づけようとしてもできません。実践が必要なのです。そのためには実際にわたしたちの心や身体になにが起こるかということをしっかり把握し意識することから始まります。心や身体に起こる現象は、それが起こった瞬間に、全力を傾倒して認識することが大切です。
 心の状態はパーリ語でナーマnamaと言われます。肉体的なプロセスはルーパrupaと呼ばれます。ですからこの法話においてナーマおよびルーパという言葉が出てきましたら、精神的な状態、肉体的なプロセスを意味すると理解していただきたいと思います。
 心の状態は永遠なものではありません。それは起こると同時に消え去っていきます。肉体的なプロセスも永遠ではありません。それも起こると同時に消え去っていきます。それゆえに無常ということは、心と身体の三つのプロセスのひとつであると言うことができます。


苦しみという性質

 二番目の特徴はドゥッカ。苦しみです。これには3種類あります。ひとつめはドゥッカ・ドゥッカ、苦痛などいわゆる一般的な苦しみです。ふたつめはルプリマナ・ドゥッカ、変化ということから生じる苦です。幸福ということを考えてみてください。ひとは幸福な気持ちになっても、その幸福は長続きしません。幸福な気持ちが起こったと思ったら、苦しみに変わっています。ですからお釈迦様はルプリマナ・ドゥッカは変化によって生じる苦しみとおっしゃっています。三つ目はサンカラ・ドゥッカ、精神的肉体的な現象が起こっては消えることです。このように苦とは三つの苦を意味します。
 お釈迦様は無常なるものは苦であるとおっしゃいました。すべての現象は無常であり、あらわれては消えていくものです。それゆえに、苦です。


それは私ではない

 三番目の特徴は無我です。心の状態というのは自分ではなく、我ではなく、魂でもないということです。なぜならそれは無常だからです。身体的な現象も自分ではなく、我でもなく、人格を持ったものでもありません。それゆえにこれも無常であり、苦です。それゆえにお釈迦様は、こういう精神的肉体的なプロセスは魂でもなく、人格でもなく、ひとつの存在でもない、と言いました。
 これら三つの特徴を、パーリ語で覚えていただきたいと思います。無常はアニッチャー、苦はドゥッカ、無我はアナタです。これら三つは哲学的に定理をしようと思ってもできるものではありません。ヴィパッサナ瞑想を行って会得する、体験する以外に方法はございません。それゆえにヴィパッサナ瞑想は洞察の瞑想と呼ばれるのです。この心と身体の三つの特徴を体得した瞑想者はヴィパッサニアーナと呼ばれます。


ありのままに気づくこと

 心と身体への洞察を得るためには、瞑想する者は心と身体になにが起ころうと、それに気づいていなければなりません。ヴィパッサナ瞑想あるいは洞察の瞑想の目的は、これら三つの特徴をはっきりと認識し理解することです。言い換えますと、マインドフルネスの瞑想と言うこともできるのです。
 ヴィパッサナ瞑想でもっとも大事なことは、身体と心に起こってくることをありのままに気づく、認識するということ。別の言葉で言いますと、わたしたちの身体と心に起こってくることはどんなことでも、注意深く観察し監視することが必要です。心の状態でも身体のプロセスでも、起こってくる一番大切に思われるようなことがヴィパッサナ瞑想の対象になります。ですから実践するにあたっては、身体と心に起こるどんなことについても、マインドフルである必要があります。


身受心法のマインドフルネス

 お釈迦様の教えによりますと、4種類のマインドフルネスがあります。ここでいうマインドフルネスというのは気づいていることawareness、という意味です。注意力attentionともいいます。
 最初のマインドフルネスは身体的現象に関するものです。二番目は感覚に関するもの。感覚については3種類があります。まず第一が楽しい愉快な感覚、その反対に不快な感覚、三番目が愉快でも不愉快でもない中間的な感覚です。こういう3つの感覚が浮かんできた場合、それにマインドフルである、気づくことが大切です。これが感覚のマインドフルネスです。
 三番目は意識のマインドフルネスです。意識とは心、パーリ語でチッタと言います。どのような意識が起こっても、それにマインドフルである、気づいていることが必要です。特に、視覚的認識作用(consciousness of seeing)。目に見えるものを見るということは、それは視覚的な認識作用のはたらきです。目があり、目に見えるものがある場合、視覚的認識作用が生じます。ですからなにか目に見えるものを見ている場合、見ているんだということに気づいている必要があります。これが意識のマインドフルネスです。
 同様に、なにか物音を聞いた場合、聴覚的認識作用が生じます。ですからなにかの音を聞いた場合は、聞こえているということにマインドフルである必要があります。これもまた、意識のマインドフルネスです。
 このように、臭覚、味覚、触覚についても、あるがままに観察されねばなりません。これらはすべて意識のマインドフルネスということになります。4番目のマインドフルネスとはなにかというと、ダルマ(法=意識の対象)に関するマインドフルネスです。ダルマには意識の状態、身体的なプロセスも含まれます。


まずは呼吸を観察する

 全知全能のブッダはこのような4種類のマインドフルネスを教えてくれましたが、そのうちどれか特定のものを選んで観察する必要はありません。意識の状態であれ身体的なプロセスであれ、起こってくることの一番大きなものについてマインドフルであらねばなりません。
 初めての方が、起こってくるすべての意識の状態や身体的なプロセスを観察することはできません。慣れていませんから。それゆえ、初心者の方は、ヴィパッサナ瞑想の対象として、ひとつの対象をお教えしましょう。マハシ大僧正が私たちに教えてくださったのは、お腹がふくれたりへこんだりする(rising and falling)のを意識することから始める方法です。お腹がふくれたりへこんだりするのは風の要素です。風の要素とは、動きに関することです。
 息を吸うと、お腹は前に出ます。そのときに、「ふくらんでいるrising」と心に記して、意識してください。呼吸を吐き出すときはお腹がひっこみます。その際「へこんでいる(falling)」と心に記して、意識してください。このようにお腹のふくらみとへこみに意識を集中して、細かく正確に観察してください。これがヴィパッサナ瞑想の第一の対象になります。
 ただし、これだけが瞑想の唯一の対象ではありません。別の意識の状態や身体的なプロセスなどが生じてきたら、生徒はお腹の動きをいったん置いておいて、生じていることに意識を向けてください。


他の感覚が生じたら

 たとえばお腹の上下の動きを意識しているときに、身体のどこかが痛くなる。そういう場合は「痛み、痛み、痛み」というふうに心に記しながら痛みを観察してください。その痛み、あるいは不快な感覚が消えてしまったら、お腹の上下に戻ってもとどおりに観察してください。
 お腹の上下に集中しているときになにかの音が聞こえたら、「聞こえている、聞こえている、聞こえている」というふうに心に記して、またお腹の動きにもどってください。
 あるいは瞑想の途中にしびれがきたり、痛くなったり、かゆくなったりします。そのときはそういった感覚を観察して、それらが消えてしまったらお腹の動きにもどります。
 呼吸に集中しているあいだに、いろんな考えが浮かんでくることがあります。その場合は意識を無理に呼吸に戻してはいけません。いろいろなことを考えている心を観察して、「考えている、考えている」というふうに心のなかで記して、考えが消えるのを待ちます。
 このように感覚や心の状態や身体的プロセスを切り替えていくのは、これらの現象の三つの特徴をはっきりと認識するためです。
 心に浮かぶ考えというものは、永遠に続かないものです(無常)。それは浮かんで、ほとんど同時にすぐに消えていきます。それは無常であるがゆえに苦るしみです(苦)。ですからこれらの思考は永遠に続く存在、我ではないということです(無我)。思考に関するこれら三つの特徴、つまり無常、無我、苦というあり方をはっきりと認識するために、心に浮かぶ考えをありのままに見る必要があります。坐禅によって、あるていどまでこうしたことを会得することができると思います。


歩く瞑想

 それではウオーキング・メディテーション、歩く瞑想について話しましょう。歩いているあいだは、足の動きの最も特徴的なことについてマインドフルでいなければなりません。
 歩いているあいだは、まず左足が出て、右足がでます。そのき、「左足」「右足」というふうにあるがままを意識してください。左、右ということが観察することができるようでしたら、瞑想の対象を増やしましょう。まず足をあげるときに「あげているlifting」と意識しましょう。足を降ろすときは「降ろしているdropping」と意識してください。「あげている、降ろしている」というふうに。
 足の上げ降ろしの動作に意識を集中できるようになったら、瞑想の対象を広げましょう。歩く場合には、まず最初に足を上げ、それを前に出し、降ろします。まず足を上げるときに、「上げている」と心の中で記しながら、足を上げる動作を観察します。続いて「前へ出すpushing」「降ろす」という動作をひとつひとつ心に記していきます。このように一歩踏み出すということは、三つの場面に分けてはっきりと観察してください。
 心の中でラベルを貼るということはそれほど重要ではないのですが、それによって対象にとても正確に集中することができます。だから心の中でラベルを貼るということをするわけです。


できるだけゆっくりと

 もちろん一番大切なのは、この瞬間、自分の心や身体になにが起こっているのかを知っていることです。歩いているあいだは、きょろきょろ見回してはいけません。動作はゆっくりとしてください。ふつうの早さで歩くと、上げたり降ろしたりするひとつひとつの動作を観察することができません。
 できるだけゆっくりと、歩幅は自分の足の大きさくらい。それ以上大きくしないでください。自分の足の大きさより大きくしますと、足の動きを認識することができなくなります。足を上げ、前へ出し、降ろすという動作は、風の要素になります。風の要素の本質を理解するためには、足のひとつひとつの動きについてマインドフルにならなくてはなりません。
 歩いていてまわりを見回したいという欲求が起こった場合は、「見回したい、見回したい」というふうに、そういう気持ちが起こったことを認識してください。そういう気持ちが消えてしまえば、見回したいとは思わないでしょう。歩いているあいだにまわりを見ると、集中力が崩れてしまいます。
 立って瞑想する場合は、きょろきょろしないぞ、という確固たる信念が必要になります。そのような信念を持って、足を上げる動作、前へ出す、降ろすという動作を心に記してください。
 このように、一本の線の上を行ったり来たりします。部屋の端から端まで歩くわけですが、部屋の端まで行った場合、急いで振り返らずに、一度立ち止まり、自分が立っている姿を観察して10回ノートしてください。
立っている姿勢を認識したのち、身体を回そうという意識がはたらきます。そこで「回そう、回そう」とノートしてください。
 そのような意向を意識したのちに、ゆっくりとゆっくりと身体を回してください。そのひとつひとつの動作も、はっきりと把握します。
 身体が今来た方向へ向いたら、まっすぐに立って、立っている姿勢を10回くらいノートしてください。
 自分が立っていることを認識したのちに、それまでと同じように「上げている、出している、降ろしている」とノートしていただきます。
 このようにウオーキング・メディテーションを1時間ほどやっていただきます。今日は半日しかありませんので、30分くらいしていただきます。


歩く瞑想は集中力を高める

 歩く瞑想と坐る瞑想は交互にやらなければなりません。坐る瞑想の前には、必ず歩く瞑想をします。
 なぜなら歩く瞑想において足の動きに注意深くなることによって、集中力を高めることができるからです。歩く瞑想において得た集中力を、坐る瞑想のために姿勢をとるまで持続しなければなりません。決められた席まで歩いくまで、足を上げ降ろす動きに注意していてください。
 坐る位置に立ったとき、まず「立っている、立っている」と立っている姿勢をノートします。そののちに、坐ろうとする意図を持ちながら、「坐ろう、坐ろう」とノートします。さらに、腰を降ろす動作を「坐る、坐る」とノートし、身体が床に触れる感覚を「触れている、触れている」とノートします。身体が落ちついたら、お腹の上下の動きを観察しはじめます。
 坐る瞑想のときは、楽な姿勢で坐ってください。
 ビルマでは、足は組まずに、すねを平行にします。足を組んで坐ると、血行が悪くなります。すぐに足が痛くなって、集中ができにくくなります。ですから足を組むのはあまりよくありません。坐ってみて楽な、リラックスできる姿勢なら、それが一番いいのではないでしょうか。
 気をつけていただきたいのは、背中はまっすぐに伸ばしていただくということ。背中が丸まっていると、お腹の上下の動きが分かりにくくなります。坐る場合は、帯やベルトはゆるめて、お腹が自由に動くようにしておいてください。頭と首はまっすぐに伸ばしてください。


目は軽く閉じる

 目はつぶってください。意識をお腹の動きに集中してください。両手は、掌を上に向け、重ねて、足の上に置いてください。
 そして、お腹が上下する動きに集中します。
 目は軽く閉じてください。あまりきつく閉じない。
 このようにして、お腹が上下する動きを「ふくれている、へこんでいる」とノートしていきます。お腹の上下の動きがよく感じとれない場合は、両手をお腹の上に置きます。手によって、上下の動きが分かるはずです。
 お腹の上下の動きに集中しているときに、みなさんの心がさまよい出してしまったら、心を追いかけて、それを観察してください。ノートしてください。それについて、マインドフルになってください。それに気づいていてください。「さまよっている、さまよっている」「考えている、考えている」「想像している、想像している」という具合に。
 そうすると心の動きも消えますから、第一の観察対象であるお腹の動きに戻って、ノートしていきます。このように歩く瞑想と坐る瞑想とは交互にやらなければなりません。


日常的な動作への瞑想

 瞑想とは、歩いたり坐ったりすることだけではありません。日常的な行動、一般的な行動に関する気づきも瞑想の練習になります。
 たとえばみなさんが腕を伸ばす場合、伸ばす動作そのものをゆっくりと行いながら「伸ばしている、伸ばしている」というふうにノートしていきます。腕を曲げるときは、ゆっくりと曲げながら、「曲げている、曲げている」と観察していきます。
 このように、坐っているとき、椅子から立ち上がるとき、手を降ろすとき、歩いているとき、顔を洗っているとき、手を洗っているとき、風呂に入っているとき、食事をしているとき、これらの動作を行うときには、あるがままにノートしていきます。
 このように日常的な動作に気づいていくことは、洞察を得るために、集中を高めるために、たいへんたいへん重要なことです。あらゆる心や身体的な状態を観察していきます。その目的は、そのような心身の状態の本質をさとることです。
 みなさんも、この瞑想というものがだいたい分かっていただけたのではないでしょうか。瞑想には三つあります。歩く瞑想、坐る瞑想、日常生活における動作に気づいていること。
 まず15分ほど歩いていただきます。そのあと、坐る瞑想にうつります。
 では自分の動作をひとつひとつはっきりと意識しながら、行動をはじめてください。


質疑応答


サマタとヴィパッサナ

質問 瞑想にはサマタとヴィパッサナと2種類あるというお話ですが、その違いはなんでしょう。また、サマタの瞑想には限界がある、最高のフリーダムには到達できないとお聞きしたのですが、それははどういうことでしょうか。

セヤドー イエス。サマタ瞑想とヴィパッサナ瞑想とのあいだにはいくつかの違いがあります。サマタ瞑想の目的は集中力を高めること。それだけです。無常・苦・無我という存在の三つの特徴をさとるためではありません。サマタ瞑想において瞑想の対象に意識を集中すると、心の迷いというものがなくなっていきます。静かな、透明な境地に入って、楽しむことができます。それがサマタ瞑想の結果です。
 サマタ瞑想によっては、さとり、涅槃を得ることはできません。瞑想する者が、心と身体に関してアニッチャー・ドゥッカ・アナタ、つまり無常・苦・無我の性質をはっきりと認識したとき、はじめて彼はすべての煩悩をぬぐいさり、さとりと涅槃に達することができるのです。
 ヴィパッサナ瞑想の目的は、マインドフルネスの瞑想を駆使して心と身体のすべての汚れをとりのぞくことによって、涅槃を得ることです。ヴィパッサナ瞑想によってすべての心の不純物をとりのぞき、心と身体の無常・苦・無我の性質をはっきりと把握し、涅槃に達することができます。
 サマタ瞑想の対象になるのはただひとつです。ヴィパッサナ瞑想では、心と身体のさまざまに異なる状況が瞑想の対象となります。
 サマタ瞑想においては、瞑想の対象に集中しているあいだにだけ、平安な、透明で、静けさを手に入れることができます。瞑想を止めると、集中力がとぎれ、心の中に不純なものが入ってきます。平安のしあわせを楽しむことはできません。
 一方、ヴィパッサナ瞑想の場合は、瞑想中に得られた洞察というものは、瞑想から出たあとでも思い出すことができます。サマタとヴィパッサナの違いを簡単に説明してみました。


眠気に対処する

質問 目を閉じていると眠くなってしまいます。睡魔を退ける方法はありますか。

セヤドー 4つのマインドフルネスというものがあります。一番目は身体的現象に対するマインドフルネス。あなたの身体にどのようなことが起きようとも、あるがままに、意識していなければなりません。そうすれば、その身体的現象のほんとうの意味を理解することができます。二番目は感覚のマインドフルネスです。どのような感覚が生じても、それに気づいていることによって、その本質を見極めることができます。三番目は意識のマインドフルネス。どのような意識が生まれても、それをあるがままに気づいていることによって、その本質を見極めることができます。四番目は法(意識の対象)のマインドフルネスです。法は心身のあらゆる側面をふくみます。
 心の側面のひとつに、瞑想をするうえでの5種類の障害があります。こういう障害が起こってきたときには、それぞれをありのままに意識することが必要です。
 障害の最初のものは本能的な欲望です。本能的な欲望が生まれた場合、観察しなければなりません。そうすれば、その本質を見極めることができます。二番目の障害は怒り、憎しみ、腹立ちです。怒りの心が起こった場合、それに対してマインドフルにならなければなりません。そうすれば怒りの本質にあるものを見極めることができます。三番目は怠惰、眠気というものです。教えによれば、この眠気が生じた場合、それが消えるまで眠気をノートする必要があります。
 しっかりと集中して、力強く、正確にノートしていれば、眠気は消えてしまいます。しっかりと力強く、少し急いでノートすることです。「ね・む・い、ね・む・い」というふうに、ゆっくりと力無くノートしていたら眠気に負けて、眠ってしまいます。
 このように眠気というものはしっかりと力強くノートして克服すべき、5種類の障害のひとつです。
 四番目は落ちつかない状態です。心があちこちと揺れていろんな考えが生まれてくるようなときは、「考えている、考えている」「落ちつかない、落ちつかない」というふうに観察してください。その状態が消えてなくなるまで。さまよえる心が消えてしまえば、思考というものが永遠ではない、無常であるということがさとることができます。
 五番目の障害は仏教の三つの宝(仏・法・僧)に対する疑いです。ブッダ、ブッダの教え、修行者の共同体に対する疑いが生じた場合、それが消えてしまうまでしっかりと、力強く心の中にノートしなければなりません。
 このような障害はダルマ(意識の対象)のなかにふくまれています。意識の対象に関するマインドフルネスとして。ですから眠くなった場合にも心配しないでください。ブッダは眠気に対してマインドフルになることによって眠気に打ち勝ち、その本質を見極める方法を教えてくださっています。
 目を半分だけ閉じる、半眼という方法もありますが、もし目を開いていますといろんなものが見えてきます。それでは瞑想の対象に集中できません。
 ブッダの時代に、最も尊敬すべきお弟子さんのひとりであるモッガラーナという方が、ヴィパッサナ瞑想を修しているときに眠気におそわれたそうです。そのときブッダはモッガラーナのところへ行き、眠気を払う7つの方法を教えてくださいました。
 もしも眠くてどうしようもない、しっかりと意識しても眠気に打ち勝てないというときはミャンマーの私の僧院に来てください。その7つの方法をお教えします。



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