ぶらっと杉並文学散歩




 阿佐ヶ谷文士村

 大正末から昭和にわたって、区内の荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺の中央線沿線にかけては多くの作家や文学

者などが移り住んでいました。そして阿佐ヶ谷会という将棋や酒宴の会を結成し、そのメンバーには井伏

鱒二、横光利一、太宰治、三好達治、上林暁、亀井勝一郎、等をはじめとして、多くの文士が阿佐ヶ谷周

辺に集って来ました。

 阿佐ヶ谷から天沼へ

 そこで、常日頃から彼らの歓談の場となっていた阿佐ヶ谷から、作家太宰治が誕生した(本名津島修治

からペンネーム太宰治を名乗ったのはこの時代)天沼周辺を巡ってみたいと思います。まず、阿佐ヶ谷会

の会場となっていた「支那料理店ピノチオ」があったのは阿佐ヶ谷駅北口で現在のパサージュビルの辺り

でした。ビルの中の通路を抜けて、旧中杉通りの狭い商店街を北上し、しばらくしてから天沼方面に左折

すると横光利一が住んでいた阿佐ヶ谷北3−5に出ます。その先に上林暁の住まい、さらに歩くと三好達

治の居た天沼2丁目の天沼出張所付近に出ます。三好達治はこのあと東田町(現在の成田東)にあった淀

野隆三の家に居候をし、彼の結婚式もこの淀野家で行われました。話を戻し、天沼2丁目からさらに西に

行くと井伏鱒二邸のある清水一丁目ですが、南西に向かって荻窪教会通りを歩いてみます。

 天沼周辺の太宰治ゆかりの地

 狭いけれど活気があって下町の匂いのする教会通り商店街の路地裏に(天沼3−2の辺り)太宰は一時

下宿をしていました。太宰は生涯の師である井伏鱒二を慕って天沼周辺にくらして居たのですが、付近で

5回も住居を変えていました。なかでもこの教会通り裏の下宿の様子は壇一雄の「小説太宰治」にも登場

し、壇一雄自身もよく訪れていたようです。他にも荻窪税務署裏の下宿屋や本天沼二丁目の天沼稲荷付近

の借家、上荻二丁目の光明院裏の下宿など太宰治ゆかりの地が多くあります。


 杉並に暮らした文豪

 大正の終わり頃からは、他にも川端康成、石川達三、梶井基次郎、小林多喜二、中原中也、北原白秋な

ど多士済々の文士達が区内に暮らしていました。若き日の川端康成は馬橋(現在の阿佐ヶ谷南、高円寺南

付近)に下宿していたのですが、偶然にも大宅壮一もすぐ隣に住んでいて、醤油を切らしたとか何かにつ

けて行き来していたそうです。近くには石川達三も下宿し、文士の会合とかには出て来るのですが、歓談

などには参加せず「そんな暇があったら仕事をする。」と言いさっさと帰って行ったそうです。また淀野

隆三と共に三好達治の面倒を見ていた松ノ木の中谷孝雄宅には梶井基次郎も一時期居候をしていたそうで

す。さらに中原中也は高円寺に下宿していて、小林秀雄や永井龍男が遊びに来ると、永井の兄が経営して

いたピノチオまでよくソバを食べに行き、むろん代金などは払わなかったそうです。川端はある程度売れ

ていましたが、三好にしろ石川も梶井も中原も貧乏な文学青年時代の一時期を杉並で過ごしたのち、文豪

への道を歩んでいきました。

 明暗を分けたのがプロレタリア文学の旗手小林多喜二で、馬橋の家は生涯最後の地となりました。実際

は左翼弾圧の拷問により警察の留置所で死んだそうですが、葬儀はこの馬橋の家で営まれ、それも参列者

十数人に警戒の警官は50人という言論弾圧の暗黒時代でした。

 杉並を生涯の地に定めた文人としては与謝野鉄幹・晶子夫妻が有名です。それまでは借家住まいを繰り

返していた夫妻ですが、初めて荻窪(現南荻窪四)に自宅を構えました。晶子は思いを込めて「采花荘・

遥青書屋」と名付け、鉄幹が亡くなった後も終生を荻窪の自宅で過ごし昭和17年、この家で64年(享

年65才)の生涯を閉じました。

 一方戦後になって、やはり転居を繰り返していた北原白秋は、晩年の安住の地に阿佐ヶ谷を選び移り住

みました。また堀辰雄は成宗(現成田東)に自宅を建てて暮らしていたのですが、戦時中の疎開で軽井沢

に転居しました。しかし昭和28年に辰雄が亡くなると、家族は元の自宅に戻って暮らしたので、本宅は

あくまで杉並の家だったようです。


参考文献  村上 譲 「阿佐ヶ谷文士村」 春陽堂書店

  同   平子恭子 「与謝野晶子」  河出書房新社


 近年の作家達

 近年の作家ゆかりの地としては、推理小説の大家松本清張が昭和36年高井戸に自宅を新築し転居して

きました。彼はこれを機に精力的に執筆活動に打ち込んだようで、その頃に代表作の「砂の器」や「影の

車」などが発表されています。チャタレー裁判で知られる伊藤整は、若い頃に松ノ木や和田に下宿してい

て、一時日野に転居したのですが、最後に久我山に居を構えました。また阿佐ヶ谷に実家の民芸店がある

ねじめ正一の「高円寺純情商店街」が記憶に新しいところです。さらにその近所に実家の洋品店がある女

優熊谷真美のお母さんを題材にした小説「熊谷突撃商店街」も書かれています。


 杉並に眠る文人達

 区内永福の甲州街道沿いにある本願寺別院和田堀廟所内には女流作家の樋口一葉や海音寺潮五郎、九条

武子(歌人)、中村汀女(俳人)などが眠っています。また元首相の佐藤栄作の墓もあり、その不似合い

なほど巨大な墓石が他を威圧するようで、樋口一葉の簡素な墓石と比べ生前の生き様がそのまま現われて

いるという感じでした。


 女流文学の聖地

 既に紹介したように永福町には樋口一葉が眠り、荻窪は与謝野晶子の終焉の地になるなど、女流文学と

は特に縁が深いのですが、無名時代の林芙美子も妙法寺の北側にしばらく借家住まいをしていて、この地

で出世作の「放浪記」を書き上げたそうです。戦後になると有吉佐和子が一家で堀の内に移り住み、代表

作の「恍惚の人」も杉並を舞台に書かれました。彼女は学生のときから亡くなるまでに同じ堀の内で三度

転居したのですが、執筆に疲れると近くの妙法寺の境内を散策していたそうで、文学碑が祖師堂裏に建っ

ています。いわば杉並は有吉佐和子や林芙美子の飛躍の地となったわけです。さらに平林たい子は戦前の

一時期高円寺に下宿し、近年作品の映画化が続く宮尾登美子も杉並にゆかりの作家です。


参考文献  丸川 賀世子 「有吉佐和子と私」 文芸春秋



 区内の文学碑

 以上のように文学と大変縁の深い杉並区には多くの文学碑が建っているので、それらを別表にまとめま

した。碑文の中には大変達筆な字で書かれていて私には読みとれない物もあったので、いつもながら勉強

不足を痛感したのですが、巡るときにはこの一覧表を印刷して持歩くと良いかも知れません。

 特に印象深いのは東田町に(現在の成田東)に暮らした文学者金田一京助の歌碑で、碑文は25才の若

さで玉川上水に入水自殺した氏の令嬢を偲んで詠んだ歌です。そういえば太宰治も玉川上水に身を投げま

した。遺体は明星学園通りの新橋近くで上がりましたが、彼の履いていた下駄の片方は、この碑のある旧

久我山水衛所まで流れ着いたそうです。


 詩人の街

 旅に生きた詩人(歌人・随筆家)の若山牧水は大正5年の秋に堀之内の妙法寺を訪れ、門前の料理旅館

に宿泊しました。そのときの様子は牧水の紀行随筆「お祖師様詣り」に書かれています。しかし妙法寺の

門前は、かつての雰囲気も僅かには残っていると思うのですが、時代と共に姿を変えていき、牧水の宿泊

した旅館も今は無いようです。(おそらくサミットストアーの辺りではないでしょうか?)

 さて、ここまでに名前の挙がった詩人に北原白秋、中原中也、三好達治、現代詩人のねじめ正一らがい

ます。そしてこの若山牧水と、日本の著名な詩人の大半が登場していて、杉並の街はなぜか詩人を引きつ

ける街のようです。





 思うこと

 このページを書くために文士ゆかりの地を巡ってみたのですが、これだけのビックネーム揃いなのに、

ゆかりの地を示す標識などは一つもありませんでした。その場に立てることは諸般の事情で困難だとして

も、付近の寺社や公園内にでも立てればと思うものです。一方、城跡巡りで大田区の馬込文士村付近を歩

いたことがあるのですが、あちらは地域のいたる場所に標識や案内板などが立っていました。





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