南 部 の 赤 門

練馬区田柄、相原家薬医門   



  光が丘団地東側の静かな住宅地の中に、南部の赤門と呼ばれる茅葺の立派な薬医門が建って

 います。この地の豪農であった相原家の門で区の文化財にも指定されています。相原家はこの

 付近に抱え地(注1)を持っていた盛岡藩南部家と関わりのある旧家で、この門の修理した時

 に発見された棟札に、相原家当主の名と共に盛岡藩役人の名が記されていたそうです。藩に関

 連した屋敷でなければ盛岡藩が門の建築に関わる筈がないので、相原家が単に抱え地の耕作を

 していたというだけではなく、おそらく相原家が盛岡藩抱え地の管理を任されていて、この屋

 敷も盛岡藩士が田柄に来訪した折の詰め所(注2)になっていたのではないかと思われます。


    相原家薬医門


 都内では大変珍しい茅葺の

門で、鉄柵があって近くには

寄れませんが、防火の為には

良い事だと思います。練馬区

の文化財にも指定されていて

以前は説明板が立っていたよ

うですが、現在は何の表示も

説明板もありません。


注1・・・諸藩の江戸藩邸等で、幕府から拝領した屋敷の他に藩が自身で購入した屋敷を抱え屋敷

 と呼びます。同様に藩が購入した土地が抱え地で、江戸近郊の場合は主に江戸藩邸で使う薪炭や

 野菜などを供給する為の土地で、特に大藩の場合は江戸詰藩士の数も多いので、それなりの広い

 土地を確保していたようです。盛岡藩の抱え地は現在の旭町一丁目付近にあったのですが、幕府

 から拝領した知行地ではないので年貢を納める義務があり、名主以外の者が(村役の中でも名主

 は年貢の管理をする立場で、相原家は格下の組頭だった)抱え地の管理に当たったのも、そのよ

 うな事情だったからではないでしょうか。


注2・・・薬医門というのは大変格式の高い門で、格の高い寺院や武家屋敷以外では建てる事が許

 されませんでした。相原家に薬医門が建っているという事は、この屋敷が武家屋敷の格式を持っ

 ていたわけで、盛岡藩士が定期的に来訪していたのではないかと思われます。さらに鷹狩などで

 藩主が遊山に出かけた折の休息所としての役割もあったのかも知れません。

  なお今は赤い門ですが当初は柿渋が塗られていたそうで、門を赤く(朱)塗る事が許されるの

 は加賀藩御朱殿門のように特別の門だけでした。しかし明治以降は身分制度が廃止され制約が無

 くなったので、各地の豪農が競って長屋門を建てたりしたのですが、相原家の場合も赤門にした

 のは明治になってからと思います。