中野長者屋敷跡

中野区本町、成願寺境内 




 青梅街道と山手通りの中野坂上交差点の南にある成願寺の境内は、同寺の由緒により(注1)

室町初期に中野長者と呼ばれた土豪の屋敷跡とされています。今は付近に高層ビルも建つ市街地

となっていて、城館跡を覗わせるような遺構等は残されていませんが、地形的には神田川が南か

ら東に蛇行して流れ、北は支流の桃園川の谷に挟まれた東西に伸びる尾根状台地の南斜面に位置

しています。尾根の先端にも近い場所なので一応は城としての地の利もあるのですが、土豪が戦

に備える城としては丘の規模が広すぎるようです。そこで視点を変えて商業立地の面から考えて

みると、この地に城館が築かれた理由(注2)が見えてくるように思われます。



    成願寺山門


 中野坂上から山手通りを南

に下ると、右手に中国風の目

立つ山門が建っています。








    成願寺境内


 本来の寺域はもっと広かっ

たのでしょうが、道路の拡張

やらで大分削られてしまった

ようです。屋敷の範囲は尾根

頂部の青梅街道沿いから神田

川のほとりまで占めていたの

ではないかと思います。






    長者伝説絵図


 境内の一角に描かれている

のですが「長者が悪行を働い

たので、その酬いで娘が蛇に

なってしまった」などという

お伽話が入り混じっているの

で、今までは単なる伝説と思

われていました。






     神 田 川


 長者屋敷の麓を南から東へ

蛇行しながら流れています。

上流域の杉並付近は、かつて

は海田郷といわれていたほど

水の豊富な地域だったので、

神田川にもその豊かな水が流

れていたのでしょう。


注1・・変遷の激しい都内では、存在を裏付けるような文献も遺構もなく、ただ伝説の中だけの

    城址というのも少なくないのですが、この中野長者屋敷も今までは成願寺の由緒に登場す

    るだけの伝説の城でした。その由緒に拠れば「この地は鈴木九郎という長者の屋敷地だっ

    たが、娘の小笹が若くして亡くなったのを悲しみ、屋敷内に寺を建てて娘の菩提を弔った

    のが成願寺の始まり」というものでした。しかし近年の意外な調査結果から、この成願寺

    の由緒がある程度信用するに足るという事が分かってきました。

     それは、成願寺開山和尚像の解体修理をしたところ像内より人骨が発見され、その骨を

    東京大学人類学教室の教授らが調査したところ、骨は火葬骨で二個体に分けられ、一体は

    老年男子、もう一体は若年女子、また頭骨の特徴から何れも室町時代初期頃の人骨との事

    でした。開山像に納められていたので成願寺創建時に功績のあった人物という事と、推定

    年齢及び年代から鈴木九郎とその娘小笹に間違いなく、また室町初期に火葬にされるよう

    な人物となれば、ある程度の地位の有る土豪クラスの人物という事が推測されます。

注2・・伝説の人物から実在の人物となった鈴木九郎は、どうしてこの地に屋敷を構えるように

    なったのでしょう。九郎は応永(1394-1427)の頃に熊野からこの地に来ると馬喰から身

    を起こし一代で財を成して中野長者と呼ばれるようになったと伝えられています。現在も

    背後の尾根部分に青梅街道が通っているように、中野は多摩地域と江戸湊や橋場(浅草)

    湊などをつなぐ中継の宿駅として古くから開けていたようで、馬喰をしていたというから

    には、この地に荷駄を扱う問屋場が設けられていて、やがて九郎がそれらを支配するよう

    になったと思われます。また彼が急速に勢力を伸ばしたのは、熊野出身ということで水運

    の技術を持っていたからではないでしょうか。かつての神田川は水量豊富で、江戸湊から

    の荷舟も成願寺の辺りまで遡って来て、それらの水運と陸運の双方を支配する事により大

    きな富を得て、また周囲の状況が不穏化するにつれて土豪へと変身していったと考える事

    も出来るでしょう。川の対岸には九郎が創建したとされる十二所熊野神社がありますが、

    神田川水系のさらに上流には、堀之内熊野神社、和泉熊野神社、尾崎熊野神社(成田西)

    などがあって、熊野出身の古人がこの川沿いを船で往来していた事を想像させます。



    アクセスガイド


  中野長者屋敷跡・・・地下鉄丸の内線 中野坂上駅より南に徒歩約400m(成願寺)






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