道 潅 山 城 址

荒川区西日暮里四丁目、北区田端一丁目付近 




 道潅山は西日暮里駅の西に見上げる高台の地で、江戸時代から眺望の地として知られていまし

た。江戸の町を開いた大田道潅の人気による為なのか、都内で道潅の城跡と伝わる地は多いので

すが、この城址は本来、関道閑の屋敷跡と伝わっています。関道閑は古くからこの地に勢力を張

り、秩父から江戸の地に進出してきた名族の平(江戸)重継に娘を嫁がせたほどの豪族でした。

また現在でも東西を切り立った崖に挟まれた尾根状の丘になっていて、300年近く時代が下り

ますが、南隣の丘(注1)に江戸城の大田道潅が出城を構えたというのも、なるほどと思わせる

地形です。


道 潅 山


 現在は開成学園のグランドや

閑静な住宅地になっています。

江戸時代に道潅山と呼ばれてい

たのは西日暮里四丁目の辺りで

すが、城址として地形を見ると

北隣の田端一丁目付近も含まれ

るように思います。






東側の崖


 東側は急峻な崖で、今でも遠

く筑波山まで見渡せます。崖の

下は現在線路になっていますが

かつては石神井側から分流して

山谷堀へと続く新堀(音無川)

が流れていて、近隣地域からの

船も道潅山のすぐ下まで入って

来たそうです。






 道潅山南の切り通し


 下を通る道路は道潅山通りで

江戸時代に画かれた江戸名所図

絵の道潅山の図では、向かいの

丘の上に船繋の松が描かれ、手

前の切り通しの辺りは一段低く

なっています。この道路が出来

る以前から堀切の跡らしき地形

があったようです。


注1・・・上の写真の丘で、江戸時代以降この丘は諏訪台と呼ばれています。これは太田道灌が

     この丘に砦を築いた時に、その地にあった諏訪神社を城内鎮護の神として崇敬し、その

     神社が今も丘の上に鎮座している事に由来するのでしょう。

      また太田道灌は江戸城の周りにいくつもの出城を築いていますが、この諏訪台の出城

     も、この北の中里駅の崖上にあった、豊島氏の拠る平塚城に対する前線基地として築か

     れたようで、平塚城を攻略した後は遠からず放棄されたと思われます。

諏訪神社


 境内は西日暮里駅を見下ろす

崖の上にあるのですが、社殿は

さらに一段高くなった小塁上に

あります。この小塁は古墳の跡

と云われているのですが、太田

道潅の出城があった時には見張

り台として利用されたのではな

いでしょうか。




    アクセスガイド


  道潅山・・・京浜東北線 西日暮里駅より西に徒歩約100m(通りの北側の丘)

        但し説明板などは南側の丘の公園内にあります。





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