ロンドン憶良見聞録

「雪風」のごとく



憶良氏は、単身赴任を6ヶ月経験して英国の生活に慣れたところで、
家族を呼び寄せた。家族は美絵夫人と一郎君(9歳)翠ちゃん(7歳)
綾ちゃん(5歳)次郎君(3歳)であるが、美絵夫人が大変だろうと、夫
人の母もしばらく滞在することとなった。

上の子三人がお世話になるブルックランド小学校と付属のインファン
ト・スクール(幼児学校)の校長先生は大変親切で、
「お子たちが着いたらすぐ入学させなさい。半年もすれば言葉も不自
由しなくなりますよ」
と受け入れは用意万端整えられていた。

転入する日、きれいな八重桜の並木道を、三人の子供は憶良氏の
後に黙ってついて来る。学校までは自宅の裏の通りを、住宅街の中
だけの真っすぐな一本道だから、至って分かりやすい。
子供たちは異国に来て緊張しているのであろう、口数はない。

一郎君が、歩きながらポツリと呟いた。
「どうして僕は苦労するんだろう」
憶良氏は一瞬ショックを受けドギマギした。憶良氏は転居を伴う転勤
が多かった。
これまでに西宮、武蔵野、横浜、藤沢の小学校を転校していたから、
今度で5ッ目の小学校である。関西弁から関東弁、そしてチンプンカ
ンプンの英語になる。
大の大人だって海外勤務は何かと気が重い。一郎君の気持ちは痛い
ほど分かる。でも、ここでなまじ同情してしまったら、ヘナヘナっとなろう。

「でもな、日本の小学校4年生で海外の生活を体験できる人はごくごく
少ないよ。苦労があるだろうが、いろいろな所も見られて、貴重な体験
になるよ」
「・・・・・」
返事はなく、ふたたび黙々と歩く。

突然翠ちゃんが憶良氏の袖を引いて、小さい声で囁いた。
「お父さん、あの人日本人かしら?」
翠ちゃんの視線は、反対側の歩道を行く少女を追っていた。グリーン
のネクタイをきりっと締め、グレイのスカートにグレイのセーターの制服
姿は、ブルックランド小学校の生徒である。たしかに東洋人だ。憶良氏
はすぐに声をかけてみた。

「おはよう!」
「おはようございます」
人なつこい笑顔とともに、はきはきした挨拶が帰って来た。



「ニッポンジンだ。よかった!」
3人の子供が同時に安堵の声をあげた。憶良氏もホッとしていた。
「小野田圭子です。どうぞよろしく」
「こちらこそお世話になります」

圭子ちゃんは一郎君と同じ4年生で、聞けば住まいもすぐ近くである。
2年生の翠ちゃんは頼りがいのあるお姉さんを、登校中に知り得て、
まことにラッキーであった。
一郎君も、異郷で頑張る同級生がいることで、ボヤクことは二度とな
かった。



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