ペーパー・タイガー
(前頁より)



映画が終わった後、二人はレストランに座っていた。
ロンドンの夜は遅くまで楽しめるところが魅力である。

「ひょっとしたら、この世で活躍している方々にも、ペーパー・タイガー
が多いのかもしれないな」
「例えばどういうことですの?」

「軍国主義華やかなりしころ、将軍や指揮官たちは、兵士に『生きて
虜囚の辱めを受けず』と訓示して来た。そのため数多くの兵士や民間
人が、投降せずに最後まで戦い、命を落としている。
しかし、敗戦となったとき、自決すら出来なかった将軍や、きちんとした
責任を取っていない指揮官や参謀が数多くいた。
一皮脱いでみたら、武士道は消滅していた」

「私には難しいことは分かりませんが、サイパン島で崖から海に飛び
込まれた婦人たちや沖縄での民間人の犠牲者の方々はかわいそう
ね。降伏してはいけないと、私たちも子供ごころに覚悟してましたもの」

「宗教の世界でも、事実かどうかしらないが、悟りに達しているはずの
高僧といわれる方でも、死に直面して取り乱す人がいたと聞いたこと
がある」
「人間ですものね」



「現代では企業社会にペーパー・タイガーが見られるかもしれないね。
組織の秩序を維持するには、個人の実力中身もさることながら、意識
的な権威付けをする必要もある。
組織が急に膨張している会社では、若手に肩書が与えられるからね。
でも地位が人を作るともいうから、ペーパー・タイガーが、いつの間にか
本物のタイガーになることもあるかもしれない」

憶良氏の話はついつい理屈ぽくなる欠点がある。
美絵夫人は結婚以来十年間、我慢強く聞いているが、読者諸氏には
鼻につかないかと夫人は心配する。
(このホームページでも、もう二年も連載している!読者諸氏よ、これが
最後のエッセイなので我慢してください)

「偉いと言われる人は、はたして本当に偉いのか。ペーパー・タイガー
ということはないのか。駄目と言われる人が本当に駄目なのか。価値
尺度を変えて見直して見ると、意外に駄目でないかもしれない」

「あなたの次長職は実力でしょ?」
美絵夫人のさりげない質問に、憶良氏はドッキリする。

「いやいや、ひょっとしたら俺の次長こそペーパー・タイガーかもしれん
な。偉そうなことを言って来たのがちょっと恥ずかしいな。
『張り子の次長』と陰口を囁かれないよう、これから頑張らなくっちゃね」
「あなたは本物よ。あらっ、もう一杯いかがですか」

空になっている憶良氏のカップに、美絵夫人がティー・ポットから紅茶
を注いだ。硬質の白さを出すため骨灰が入っているというボン・チャイ
ナでお茶を飲むと、気分も馥郁とするから、人間は単純な動物である。
どうも憶良氏は美絵夫人に巧みに煽てられ、自己啓発へと誘導された
ようだ。

中高年の役員、管理職の読者諸君。映画評論家が一顧だにしない
デビット・ニヴンの「ペーパー・タイガー」を、もう一度憶良氏と観賞しま
せんか。



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