ロンドン憶良見聞録


君知るやスクーン石の嘆きと喜び

「スクーンの石」遂に返還!!

返還についての詳細はこちら


「今年の夏休みはどうしますか?」
「こんなにポンドが弱けりゃ海外には行けないね。スコットランドへBB(民宿)
利用のドライブ旅行をしようか」
夫婦の会話を聞いて、「やったあ!」と喜んだのは子供たち。
イングランド最北部レイク・ディストリクト(湖水地方)を少し北上すると、スコ
コットランドとの国境である。
「英国に、万里とまでは言わないが、東海岸から西海岸まで国を横切る長城が築か
れていた」と言っても信用されない方がいるかもしれない。
古代ローマ帝国の軍団は、二千年も前に英仏海峡を渡りこの国に侵略し、各地にロ
ーマ時代の遺跡を残している。その一つがスコットランドとイングランドの国境を
分ける『ハドリアン・ウォール』(ローマ皇帝ハドリアヌスの築いた石塁)である。

「山越え野越え、ほんとによく築いたものですね」
「ローマ人たちは、スコットランド部族の南下をひどく恐れていたんだろう」
  ロンドンやチェスターなど城壁に囲まれた石造りの都市、バースに象徴される場、
石畳の直線的なローマン・ロード。ローマ人はまるで土木工事がしたくて渡来して
きたようだ。
「ローマ帝国ってすごいなあ。ローマから遠いこんなところまで来て、大土木工事
をしてるなんて。僕ローマにも行ってみたいな」
(少年の大志が膨らむのはいいが、親父の財布は大変だ。話題を変えなきゃ)
「これから向こうが昔のスコットランドだ。さあ出発するか。今夜はどこに宿
をとるかな」



さて一行は、ハイランドと呼ばれるスコットランド高地に入り、現王室の離宮
バーモラル城やあちこちの古城を見物しつつ、最北の地にあるネス湖を目指した。
ネス湖(ロッホ・ネス)の湖畔にウルクハート城という廃城が立っている。ハイラ
ンドからこの北辺の古城に至ると、空の雲、湖の水まで物寂しい。
湖畔の林の中に、ポツンと一軒のBBがあった。早速旅装を解き、夕食を攝るため
近くの村に向かった。ザッと夕立があった。その後天空に架かった虹は、今まで見
たこともない鮮やかな色彩であった。


夕餉終え宿へ向かえばほの暗きネス湖をまたぐ濃き太き虹

ネス湖の虹を詠んだこの歌は、後日、朝日歌壇前川佐美雄先生に、「四首目、早い
夕食をしたため、宿へ帰る道、下の句がよい」との選者評をいただいた。

スコットランドと言えば、スコッチ・ウイスキー、ゴルファーにはセント・アンド
ルーズ、音楽好きなら「蛍の光」「故郷の空」などの美しい旋律の民謡と、キルト
をはいた軍楽隊の優雅なバッグ・パイプを思い浮かべるであろう。
しかし、スコットランドの人々が目を輝やかして語り、最も誇るのは、「ロバート・
ブルースとバンノックバーンの勝利」である。『ロバート・ブルース』を知らず、
この栄光の『バンノックバーンの古戦場』を訪れずにスコットランドを去る訳には
いかない。

さて、古代ローマ軍団がブリテン島から引き上げた後も、イングランドとスコット
ランドの国境紛争は絶え間無く続いた。
七百年前の1296年、イングランド王エドワード1世は大軍を率い北進し、スコ
ットランドを制圧した。
イングランド王エドワード1世は、1282年にウェールズをも平定していた剛勇
無比の英傑であった。スコットランドに反乱を起こす者は影を潜め、イングランド
が完全に支配した。スコットランドとしては屈辱の時代であった。



ここに敢然としてエドワード王に反旗をひるがえし、スコットランド王位継承権を
主張し、王位についた男がいる。その名はロバート・ブルース。スコットランド王
室の血をひき、ノルマン貴族の子孫でもあった。
彼は1306年3月27日、古都パースの郊外スクーンに赴き、王位戴冠を宣言し
スコットランド王旗を掲げた。

ここには『スクーンの石』または『運命の石』(Stone of Destiny)と呼ばれる大き
な石があった。この石はスコッツ族の先祖がアイルランドから持ってきた縁起のよ
い夢見石といわれ、歴代スコットランド王は、この石に腰を掛けて戴冠する慣例で
あった。

ところが肝心の石は、1297年にエドワード王が戦利品としてロンドンに持ち帰
り、この石をはめ込んだ、イングランド王の戴冠式用の椅子を作らせていた。
  この樫の木で作られた椅子はウエストミンスター寺院におかれ、スコットランドを
お尻に敷いて、今になお英国王又は女王の戴冠式が行われている。スコットランド
国民にとっては屈辱と怨念の象徴となった椅子である。

余談ながら、つい最近1950年に、この石がウエストミンスター寺院から盗まれ、
消えてしまった。650年かけて、スコットランド人たちはイングランド人の鼻を
あかした。しかし翌年発見されて、石はまた椅子にはめ込まれた。

というようなわけで、1306年春、スコットランド人は『運命の石』のあるべき
スクーンで、ブルースを王として戴き、イングランドに挑戦した。
エドワード王は直ちに強力な大軍団を北へ差し向けた。
ブルースの率いるスコットランド軍は、ものの見事に大敗北した。ブルースは、ス
コットランドの僻地や離島、さらにはノルウエーへと逃げた。

一年後彼は再びスコットランドに戻り、兵を起こした。1307年初めて小さな戦
に勝った。次々と勝利を続けるにつれ、兵士たちが参集して来た。ブルースは、そ
れまで対立していたスコットランドのハイランダー(北部の高地人)とローランダ
ー(南の平野居住者)を、スコットランド自治のために統一した。

イングランド王エドワード1世は、その頃病の床にあったが、『中世イングランド
の賢王』と呼ばれた英雄も病には勝てず、7月7日、ついに没した。
王は、死に際し「自分の骨は革の袋に入れて、スコットランドがくたばるまで、常
に軍団の先頭に立てて進撃せよ」と遺言した。剛勇のブルースに対戦するイングラ
ンド軍を鼓舞するには、このような非常措置が必要だと懸念したからである。

ところが彼の跡を継いだ息子のエドワード2世は、とてつもなく暗愚で、父王の遺
言を守らなかった。エドワード2世はスコットランド各地に最小限度のイングラン
ド軍を残して、イングランドに撤退してしまった。したがって、ブルースの軍団は
次々とこれらの進駐軍のいた城を各個撃破していった。

1314年には、スコットランドでイングランド軍が残っているのはスターリング
城だけとなった。スターリング城の陥落はイングランドの威信にかかわる。。いか
な凡愚のエドワード2世でも、こうなっては自ら進軍せざるをえない。
この時北進してくるイングランド軍と、これを迎え撃つスコットランド軍の戦力は
3対1の差があった。 6月24日、両軍はスターリング城の南3マイル(約5キ
ロ)の地、バンノックバーンに雌雄を決することとなった。

ブルースは丘に布陣した。丘の下は低湿地である。戦は夜明けとともに始まった。
身動き出来ないイングランド軍の先鋒に、ブルースの軍団は集中して襲い掛かり、
次々と打ち破った。イングランド軍は沼地に足を取られ、応戦すら容易でなく、混
乱し大敗した。
エドワード2世は戦線を離脱し、イングランド領目指し、必死の思いで馬を走らせ
逃亡した。彼は『大敗北を食った王』として、イングランドの貴族や国民から信頼
を失った。 スコッツはスコットランドの支配を回復した。



1320年、ブルースはスコットランド人の心を泣かせる有名な宣言をした。

「我々が戦うのは、栄光の為ではない、富をうる為でもない、名誉の為でもない。
ただただ自由を得るが為である」(We fight,not for glory,nor riches,nor
honour,but only for liberty・・・・)

かくして1323年、ついに両国は休戦条約を締結した。休戦条約という名目の降
伏であった。ブルースは名実ともにスコットランドの王として君臨することとなっ
た。

その後再びイングランドはスコットランドと抗争を続け、両国議会が統合され連合
王国となったのは1707年である。
ロバート・ブルース王の時代は、スコットランドがイングランドに対し、対等もし
くは優位に立った時代であった。だからこそ、スコッツたちは郷愁の念をもって
『ロバート・ブルースとバンノックバーンの戦い』を懐古するのである。

臨時ニュース


遂に遂に「スクーンの石」返還!!



雪の便りが届く日々となりました。皆様にはお元気でお過ごしと思います。
さて汚職報道の影に隠れてしまい世間の注目をひいていませんが、 臨時
ニュースをお知らせいたします。

英国は民族問題で大変重要な意味を持つ「スクーンの石」を、イングランドからス
コットランドに返還したとのニュースが報じられました。
(これには、今後王が戴冠する時は「スクーンの石」を、ロンドンへ運ぶという
条件が付いている。)
スコットランド人がイングランド人に抱く屈辱の象徴が、ウェストミンスター寺院
にある英王室戴冠式の椅子に嵌められた、スコッツ族の聖石「スクーンの石」であ
ることは、拙著「ロンドン憶良見聞録」の中で「君知るやスクーン石の嘆き」とし
て紹介しました。
ロンドン憶良氏が[スコットランドに返してあげればいいのに・・」(337頁)
と書いたのがメージャー首相の目に留まったわけではないでしょうが、大変結構な
ことです。
まずは皆様にお知らせいたします。スコットランドへ旅行をされる方は現地で話題
にされると良いと思います。



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