晴耕庵の談話室

NO.91



標題:エドマンド剛勇王の子孫たちとノルマンコンクェスト(2)

OPINION & QUESTION

2003/11/28

ロンドン憶良様


丁寧なレスをありがとうございます。

1 ヴァイキングの活動が背景

ヴァイキングの活動に関しては、そのほか内陸アジアへの大冒険など
いろいろ興味深い事柄があるようですが、残念ながら海のイメージが
つよいせいか、あまり取り上げられていませんね。残念なことです。

また今回の件に関しては、ヴァイキング達の活動が背景にあるとする
ととても興味深いのが、当時分裂して争っていたロシアの情勢なので
す。
とくにヤロスラフ賢公とスヴャトポルク・キエフ公の争いに端を発する
ポーランドを巻き込んだ騒乱は、ちょうど叙任権闘争や王位継承戦
争にゆれるハンガリーとも絡んで複雑な様相を見せているようです。

もしエドワードとエドモンドがロシアに向かっていたのだとしたらそれは
大変興味深い話だと思うのですが、残念ながらその根拠がよくわかり
ません。海外サイトには他にもいくつか怪しげな話(エドモンドは内乱
のハンガリーに援軍を率いてくるためロシアに行く途中死亡した等)
があります。

なお、エドガーについてはhttp://members.tripod.com/GeoffBoxell
/edgar.htmこのようなサイトがあるようです。
これによるとエドワード(兄)、エドモンド(弟)というのも怪しいようで
すが・・・。


2 カヌート王の王子エドワードとエドマンド国外追放について

このあたりもだいたい話は各説共通するようなのですが、なにゆえ
ノルウェーまで子供を連れていったのか、その行動の真意が不明です。
ヴァリヤーグ達の地元で息の根を止めれば、騒動が起きないと考えた
のでしょうか。にしても、結局逃げられた(?)のですからまったくクヌート
がなにを考えていたのか、わかりかねます。

またノルウェーのヴァリヤーグはロシア(ノヴゴロド)と関わりが深い
ので、この方面でロシアにつながりがでてもおかしくないと思われます。
(実際、ヤロスラフはノヴゴロドにキエフ公位を奪うためにヴァリヤー
グ傭兵を集結させていた)
いきなり、当時建国されてまもない東方遊牧民の国家に亡命するの
はありえるのでしょうか?それとも、クヌートの息がそこまで広くかか
っていたということなんでしょうか。


3 貴顕の血統は欧州王室で大事にされていたのか?

上記の事柄と重複しますが、ハンガリーはイシュトヴァーン王によっ
て建国されたばかりです。しかも当時はメディアなどありませんから、
その王国の存在が天下にあまねく知れ渡っていたとは考えにくいの
です。おまけに文化、風俗があまりに西欧と違っています。イシュトヴ
ァ−ンの宮廷は「天幕」だったという話さえあるくらいで。


4 ハンガリー王室創世期、内外抗争下の2王子について

イシュトヴァーンはマジャール族のトップの血筋を策略と力で蹴落と
し、教会の権威をもって「王国」を一代で作り上げました。
が、このような強引なやり方が遊牧民達の闘争本能を刺激し、国内
は内乱状態となり、これにヴァリヤーグ傭兵、神聖ローマ帝国、ロー
マ教皇、ビザンティン・ローマ帝国、ヴェネツィアが絡む激しい戦争が
起きました。

恒文社の「ハンガリー史」によれば、エドワードとエドモンドはイシュト
ヴァーンの皇子ペータルの親衛隊長になった・・・とされています。
ペータルはイシュトヴァーンの妹とヴェネツィア元首の子であり、本来
はヴェネツィアに住んでいました。ペータルがイシュトヴァーンの命令
で帰国して王位を継承した際、二人はペータルの護衛隊を勤めたの
でしょうが、彼らがヴァネツィアにいたかもという想像も成り立つとお
もいます。

ペータルは即位後、叔父の王位簒奪計画事件などの影響で用心深く
なり、外国人傭兵で周辺を固めたとされております。その後、今度は
イシュトヴァーンの義弟アバによる叛乱が勃発。ペータルはその勢い
に抗しかねて一時神聖ローマ帝国に避難し、このときハインリヒ3世に
保護されて、その軍勢を引きつれて帰国。帝国軍と王軍が協力して
叛乱を鎮圧します。

ところがこの事件でペータルが神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世にひざ
を屈したことから、再び騒動が勃発。今度は、イシュトヴァーンに抑圧
された異教崇拝(マジャールのもともとの信仰)者達の叛乱・蜂起で
した。彼らはヴェネツィア帰りで、異国人に囲まれている国王ペータル
を打倒目標としており、さらに実力社会だった以前の遊牧生活への
復帰をもとめて大規模な行動を起こします。これに貴族達は恐れを
なし、国王をほっぽり出して、かつて王位簒奪をはかったペータルの
叔父ヴァーソイの息子達に助けを求めます。この子供達は東欧各地・
ロシアにおり、その中でもキエフのアンドラーシュはヤロスラフのキエ
フ奪還以降、キエフの宮廷に住んでいて祖国への帰還を狙っていま
した。

このアンドラーシュの扇動により他の皇子達も「帰国」を開始。東欧
とロシア各地からの軍勢がなだれ込んできましたが、それはペータル
を助けるものではなく、彼を完全に王座から排除するための軍勢で
した。

この時期、エドモンドがノヴゴロドかあるいは北方の誰かの援助を
えるために、北へむかってなくなった・・・というのはありそうな話です。
神聖ローマ皇帝・ハインリヒ3世はしきりにハンガリー情勢に介入しよ
うとしますが、ローマ教会との関係もあってなかなか積極的に動けず
にいたようです。

やがてペータル軍は完全に劣勢になり、アンドラーシュは王となります
が、彼の弟ベーラと王位をめぐる戦いが起こり、彼は息子シャラモン
に王位を継がせることを断念します。このシャラモンですが、彼はハイ
ンリヒ4世の娘を娶っていました。

なお、二人の皇子はペータル没後アンドラーシュにしたがったという
話もあります。これだと、アガサが国に帰りたがった説明になっとくが
いくのですが・・・。


5 エドワード王子のアガサ姫との結婚について

ここなんですが、イシュトヴァーン王にはアガサなんて娘はいないの
です。妾腹の娘とかそういうのはいたかもしれませんが、それは所詮
日陰の身であって系図に出てこない存在でしかありません。
それに神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の姪にはアガサなる女性が存
在し、彼女がイシュトヴァーンの宮廷で育ったという話はあるようです。
(なぜ、イシュトヴァーンの宮廷にいたのかは定かでない)
アガサが系図上存在することだけはたしかなようです。
((西フリースランド辺境伯リュードルフの娘。ハインリヒ4世はヴァイ
キング達の跳梁跋扈に怒り、大規模な北方民族包囲網を計画して
いたという話もありますが・・・・)

またイシュトヴァーンの娘と結婚したのはエドモンドではないか?と
いう人もいます。


5 マーガレット姫らのスコットランド漂着

この時期、ハンガリーは騒乱状態でしたし、なによりすでにペータル
の党派は一掃されていたはずです。そんなところに帰ろうと考えるで
しょうか?

ここですこし思い起こすのが、エドガー一家についていって今日も貴
族であるというさる家のことです。(ドラモンド家)この家はホームペー
ジをもっているはずですが、どうも一家の「船頭」を勤めていた・・・
というのです。(スコットランド亡命の際)
遊牧騎馬民族のマジャール貴族が「船頭」とはこは如何に?
と思ったのですが・・・よくよく考えると、ペータルは「ヴェネツィア」
出自なわけです。そして彼は「外国人に囲まれていた」のですから、
皇子二人を含めてその側近は「外国人」である可能性が高い。

私は、彼らがヴェネツィア人でなかったかと推測しています。
でないと、とてもマジャール人が「船頭」できるとは思えないので。
もっともエドワードは死んでしまったし、行きたくもないスコットランド
行ってしまったところを見ると、本当にマジャール人に舵を任せたの
かもしれませんが・・・。

で、アガサが本当に帰りたかったのはペータル故郷であるヴェネツ
ィアか、真の故郷であるドイツなのではないかと・・・・。
もっともイシュトヴァーンの宮廷には長くいたようなので、ハンガリー
にも行きたかったかもしれませんが。

とにかく、この二人(エドワードとエドモンド)の謎は、当時の欧州情
勢と深く関わるだけに、非常に興味深いです。

長々と失礼いたしました。「われ国を建つ」じっくり拝読します。
また、重ねて丁寧なレスをいただいた事、感謝します。

                             大鴉
RESPONSE

2003/12/1

大鴉様


大変興味深いハンガリー方面のお話をありがとうございました。

1 ヴァイキングの活動

「ヴァイキングの活動に関しては、そのほか内陸アジアへの大冒険
などいろいろ興味深い事柄があるようですが、残念ながら海のイメ
ージがつよいせいか、あまり取り上げられていませんね。残念なこと
です。」

とのご意見には同感です。
ヴァイキングは海賊Piarateではなく大水軍、さらには王国をも形成
する軍団という紹介が日本に少ないのは、西洋史を担当されている
歴史家の方々の怠慢かもしれません。
「バイキング料理」や子供だましのバイキング観光船など困ったも
のです。(言語学者もVとBの発音の差を指摘しない!)ということで
小生は、『北海の巨王』の章で、彼らの活動が大規模で広範囲に
わたることを紹介しました。もちろん侵略や窃盗などのヴァイキン
グもいたでしょうが、北欧三国はまさにヴァイキングが国家でした。


2 エドワード王子とエドマンド王子

私は歴史家ではなくアマチュアの歴史小説家もどきでありますが、
歴史的な資料を柱に小説を組み立てる考えをしています。私の資料
は英国での出版物ですから、欧州側での資料は知りませんが、ご
参考までに、
The Dictionary of English History
Sidney J.Low編 Cassell & Company,Limited
での記述を紹介しましょう。

この記述ではエドワードとエドモンドは兄と弟だと思います。他の
参考資料の多くの記述の順序も常にこの通りとなっていますから。

Edmund Ironside(b989 d1016)・・・・・・on November 30,1016,
Edmund died,having very probably been murderd by Edric(Streona).
He left two young sons,Edward and Edmund,who were exiled by
Canute.

剛勇王はわずか27年の生涯でした。他の記述でもEdwardが先です
から兄とみるのが妥当でしょう。また剛勇王の年齢から察しても兄弟
は幼少であり、すぐに傭兵隊長が務まるような年齢ではないと思い
ます。長じてヴァイキングを率いる傭兵隊長になったのかもしれませ
ん。


3 なぜノルウェーに亡命したのか

剛勇王が戦ったのはカヌート王子率いるデンマーク・ヴァイキング
であったので、一族は亡命先としてカヌートのデンマーク・ヴァイキ
ングと常に敵対関係にあったノルウェーを選んだのではないでしょ
うか。
カヌートは剛勇王の幼い子供を追放したとありますが、実際は遺族
が逸速く危機を察して亡命したと私は類推します。その後スェーデ
ン、ハンガリーと亡命先を変えたのでしょう。
その鍵は、剛勇王が1015年結婚したAldgyth(Sigeferth未亡人)に
あるような気がします。当時は皇太子であったエドマンド(Edmund 
Ironside)はこの結婚によって、イングランド内のデーン人支配地に
大きな自分の領土を得ています。つまりAldgythは、デンマーク・ヴ
ァイキングでは反カヌート勢力であったか、あるいはノルウェー人で
あったのか、いずれかでしょう。
カヌートは、剛勇王謀殺後、前王エセルレッド二世の王妃(剛勇王
義母)のエマを自分の二度目の王妃にしています。(前妃は追いや
り、ノルマンディー公の血統のエマと政略結婚)ライバルの妃Aldgyth
とは結婚していません。

もし、エドワードとエドマンドがAldgythの子供ならほとんど幼児で
しょう。

Canute・・・・・He slew the one son of Ethelred who was within
his reach,Edwy,and sent the two little sons(エドワードとエドマ
ンド) of his antagonist(剛勇王)to Norway,to be made away
there.・・・・・

Edward the Atheling(d1057) was the son of Edmund ironside,and
on the death of the father ,in 1017,he was sent first to Sweden,
afterwards to Hungary. Here he lived under the protection of
King Stephen,whose niece,Agatha,he married.In 1055,Edward the
Confessor sent for him as being the nearest heir to the throne,
and Edward came to England in 1057,but died almost immediately
after he had landed. He left three children,-Edgar the Atheling,
Margaret and Christina.


4 ハンガリーでの王子たち

「 恒文社の「ハンガリー史」によれば、エドワードとエドモンドは
イシュトヴァーンの皇子ペータルの親衛隊長になった」
とのことですが、小生はハンガリー史に詳しくないので、なんとも
コメントできません。いえることは、エドワード王子はほとんど幼少
で海外に亡命し、長じて当時のイングランド王であった血縁のエ
ドワード懺悔王の後継者となるべく呼ばれて帰国したが、多分英
王位を狙うゴッドウィン一族に殺害されたと推定して、拙著を展開
しました。


5 アガサは Stephen王の姪

上記の引用の通り、エドワード王子が結婚したのは王の娘では
なく姪ですが。

「それに神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の姪にはアガサなる女性
が存在し、彼女がイシュトヴァーンの宮廷で育ったという話はある
ようです。(なぜ、イシュトヴァーンの宮廷にいたのかは定かでな
い)」
とのお話ですが、このことはイシュトヴァーンの宮廷が、欧州で王
室として認められていることの証左にもなりませんか。
10世紀−11世紀ごろの欧州各国の王室、貴族、聖職者たちの
階級意識は、成り上がりであればあるほど、血統をほしがったよう
な気がします。


6 アガサの大脱走の真意

あなたの推論のように、アガサ未亡人やマーガレット姫たちの亡命
予定地は、ハンガリーではなくヴェネツィアであったかもしれません。
家臣にヴェネツィア人がいてもおかしくないと思います。
それも面白い構想です。
いずれにせよ、子供三人を抱えたアガサにとって、征服王の虜囚
からいかに逃れるか、脱走は焦眉の急を要したことでしょう。ハン
ガリーから随行した数少ない家臣団と、アルフレッド大王の血統を
ひくアングロサクソン正統のエドガー王子らを守る反ノルマンの連
中が、大脱走を助けたと思います。(座して死を待つより、どこでも
よい逃げ出したいという心境だったでしょう)


また新しい情報がありましたら教えてください。

                       ロンドン憶良




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