晴耕庵の談話室

NO.43


WALES IN MY MIND

2000/4/10

標題:「Walesを訪ねて学んだ英国の歴史」(1999. 7月〜2000. 3月)


ロンドン憶良様


英国滞在中に読んだ本からと訪ねた土地のパンフレットからの抜粋
ですが、自分の知らなかった知識を行き帰りの飛行機の時間つぶし
にまとめたものです。
まだ途中で、エンジニアの拙文ですが、、、、

                              M.F.


★ 英国について
(1)英国の正式名称
英国の正式名称は、The United Kingdom of Great Britain and
Northern Ireland(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)
である。
The largest of the British Isles is called Great Britain, and its
three countries(England, Scotland, and Wales) are joined within
the United Kingdom(UK). The second largest of the British Isles
is Ireland. Most of Ireland is an independent republic, but part
of the north is governed as a province of the United Kingdom.

われわれが「英国」という範囲は、正式には「グレート・ブリテンおよ
び北アイルランド連合王国」略して連合王国(United Kingdom)と
呼称される。すなわち、 連合王国(UK)は、イングランド (England)、
スコットランド (Scotland)、ウェールズ (Wales)、北アイルランド
(Northern Ireland)という四ヶ国の連合体である。

ウェールズは1536年、スコットランドは1707年、アイルランドは1801
年に、それぞれイングランドに併合されたが、アイルランドが主に
宗教面の対立がもととなって、アイルランド共和国と北アイルランド
(Northern Island)に分かれた。

(2)イギリスの語源

イギリスは幕末「えげれす」と呼ばれていた。それはイングランドの
発音をポルトガル語でInglezというところから、聞き間違えて「エゲレ
ス」となった。当時イングランドが支配した大英帝国を、日本人は
イギリスという日本語で呼んだ。ここから「イギリス=大英帝国・ある
いは連合王国(UK)という概念」と「イギリス=イングランドという概念」
の混乱が生じた。

われわれがイギリスという表現を使った場合は、連合王国という広い
範囲(イングランド・ウェールズ・スコットランド・及び北アイルランド)
を意味することが多い。
4カ国のうち、北アイルランドを除いた、イングランド、スコットランド、
ウェールズの三国は大ブリテン島にあるところから、総称してグレ
ート・ブリテン(Great Britain)、英国人を総称したい場合は、ブリ
ティシュ(British)を使ったほうがよい。

(3)国旗と宗教

国旗は、1603年に、既にウェールズを併合していたイングランドの
St. George's CrossとスコットランドのSt. Andrew's Crossが組み合
わされ、1800年に北アイルランドのSt. Patrick's Crossの旗が加わり、
Union Jackと呼ばれる。

チューダー王朝を確立したヘンリー8世はローマ教会から独立して、
プロテスタントの一派であるAnglican Church(英国国教会)を創立
した。
ヘンリー8世とアン・ブリンの間に生まれた子がエリザベス1世である。

England 1554, Henry[ is dead. The country is divided catholic
against Protestant. The Catholics' greatest fear is the succession
of Mary's protestant half-sister, Elizabeth. Young, passionate
Elizabeth Tudor comes to the throne amidst bloody turmoil.
Elizabeth reigned for another 40 years. By the time of her
death England was the richest and most powerful country in
Europe. Her reign has been called the Golden age.

(4)国歌

The United Kingdomの国歌(The National Anthem of the United
Kingdom)は、God Save The Queenです。

 God save gracious Queen.
Long Live our noble Queen.
God save the Queen !
Send her victorious.
Happy and glorious.
Long to reign over us.
God save the Queen !
  (注)チャールズ皇太子が即位すると歌中の"Queen"はすべて
"King"になる。

Englandの国歌(The National Anthem of England)は、Land of
Hope and Gloryです。

  Land of Hope and Glory,
  Mother of the free,
  How shall we extole thee,
  Who are born of thee,
  Wider and still wider,
  Shall thy bounds be set,
  God who made the mighty,
  Make thee mightier yet!!,
  God who made thee mighty,
  Make thee mightier yet!

Walesの国歌(The Welsh National Anthem)は、Land of my
Fathersです。

  Land of my Fathers, O land of the free,
 A land of poets and minstrels, famed men.
 Her brave warriors, patriots much blessed,
 It was for freedom that they lost their blood.
  Wales! Wales!,
  I am devoted to my country.
 So long as the sea is a wall to this fair beautiful land,
 May the ancient language remain.

(日本語訳)
 私の父たちの土地よ。自由の土地よ。
 詩人たちと、歌人たちと、名高い男たちの土地よ。
 勇ましい戦士たち、神聖な愛国者たち。
 自由のために彼らは血を流したのだ。
 ウェールズ!、ウェールズ!
 私は私の国に身をささげる。
 海が、この美しい汚れ無き土地を守る防壁であり続ける限り、
 先祖の言葉が残り続きますように。

(5)ブレア政権の政策

スコットランド、ウェールズにそれぞれ独自の議会を設置することの
是非を問う住民投票が1997年9月におこなわれ、議会設置賛成が
多数を占めた。
これによって20世紀最後の年、2000年には、両国に独自の立法・
行政機能をもつ議会が誕生する。1536年のウェールズ併合令によ
ってイングランドに併合されたウェールズは464年ぶりに、1707年に
併合されたスコットランドは297年ぶりに、自前の議会が誕生する。
イングランドが圧倒的に大きな支配権を握っていた状況がこれによ
って大きく変化するはずである。

北アイルランドではUKからの独立、すなわちアイルランド統一の機
運が高いのに比べると、ウェールズは独立に積極的ではない。
現実問題となるとUKからの独立は、すなわちロンドンのシティーと
呼ばれる金融収入に支えられたUK経済から独立することを意味し、
ゆりかごから墓場までと言われている高福祉国家と決別し、生活レ
ベルを落としたくないことも独立に積極的ではない理由である。

スコットランドはすでに、中央銀行(バンク・オブ・イングランド)の
発行するポンドとは別に、スコットランド銀行のポンドも発行しており、
湖水地方から、ヨークを結ぶ線より以北で、盛んに使われている。
スコットランド銀行のポンド紙幣はイギリス中で使用可能である。
スコットランド銀行がバンク・オブ・イングランドと同様に同価値の
スコットランド銀行券を発行し続けて、国内で独立性を維持し、ス
コットランド金融経済の中心にいるのは、スコットランドのイングラン
ドに対する抵抗の主張のひとつである。

(6)ユーロについて

1999年1月1日をもって、欧州単一通貨EUROがスタートした。
ただし、実際のユーロ紙幣、硬貨が流通するのは2002年1月1日、
ユーロへの切り替え完了は2002年7月1日である。

ユーロ導入の経緯は以下のとおりであった。
  1968年 域内15カ国の関税を全廃
  1993年 域内市場統合がスタート。
        人、モノ、金の移動が自由になった。たとえば、域内
        パスポート保持者は事実上パスポートコントロールな
        しで出入国出来る。日本を含む域外のパスポート保
        持者は、在住者であってもパスポートコントロールを
        受けなければならない
  1999年 通貨統合スタート。
  2002年 ユーロ紙幣、硬貨流通。
       (7月1日以降は、マルク、フランなどが姿を消す)

ユーロ発足時の参加国は、アイルランド、フィンランド、オランダ、
ベルギー、ルクセンブルグ、ドイツ、フランス、オーストリア、イタリア、
スペイン、ポルトガルの11カ国である。
連合王国(UK)は、今のところユーロ導入を見送っている。
自国通貨が十分強く、ポンド高である上に、金融で儲かっている
連合王国(UK)にとって、今ユーロを導入するメリットはないから
である。

しかし、かつてのフランス王室との繋がりを通じて大陸欧州への
親近感があり、自国通貨を発行しているスコットランドではユーロ
導入支持論がイングランドより強いと言われている。
ユーロが導入されると北アイルランドとアイルランドが同じ通貨を
持つことになる。それらが「連合王国」のidentityに如何なる影響
を及ぼすのか、そもそも欧州「連合」(EU)の中で「連合」王国(UK)
とはどういうことで、Can the United Kingdom stay united ?
興味のあるところである。


★ ケルト文明とローマによる占領

ローマ人に征服されるまでのヨーロッパ中西部は、その大半が
インド・ヨーロッパ語族に起源を発するケルト人に支配されていた。
古代ヨーロッパに繁栄したケルト文明は、ケルト人が文字による
記録を残さなかったため、長い間古代ギリシャ・ローマ文明の陰
に隠れていたが、ケルト文明はヨーロッパ文明の基礎をなすもの
であることが近年の調査でわかってきた。
ライン川中流にいたケルト人は紀元前900年ごろに鉄器時代に入
り、定住して、農耕生活に入った。紀元前 800年以降になるとロー
マ人からガリとも呼ばれたケルト人は数多くの部族ごとにガリアやド
ナウ川をこえた周辺にひろがり、パリ、リヨン、チューリッヒ、ジュネ
ーブなどを建設した。
さらにアルプスを越えてイタリアに進出、アペニン山系に到達し、
その間にミラノ、トリノを建設した。

パリ、ウィーン、ミラノなどの都市名、ドナウ川、ライン川などのドイ
ツの多くの川の名前は、ケルトの地名や部族名に由来する。例え
ば、パリはパリーシー部族の居住地であった。

紀元前 3世紀にバルカン半島から小アジアに進出し、ガラテアに
アンカラを残した。
西方ではイベリア半島まで達した。しかし、紀元前3世紀に入ると、
ローマは本格的な反撃に出る。
アルプス以南のケルト民族は次々とローマに屈服、征服されたケ
ルト人は奴隷となる。ドナウ川流域のケルト人はイタリアを避け、
マケドニアから小アジアに進む。

紀元前2世紀初頭、イタリア全土を制圧したローマ軍は、アルプス
を越えて、広大なガリアの地に迫る。南方からはローマ軍、東方か
らはゲルマン民族に押され、緊張の高まったケルト人は各地の小
高い丘に都市要塞を構築した。

B.C.58年からB.C.50年までの8年間アルプス以南と南仏の属州
総督の任にあったカエサルは、ガリアに出兵した。
紀元前52年、全ガリアはローマの支配下に入り、大陸のケルトの
時代は終りを告げた。ローマは、B.C.55年に大ブリテン島(Great
Britain)に上陸する。

ローマによるブリテン島の占領は、西暦43年から407年まで続き、
その間Walesには第2アウグストス軍団の本営がCardiff(カーディフ
)の北東Caerleon(カイルレオン)に造営された。
Because the Celtic tradition was almost entirely oral, much of
its ancient wisdom has been lost.
During the first millennium BC, these Iron Age peoples occupied
huge tracts of western and central Europe, extending their
height of power from the British Isles to Turkey.
They were famed for their metal-work, road building, chariot-
making and agricultural and rich cultural life. They were the fierce
Gauls of Caesar's Gallic Wars and indeed the 'barbari' sacked
Rome in 290 BC. However, the systematic extension of the Roman
Empire and the Anglo-Saxon and Norse invasions gradually
destroyed the separate identity of the Celts, whose influence
nevertheless has pervaded many aspects of religious, cultural
and magical life throughout the Western world.

Caesar's conquest of Gaul took place in the period 58 to 50 BC.
His notes on the Galic War give us occasional glimpsed France,
part of Holland, Belgium and the greater part of Switzerland.
These lands, together with Britain had long been settled by
warlike Celts, a people from central Europe. Soon after 500 BC,
the Celts wandered east and west in their search for fertile
farming land. Around 390 BC, the Celts had even invaded
Rome and sacked the city. It was to take two hundred years
for the Celts to be driven from Italy and by Caesar's time Rome
already controlled southern Gaul. The greater part of Gaul was
politically unsettled, however, and there was a danger that unruly
Celtic tribes would join the Germans to threaten Roman interests.
Caesar realized that Roman must act and his brilliant campaigns
brought all of Gaul, and ultimately Britain, within the Roman
Empire.
Caesar is respected as a chronicler and his observations on the
Gauls represent a valuable record.

(注)ガリア戦記:カエサルの著作。ガリア遠征記で全8巻からなる。
   前58年〜前51年にガリアを征服したカエサルが、おもにガリア
   人に対する戦争の経過を記したもの。ガリアの事情や ゲルマン
   社会を知るための貴重な資料である。
   ガリア人:古代ローマ人がガリアと総称される地域に与えた呼
   び名でケルト族にあたる。

★ アングロ・サクソン7王国

モンゴル高原から万里の長城にかけて栄えた遊牧騎馬民族の匈奴
の子孫であるフン族が西暦4世紀の中頃、西へ向かって移動を開始し、
これが引き金となってゲルマン民族の大移動がおきた。

5世紀初頭、ローマ人がWalesから撤退するとバイキングが海岸地帯
を襲撃していた。デンマークに住み着いていた西ゲルマン民族の一
派であるアングロ・サクソン人たちは5世紀の中頃、海を渡って大ブリ
テン島に侵入し、土着のケルト人を征服した。
アングロ・サクソン人は、ケント(Kent)、サセックス(Sussex)、ウェセッ
クス(Wessex)、エセックス(Essex)、イーストアングリア(East Anglia)、
マーシャ(Marcia)、ノーザンブリア(Northanbria)からなるアングロ・
サクソン7王国を建国した。

アングロ・サクソン7王国は部族国家であり、相互に激しい抗争を繰
り返したが、西暦829年にウェセックス王エグバートによって統一さ
れ、現在のイングランドの母体が誕生した。

エグバートの孫アルフレッド大王は国内を統率し、外敵の侵入、侵
攻を撃退し、国内の7王国は最盛期を迎えた。ウェセックスの州都
ウィンチェスターは当時のイングランドの首都でもあった。
この時アングロ・サクソン人に征服され、荒涼たる北部山岳地帯や
西部の高原あるいは島の南端に追われたケルト人の子孫が現在の
スコットランド人、ウエールズ人、アイルランド人の人々である。
今なお続くアングロ・サクソン人とケルト人の根深い民族問題はこの
ゲルマン民族の移動に端を発している。
イングランド人(アングロ・サクソン人)と、ケルト人の外観上の特徴は、
イングランド人はすらりと背の高い、面長の人が多く、ケルト人は、ど
ちらかと言うと小柄でがっしりした顔つきをしている人が多い。

In 383, the Roman legions gradually began to leave Britain to fight
in Gaul(France) against the Barbarian tribes who were invading
the Roman Empire. By 407, there were not enough Roman soldiers
left to defend Britain from the Picts and Scots, fierce raiders from
the North. The British chiefs asked Anglo-Saxon soldiers to come
from Germany to fight for them. In return for this help, the Anglo-
Saxons were given land. They defeated the Picts and Scots and,
when the Britons asked them to leave, they refused to go.
As time passed more and more Anglo-Saxons arrived, wanting land
and attacking the Britons. Soon they began to settle in Britain.

★ ウエールズ(Wales)

大西洋と北海に挟まれた大ブリテン島(Great Britain)を中心とする
島々にはB.C.30万年前頃の旧石器時代から既に人間が住んでい
たと言われている。新石器時代(B.C.2500年頃)になるとヨーロッパ
大陸から様々な民族がこれらの島に移り住むようになった。

彼らはSalisbury(ソールズベリー)近郊にみられるStonehenge(ストー
ンヘンジ)等に見られる巨石文化を築いた。B.C.650年頃になると、
ヨーロッパ大陸に広く住んでいたケルト人(Celts)がこれらの島に移
住してきた。

ウエールズ最初の統一国家を作り上げたのは、ロードリ・マウル王
(Rodri Mawr)であった。彼は844年から878年まで34年間在位し、
ウエールズ王朝の基礎を固めた。
しかし彼の死と共にウエールズは南北に分裂し、長男アナラウド
王子が北部を次男カデル王子が南部を相続した。
以来ウエールズは南北両王家が主導権を争う歴史を繰り返すことと
なった。
1066年にイングランドを征服したノルマンディー公ウイリアムは、
Walesの征服に着手する。肥沃な南東Walesは、ノルマン人の手
に陥るが、山岳部のWalesは有能な指導者に率いられ、抵抗を続
ける。

13世紀になると、1211年イングランド王ジョンはウェールズの内乱
に介入するが、リューウェリン・アプ・イオルウェス(Llywelyn ap
lorweth、1194−1240)のもとでWalesは団結し、イングランドの侵
入を阻止した。失政の続いたジョン王はマグナカルタに署名するが、
そこにはWalesの事実上の独立状態が記されている。

1277年エドワード1世はWales征服の途につき、1282年最後の
Wales王グリューフィド・アプ・リューウェリン(Llywelyn ap Gruffudd)
が戦死し,1294年全Walesはエドワード1世ににより武力征服された。
Llywelyn ap Gruffddには、男子が無く、ウェールズ正統のプリンス
は断絶した。
武力平定だけでは誇り高きウェールズの統治が難しいと考えたエド
ワード1世は、王妃エリナーの懐妊を知り、一計を思いついた。
もし男子であれば、Llywelyn ap Gruffddで断絶したウェールズの
Prince of Walesにその子を任命し、ウェールズ人との融和をはかろ
うと考えた。
1301年カナフォーン城で生まれた息子のエドワード2世は、Prince
of Wales(英国皇太子)に叙された。その後、イングランド王の最年
長の王子はプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)と名乗るよ
うになった。

チャールズ皇太子がプリンス・オブ・ウェールズ(Prince of Wales)
と呼ばれる理由は、ここにある。

14世紀のイングランドはフランスとの百年戦争、バラ戦争と戦乱が
相次ぎ、イングランドによるWales支配は困難を極めたが、バラ戦争
が終るとHenry Tudorがイングランド王ヘンリー7世として即位、息子
のヘンリー8世は1536年、Wales併合令(The Act of Union)のもとに
Walesを名実ともにイングランドの傘下に収め、チューダー王朝が絶
対王政を確立した。

Llywelyn ap lorweth flourished in the period 1173 - 1240, his
power in Wales forced the Marcher lords to construct several
large castles to defend their own interests.
King Edward struggled against the Welsh prince Llywelyn ap
Gruffdd, otherwise known as Llywelyn the Last. Llywelyn was
a prince of Gwynedd who adopted the style Prince of Wales in
1258 and was formally recognized in this role by King HenryV
at the Treaty of Montgomery in 1267. EdwardTbecame King
of England in 1272 but it was only on his return from the
Crusades in 1274 that he had to confront the problem of Wales.
In 1277 he invaded Wales and Llywelyn was forced to pay
homage. Several years of comparative peace followed but hatred
of English laws and settlers caused the Welsh to rise again in
1282. The king crushed the revolt and Llywelyn, the last of the
native Welsh princes, was killed. His head was cut off and sent to
king EdwardTfor display in London as a warning to others. King
Edward's desire to unite Britain under one monarch would be
sympathized but the motives of the Welsh man who fought for
the rights and dignity of his own people would also be respected.
Today Cilmeri, where Llywelyn ap Gruffdd was killed, is a place
of pilgrimage for those who respect the independence of the
Welsh. The King placed Wales under the same laws as England
for the most part and his son, Edward II, who was born in North
Wales, was made Prince of Wales in Caernarfon in 1301, since
when, the elder son of the sovereign has usually been given this
title. Prince Charles was made Prince of Wales in 1969.
Henry Tudor was crowned King of England in 1485 and his son
Henry VIII initiated the Act of Union in 1536 bringing Wales into
line administratively, politically and legally with England, with
representatives in the English parliament and English becoming
the official language of the court.


★ ノルマン人による征服(Norman Conquest)

1066年エドワード証聖王が死ぬと、ノルマンジー公ウィリアムが、
8000の軍隊を引き連れペベンジーに上陸、ヘースチィングの郊外
バトルの戦いでハロルドをを倒した。このバトルと地名が合戦という
バトルの語源である。
ロンドンに入ったウィリアムはクリスマスにウェストミンスター寺院で
戴冠式を行い王位についた。この時から、イングランド王室の戴冠
式はウェストミンスター寺院で行われる慣行になった。

ロンドンが首都になった。ウィリアム1世は新しい貴族、聖職、政治
の要職などにはすべてノルマン人(フランス人)をあてた。
多数の軍人、商人、職人が大陸からやってきた。11世紀末のイン
グランドの人口は約150万人であったが、1〜2万人のノルマン人
によって支配されていた。やがて王−貴族−豪族−農夫という封
建社会が確立した。ノルマン人によるイングランド支配は1475年ま
で約300年続いた。

非情に徹した反乱制圧、家畜に至るまで調べ上げた課税資産台
帳ドウムスディ・ブックの作成、荘園制度による統治、ノルマン風
城塞の構築、カンタベリー大寺院を頂点とする教会勢力との提携
などをおこない、現英国王朝の基礎をつくった。

ノルマン・コンクウェストは、現在の英国社会に影響を及ぼしている。
ノルマン人の征服により、英語に入ってきたフランス語は、今日でも
7500語が英語に残っているといわれている。日常よく使われる
1000語のうち3割がフランス語から借入語である。

フランス借入語は英語と同義表現を作るが、フランス借入語のほう
が英語本来語より文語的である。下記はその一例である。

   英語本来語  フランス借入語
   child      infant
   begin      commence
   help    aid
   buy     purchase
   ask     question

英語の中にフランスからの借用語を入れさせて英語を豊富な言葉
にしたのは、この征服の副産物である。
イングランドがノルマン・コンクェストによってもフランス語圏とならず、
どのようにして英語を守り、英語文化を作り上げていったのかは、異
民族と異文化の接触の観点から興味のあるところである。
また征服民族の言語を尊重したノルマンの懐の深さなど今後、日本
が国際化するにあたりノルマン・コンクェストから学ぶべきところが多い
と思う。

★Walesの石炭産業

18世紀以降、Walesでは石炭、鉄などの産業が発展した。鉄道用の
レールの需要や蒸気船用の良質の無煙炭の生産でWalesは経済的
大発展を遂げた。この間Walesではイングランドやアイルランドから大
量の労働者を吸収した。それに伴い労働組合運動も盛んになった。
このような産業歴史を反映し、Walesは一貫して労働党の強い地盤と
なっている。しかし、1930年代および1940年代は石炭から石油への
エネルギー革命のあおりで人口は急減し、Walesはかつての繁栄から
取り残された。19世紀から1920年代まで炭坑地帯として栄えた
Blaenafon(ブラナファン)に、 炭坑跡に作られたBig Pit Mining 
Museum(炭坑博物館)があり、地下90メートルの炭坑跡をHelmetと
Cap Lampで見学でき、かつての炭坑夫の生活を学べる。

Big Pit is a real colliery. Sunk in 1880 and incorporating much
earlier coal and ironstone workings, it produced coal on a large
scale until it closed in 1980.When the coal stopped coming out,
the colliery simply started taking in. Experience a guided tour 300
feet below the Welsh hillside and discover the mining industry as it
really was.



★ Castle(お城)の基礎知識

1〜2万人のノルマン人で、約150万人のイングランドを支配したノル
マン人は、各地に多くのノルマン風城塞を築いた。
一般にノルマンの城は、本丸を支える人造の土塁(モット)とその
入口を守る柵囲いした平地(ベイリー)とからなっている。

William was crowned King of England on Christmas Day 1066,
and for the next one hundred years England was ruled by the
Normans. There were over two million Anglo-Saxons in England
and only ten thousand Norman knights. To make it easier to
control the people, William and his barons built castels all over
the country.
(Note) Motte: Earth from the ditch was used to build a
       steep mound.
      Bailey: A court yard where animals and villagers from
       the surrounding land could stay during an attack.

(1)Winsor Casle(ウインザー城)

ロンドンを囲む砦のひとつとして、1080年ごろに征服王ウイリアムに
よって建造された。

(2)Caerphilly Casle (ケルフィリー城)

カーディフの北約13キロにある。Caerphilly Casle(ケルフィリー城)
の歴史は古く、西暦75年にローマ人の手により城砦が築かれ、
11世紀のノルマン公ウイリアム1世により、城のある丘が作られた。

The castle was built in the late 13th century by the Anglo-Norman
lord, Gilbert de Clare to consolidate his grip on the lands he had
captured.

(3)Warwick Casle(ウォーリック城)

Warwick(ウォーリック)は、Stratford-Upon-Avon(ストラットフォード
・アポン・エイヴォン)の北に位置する。
The town of Warwick was founded on the banks of the River
Avon in AD 914 by Ethelfleda, sister of Edward the Elder, as
a defence against the Danish invaders.

西暦914年頃には、すでにエイヴォン川を見晴らすこの丘に、一種の
砦らしきものがあったことが判明している。
その頃デンマーク人が、ブリテン島中部のアングロサクソン王国、マ
ーシアを侵略しようとしていた。914年アルフレッド大王の娘エセルフ
リーダは丘の上のウォーリックの集落を守るために「バー」と呼ばれる
土の城砦を築かせた。
今ウォーリック城のある場所にモット(丘)とベイリー(壁に囲まれた平
地)から成る砦を築いたのは、征服王ウィリアムである。
1066年当時のWarwick Casle(ウォーリック城)は、ノルマン人がイン
グランド統治の要として築いた砦のひとつである。

(4)Cardiff Castle(カーディフ城)

ローマ軍やノルマン軍が築いた要塞がカーディフ城の始まり。
19世紀に造船業で財をなしたビュート家の3代ビュート伯爵の命で
再建された。現在はローマ時代の城壁のほか、12世紀のノルマン
様式の要塞やビュート候の居室の数々が見学できる。


★英国観光のための基礎知識

(1) Cardiff(カーディフ)

ローマ時代は軍港として、18世紀後半には石炭の輸出港として繁
栄した歴史をもつ。
Cardiff(カーディフ)は産業革命期に飛躍的に発展した都市である。
1841年にマーサ・カーディフ間に開通したタフ渓谷鉄道がカーディ
フ発展の重要な要因となった。以前はニューポート、スウォンジーに
流れていたバレー地域で採掘されていた石炭がカーディフに集まる
ようになり、ブリストル水道最大の港町であったカーディフは、19世紀
から石炭の積み出し港として栄えた。

エリザベス2世は1955年、カーディフをWalesの首都とする勅許を与
え、カーディフはヨーロッパにおける最も新しい、最も小さな首都とな
った。人口は28万人の都市である。

(2)Bristol(ブリストル)

エイヴォン川の河口に位置するBristolは、かつてはヨーロッパ中の
船が集まるとうたわれた貿易港。
1497年、John Cabotがこの港から出帆し、Newfoundland島を見つ
けて以来、北アメリカとの取り引きで、富を蓄えた。

(3) Stonehenge(ストーンヘンジ)

紀元前2150年から紀元前1250年にかけて造られたとみられる巨
岩遺跡。
祭壇石を中心として巨大な石柱が四重に組まれている。
一番外側のリングは直径29m、当初30個の石で構成されていたと
みられるが、現存しているのは17個、頂上部は横置きにされた石で
連結されている一番内側のリングは60個の小さい石で作られていた
が21個しか現存していない。

(4)Salisbury(ソールズベリー)
Stonehenge(ストーンヘンジ)から16キロ南にあり、イングランドで、最
も背の高い120メートルのSalisbury Cathedral(ソールズベリ大聖堂、
1220年から1258年に建てられたゴシック調の建物)に見守られた町
である。
ノルマン人のひらいたOld Sarum(オールドセーラム)から南に 3キロ
ほど離れたSalisbury(ソールズベリ)は、New Sarum(ニューセーラム)
の別名で知られている。
Old Sarum(オールドセーラム)は丘のうえにあり、水の利が悪く、大聖
堂建設の話がでたときには、過密状態で大聖堂を建てるだけのスペ
ースがなく、1220年に新しい大聖堂のための場所に選ばれたのが
New Sarum(ニューセーラム)である。

(5)Bath(バース)

約2000年前、ローマ人がブリテン島を占領すると同時に作った神殿
と広大な浴場施設。
バースを占領していたローマ人はこの地に「聖なる泉」と呼ばれる薬
用効果の高い湯がでることを知るとローマから技師を呼んで浴場を建
設した。その後410年にローマ軍が撤退すると浴場は徐々に衰退した。

(6)Stratford-Upon-Avon(ストラットフォード・アポン・エイヴォン)

世界的文豪William Shakespeare(シェークスピア)の生まれ故郷で、
エイボン川がゆるやかに流れ田園風景が続くイングランド中部にある
町。1564年William Shakespeareが生まれた典型的な中産階級の家
である生家とロンドンで成功を得た後、再び故郷に戻り、1616年に没
するまで過ごした家New Placeがある。
William Shakespeare(シェークスピア)は、農業、ウールの商店を営む
ジョン・シェークスピアとメリー・シェークスピアの長男として、1564年
4月23日に誕生した、1564年4月26日にはパリッシュ・チャーチで洗
礼を受けた記録が残っている。
William ShakespeareはStratford Grammar School(グラマースクール)
で、自治都市の富裕な市民の子息にふさわしい教育を受けた。
しっかりしたラテン語の基礎にもとづいて、文法、論理学、修辞学を
学んだ。18歳でアン・ハサウェイと結婚し、3人の子供をもうけた。
結婚2年後、単独でロンドンに進出し、脚本家、俳優となって成功し
た。シェークスピアが進出した1580年代中頃のロンドンはエリザベス
朝時代は輝かしい栄光で燃え立っていた。1610年頃Stratford-Upon
-Avonに戻り、1597年に購入していたNew Placeの家で生活し、1616
年、52歳で死去。

(7)Cotswolds(コッツウォルズ)

Cotswoldsとは、古英語で「羊小屋のある丘」という意味。広大な斜面
と清らかな水で、14世紀にイギリスを代表するウールの集散地&毛織
物の産地として栄えたが、19世紀を境に石炭の採れないこの地方は
苦難の道を歩むことになった。
コッツウォルズ地方について、シェイクスピアは「リチャードU」の中で、
"High wild hills and rough uneven way"と書いた。コッツウォルズの自
然の中に、静かに生活を送る人々の村が点在する。この地方を歩くと、
村の小さな家々がLimestoneと呼ばれる石灰岩でできているため、家
並みの何とも言えない温かさに気づく。その美しさの秘密は、蜂蜜色
のLimestoneの微妙な色合いと茅葺き屋根。
コッツウォルズは、イングランドの中でも、「最もイングランドらしい田舎」
とされている。

(参考文献)
Cassandra Eason ; Ancient Wisdom (Parragon 1999)
Tim wood ; A History of Britain The Saxons And The Normans
(Ladybird Books Ltd 1994)
Anita Ganeri ; Hazel Mary Martell, Brian Williams ; Pocket History
(Parrragon 2000)
Philip Steele ; Pocket Atlas (Parrragon 2000)
Derek Renn CBE, PhD, FSA ; Caerphilly Castle (Cadw; Welsh
Historic Monuments)
マイケル・セント・ジョン・パーカー著 ウィリアム・シェークスピア
 (Pitkin Unichrome Ltd 1999版)
大杉耕一著 見よ、あの彗星を [ノルマン征服記]
(日経事業出版社 平成6年版)
中尾俊夫著 英語の歴史 (講談社 1999年版)
小林章夫著 物語 イギリス人 (文春新書 平成10年版)
東京美術館作成パンフレット 「ケルト文明とブリテン・アイルランド
のケルトについて」




THANKS

2000/4/11

M.F.様

寄稿ありがとうございました。
ウェールズの概観がよく分かります。またノルマン・コンクェストの影響
が随所に見られることも、来訪者の参考になるでしょう。

ノルマン・コンクェストに対する抵抗(レジスタンス)はイングランドだけ
でなく、ウェールズ、スコットランドでも続きました。
しかし、ウィリアム王は、すべてを鎮圧平定しました。
「見よ、あの彗星を(ノルマン征服記)」続編を目下まとめています。

ウェールズに限らず、イングランドなどの紀行もお寄せください。



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