ロクサンに感謝


ロクサンと言うのは、橘大介氏の勤める清泉銀行で外国部門担当の常務
として敏腕を奮われていた、今は亡き六笠六郎先輩のニックネームである。

「ロクサン」は某月6日に6男として生まれ「六郎」と命名されたとか。ご家族
は6人、本籍は6丁目36番地、お住まいのマンションが606号室という、
まさに「6」づくめで、「ロクサン」のニックネームは生半可なものではなかっ
た。

小柄な体躯であったが、大の男をガミガミ怒鳴るので、雷を落とされた部下
は頭を掻きながら「ムッカーサーにやられちゃったよ」ということもあった。
しかし六笠常務はもともとは人がよく、クチャクチャと顔を綻ばせた笑顔は
いかにも好々爺の相があって、叱られても憎めない人物であった。

こういう常務を、大介氏たち若手部員たちは、北の新地の縄暖簾や本店の
喫茶室で時々の話題を語り合うとき、親しみを込めて「ロクサン」という綽名
で呼んでいた。


大介氏が本店外国部から横浜支店の課長に出て、現場の体験を積み、ロ
ンドン勤務の内示を受けたのは1972年(昭和47年)初夏である。

大介氏はかつて仕えたロクサンこと六笠元常務を転勤挨拶のため訪れた。
「いやぁ、久しぶりだね。このたびはおめでとう。僕は戦前の勤務と戦
後の支店再開にも行ったから、ロンドンはとても懐かしいよ。ところで
君は海外は初めてで大変だね」
「はい。期待半分、不安半分といったところが本音です」
「それでは、海外、特にロンドン勤務の心得を伝授しよう。メモを取り
たまえ」
メモを取れというところなど、いまだムッカーサーの面影躍如としている。
「ところで娯楽についてアドバイスしよう」
「ありがとうございます」


大介氏はホッとする。
「土、日にはゴルフをやりたまえ。いいコースが多く、それに安いから
ね」
「一日に二ラウンド回られたと聞いたことがありますが?」
「田舎のコースでね、隣接している二つのゴルフ・コースを梯子した
よ。ハッハッハ」
秘書がコーヒーを持って来た。
「君、ロンドンでは芝居を見なさい。少なくとも月に一回必ず観劇に行
きなさい。バレーやオペラ、ミュージカルなどいろいろあるからね。趣
味を広げ、話題を豊富にすることは個人の生き方としても必要と思う
が、清泉銀行幹部の素養としても大事なことだ。君、月一回の観劇、
これは強制するよ」
いかにもムッカーサーらしい発言である。大介氏は手帳に『強制』と書き入
れた。
「映画にはね、大人用はAというマークがある。セックス物はSだ。適
当に楽しみたまえ。小説をよく読むこと。アガサ・クリスティの推理小
説を薦めるよ。生きた会話を覚えるのに役に立つと思うよ。そうそう、
英語といえば現地人のセクレタリーはいい英語のレターを書くから、
文章の良いのを真似したらよい」
ロクサンのアドバイスは、具体的で懇切丁寧である。実務では細かすぎる
と外国部員を嘆かせた事もあったが、海外勤務初体験の大介氏にはあり
がたいご指導である。
きちんとメモを取っていく。
「次に休暇の過ごし方だ。家族を呼び寄せたら、田舎に行きなさい。
英国の良さは田園風景にあるからね。カントリーで英国の気分を満
喫したまえ。」
「英国にいる間は、英国のことをよく学びなさい。奥深い歴史があり、
興味の尽きぬ国だからね」
清泉銀行の黄金色の手帳に書かれたこのメモが、橘大介氏のロンドン生
活に大変役に立ったことは、読者諸氏にもお分かりいただけよう。大介氏
が自らの恥をしのんでこの経験談を世に出すのは、「ロクサンの教えは、
英国に勤務しようとする若手ビジネスマンに、20年後の今なお参考にな
る」と、固く信じているからである。

読者諸氏よ、いかがであろうか。


不思議なことに、ロクサンは6年のご入院ののち、某月6日ご逝去された。
六念居士のご戒名は、お人柄に相応しく、ユーモアが溢れる。
(昔の人は偉かった。天国のロクサン六笠常務、ありがとうございました)

さて皆さん、「ロクサン」に「6」はいくつありましたか?


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