ロンドン憶良見聞録


悲しきポピーの日


「ただいま」
いつもなら明るい声でにこやかに迎えるはずの美絵夫人が、今日は何か沈んだ顔付き
でドアを開けた。
美絵夫人の目から、みるみる涙が溢れ出た。
「今日はポピーの日でしょう。マーケットの端でご老人の方が、ポピーの赤い花と募
金箱を抱えて立っていたの。私の父も戦死してるでしょ。だからご遺族の方か退役の
ベテランでしょうけど、戦没者の家族の悲しみは分かるので、寄付をしようと思った
の。でもそのご老人は険しい目付きで私を睨み、くるりと背を向けてしまったの! そ
れがとっても悲しくて・・・」
ポピーの日とは11月11日、英国の戦没者慰霊記念日(メモリアル・デイ)である



1914年6月、オーストリア皇位継承権のある太公夫妻がボスニアの首都サラエボ
で、セルビアの青年に暗殺された。オーストリアのセルビアへの宣戦布告により、ド
イツ、ロシア、フランス、英国、イタリー、トルコなど欧州を巻き込んだ第一次世界
大戦が始まった。
毒ガス、タンク、塹壕戰・・・凄惨な大戦であった。とりわけドイツ軍と英仏連合軍
はフランスの北部ソンム川で激戦を続けた。英国軍は勇敢に戦い、戦場を赤い血で染
めたという。その激戦地には赤いポピーの花が乱れ咲いていた。それは、あたかも戦
死者の血の色を思わせたという。
四年間続いた戦乱は、1918年11月11日に終わった。
英国軍の戦死者は94万7千人、負傷者は2百万人を越えた。
いつしか人々はこの戦没者慰霊の記念日をポピーの日と呼ぶようになった。



美絵夫人の亡き父親は技術者であったが、太平洋戦争に召集され、南洋上で戦死して
いた。輸送船沈没の悲報が届いた時、美絵夫人はまだ小学生であった。
「レッド・ポピーの花を抱いた老人は、シンガポールの激戦かクワイ河の架橋か、
バターン死の行軍か知らないが、日本に相当よくない印象を持っているのだろう。
でも、美絵もまた戦争犠牲者の一人であることを知ったら、背中など向けなかっただ
ろうになあ」
日英二人の戦争犠牲者の心の傷は深い。

英国を旅してみると、町や村の中心地に戦没者慰霊の記念碑などをよく見かける。
「国のために尊い命を捧げた人々たちに感謝し、その冥福を祈る」と彫られている。
憶良氏が少年の頃、日本の町や村でも必ず見かけた風景である。
しかし、アメリカ軍の占領とともに、これらの戦没者慰霊の石碑は、跡形もなく取り
壊された。アメリカから見れば、日本の軍人はすべて帝国主義の侵略戦争に加担した
憎き兵士に見えたのであろう。しかし、大多数の兵士は平和な時には、平凡な町民や
村民であったはずである。
アメリカ軍に敗れた当時の大人たちには、GHQ(General Head Quarter) の命令
に抵抗する気力はなかった。かくして日本の市町村から、戦没者の冥福を祈る慰霊碑
は、軍国主義のシンボルとして、たちまちのうちに消滅した。



こういう点で、日本人は柔順すぎるのか、淡白な性なのか、抵抗したり抗議すること
に不慣れなのか、長いものには巻かれろ式の日和見主義が大衆の心理であろう。
欧米人にとっては、自分たちが行った戦争はあくまでも正義の戦であって、侵略の戦
いではなかったのであろうか。
それとも戦争の大義名分とは関係なく、自国の戦没者の慰霊を弔う気持ちであろうか
慰霊碑は必ず見かける。
もしも前者であれば、人間にこれほどの傲慢さやエゴイズムが許されるのであろうか
もしも後者であれば、敗者の日本にも戦没者の慰霊碑は残してもよかったのではある
まいか。

しかし、いつの世にあっても、戦争の犠牲者は弱い市民たちやその家族である。
国と国、国民と国民がより親しくつきあい、理解を深めれば、戦争はかなり避けられ
るのではないか。
憶良氏夫妻にとって悲しきポピーの日となった。

短歌二首
ポピーの日寄付を拒みし老人よわが妻もまた遺族なりしに
南冥に果つてふ義父の三三忌英京にあり心経を誦す

第一次大戦から約80年後の今、バルカン半島ではユーゴスラビヤは分裂し、再び悲
劇的な民族抗争が勃発している。一日も早く無事解決されることを、憶良氏夫妻は祈
るばかりである。



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