パリの空の下チョコレートが流れ
(前頁より)



「嗚呼!ナンタルチア!」
どういうわけか、笹口君の事務所の、分厚い樫の木の扉には錠が掛
かっていた。
いくらノックをしても、厚い扉は何とも鈍い音を立てるばかりである。
(おかしい。今日が休みのはずはない。事務所に入れないとすれば、
ホテルへ引っ返した方がよさそうだな。急いで汚れを取らなくっちゃ)
3階のロビーでは、うまい具合にダウンのエレベータが停まって、扉が
開いたままになっていた。間一髪、憶良氏は飛び乗った。

グランド・フロアでは、扉が開くのももどかしく、人混みを掻き分けて、
出口の方へと走って行くと、真っ正面の柱の陰から出て来た男とぶ
っつかりそうになった。
先刻の、親切な若者であった。途端に、彼は大きな声を張り上げた。

「旦那!旦那はこれを落としましたよ!」
彼が右手に高く掲げているのは、何と憶良氏のパスポートと財布で
はないか。
「やあ、どうもどうも」
「さっき旦那が背広を脱いだ時、落っことしたんで・・・、旦那はアッと
言う間に駆け上がっちゃったからさ、ここで待っていたんだ」



若者は、パスポートと財布を憶良氏に手渡すと、足早にドアの方へ
と踏み出した。
「君、君っ!ちょっと待ちたまえ!」

若者はギョッとした顔付きで振り向いた。
憶良氏は、少しばかりの心付けをあげようと、50フラン紙幣を取り出
した。
「いやいや要りません。要りません」
ドアを押し開け、身体半分通りに出ていた若者は、上半身を捻り、奇
妙な顔をしてサッと姿を消してしまった。

やむなくホテルに帰り、刻々と過ぎ行く時間を気にしながらハンケチ
を濡らし、ベッドの上に広げたコートと背広の汚れを懸命に落とした。
約束の時間には、もう何分も残っていなかった。慌ただしくホテルを
出た。
(やれやれ、とんだ目にあった。でも、いったいどの窓だったのか?)
見上げたパリの空の青さが、憶良氏の目に染みた。


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