ノルマンディー歴史紀行

モン・サン・ミッシェル大修道院(5)


「ラ・メルヴェイユ」と「牢獄」、そして「世界遺産」へ



 再びモン・サン・ミッシェルならではの特色ある建築のいくつかを見
ながら、モン・サン・ミッシェル大修道院の意外な一面を見よう。

ゴシックの傑作ラ・メルヴェイユ(奇跡)

 修道院として俗界と一線を画する厳粛な雰囲気。堅固な守りを固め
敵は一兵たりとも入れないという感じの重厚な城壁。天界へ届けとば
かり高く聳える尖塔。干潮満潮にさえぎられ、陸路でも海路でも近寄
りがたい威容を誇るこの岩山の聖堂とその歴史の一部を紹介した。

 しかし、ゴシック建築の傑作といわれる「ラ・メルヴェイユ」を見ずに
去るわけにはいかない。
 13世紀の内乱で戦火にあった僧院が、フランス王の寄進で修復さ
れた時、北側の部分、今「ラ・メルヴェイユ」と呼ばれる部分が改築さ
れた。

 時代の変遷とともに修道院の規模は大きくなり、僧院居住者にも巡
礼者にも、さらには時に駐留する戦士への接遇にも、階級の差が出
てきた。
 当時の階級制度を反映して「ラ・メルヴェイユ」は3階になっている。

 上階は聖職者が利用する空間で、僧の「大食堂」と「廻廊庭園」があ
る。(すでに紹介したロマネスク建築の本堂、その奥のゴシック建築の
内陣と同じ階に隣接している)

 「廻廊」は聖職者たちの思索、瞑想、会話、散歩の場所である。
 本堂や内陣の堅苦しさと違って、柱は細身で優雅である。アーチとア
ーチの間には彫刻装飾「エコワンソン」がある。白いカー産の石灰石
には、葡萄やバラなどをあしらったノルマンディー風彫刻が施されてい
る。



 大食堂はロマネスク風の天井とアーチ窓になっている。下の階にか
かる重さを考慮したようである。修道院の食事は儀式であるようで、食
事の間にも説教があるらしい。厳粛な雰囲気の中にも重厚過ぎない
ように配慮された柔らかさが感じられる。



 中階は「騎士の間」と裕福な巡礼者など「賓客の間」がある。
 「騎士の間」というのは聖ミッシェル騎士団に因んで命名されたが、
集会は一度も開かれずに、もっぱら修道僧の仕事部屋であった。
 この僧院に財産を持ちこみ、身の安全を保障してもらいたいと島内
居住を希望する逃亡貴族たちもいたようで、「賓客の間」は彼らに面
会を求めてくる貴族や金持ちの巡礼者を接遇する場所であったとい
う。
 
 下階は一般巡礼者への「布施分配室」と「貯蔵室」である。

 「地獄の沙汰も金次第」とは洋の東西を問わないようだ。

「海邊のバスチーユ」

   修道院が、城砦としての役割を増してきた時から、さらに俗化した。
隔絶された世界は、為政者に都合のよい牢獄として利用されたので
ある。公開の裁判が出来ない者や不都合な者が、王に一存で送りこ
まれ、修道院共同体の監視下に置かれた。

 興味深いのは、修道院の南西、死体置き場の壁面に、「プラウン」
と呼ばれる荷物の積み下ろしをする垂直に近い石梯子のケーブル
装置がある。

 垂直の城壁を見下ろすと、遥か下方に荷場がある。荷物の引き上
げの動力は?それは囚人たちの脚力であった。大きな木製の車輪に
容れられた囚人たちは、あたかも独楽鼠のように歩み続ける。
車輪に連結された大滑車で、綱は捲き上げられる。



 この過酷な労役に服する囚人の僅かな愉しみは、陽の当たらない
地下の牢獄では見れない外界が、荷揚げ口から覗けることであった
という。

 宗教戦争では、モン・サン・ミッシェルはカトリック派の要害として
プロテスタント派との攻防に、いろいろのエピソードが残された。

 なかでも「プラウン」にまつわる宗教戦争の最中の事件を紹介しよう。
このカトリック派の要害に何とか忍びこもうとしたプロテスタント派の将
モンゴメリー伯は、策を図り、この荷揚げ口の番兵を意を通じた。
 モンゴメリー一族はノルマン貴族の名門であった。

 ある漆黒の夜、モンゴメリー伯は部下を率い「プラウン」の下に来た。
合図により兵士が一人づつ引き上げられていった。80名引き上げら
れたが、突撃の物音も、防御の銃声もしない。静寂のままである。

 「ちょっと様子がおかしい。調べてきましょう」と、ある兵が別の柱に
滑車をつけて、それとなく登り、暗い荷揚げ口を見ると、恐怖に慄いた。

 引き上げられた兵が次々と刺され、首を掻っ切られ、血の海となって
いた。兵は絶叫し、下の兵は慌てて彼を下ろした。
 モンゴメリー伯は残った兵をまとめて逃げた。
 城壁の上から、城兵の哄笑が夜空に響いたという。

 フランス革命で修道僧たちがこの島を逃げ出すと、完全な牢獄とな
り、「海邊のバスチーユ」と呼ばれ、恐れられた。

 1833年に書かれた前掲の「ノルマンディー歴史紀行」でも、かって
の修道院跡の牢獄兼要塞として僅かな範囲の見学レポートしかない。
記事はもっぱら中世の伝説や戦記である。
 守衛のチェックを受けて島内に入った著者は、その記事の中に、見
学中に囚人の苦痛のうめき声を耳にしたと記している。島内は村も牢
獄も大変汚かったと書いている。

文豪たちの功績

 19世紀には入り、フランス文学の大御所ヴィクトル・ユーゴーやモー
パッサンらの作家たちが、モン・サン・ミッシェルの素晴らしい景観を誉
め称えた。

 北側の建築を「世界で最も美しい壁」「ラ・メルヴェイユ」と賞賛したの
はヴィクトル・ユーゴーである。仏和辞典で「merveille」を見ると、「驚嘆
すべきもの、傑作、素晴らしいもの不思議、奇跡」などである。

 モーパッサンは、修道院は「陸から遠くへ押し出され、幻想的な城館
のようでもあり、夢の宮殿のように呆然とさせられ、奇妙で美しい」と語
ったと。その他多くの作家たちが絶賛した。

 因みに、ヴィクトル・ユーゴーはナポレオン3世の第2帝政時代に英
領といってもモン・サン・ミッシェルの目と鼻の先である、ジャージー島
やグァンジー島に17年間亡命していた。

 またモーパッサンは、ノルマンディーの海岸エトルタで育ち、後年は
近くの名勝フェカンで暮らしていた。

 こうした美意識のある人たちにとって、由緒ある建築美の殿堂モン・
サン・ミッシェルが、政治犯の監獄として使われていたのは耐えられな
かったのであろう。ペンの力は偉大である。モン・サン・ミッシェルは再
評価され、観光客が押し寄せた。

 1874年、モン・サン・ミッシェルは牢獄から現在の「歴史記念物」に
なり、さらに1979年、ヴェルサイユ宮殿などとともにフランスでは最初
の「世界文化遺産」に登録された。

 おかげで憶良氏も綺麗に修復された島を見学できた。
 ヴィクトル・ユーゴーやモーパッサンたちに感謝し、モン島を去ろう。



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