シェイクスピアは罪作り
このタイトルを見ただけで、日本の英文学を学んだ方々、とりわけシェイクスピア文
学信奉者たちの各位から、
「人類史上まれにみる大劇作家の先生を『罪作り』などと冒涜するとは何事か!」
と大目玉を食らいそうである。
憶良氏は文学部や芸術学部の出身ではない。古典的な古臭いマルクスの『労働価値』
とか、近代的と称されたケインズの『流動性選好』などという、なにやら得体のしれ
ぬハッタリがましい経済学部に籍を置いている間に、卒業証書を戴いたようである。
文学的素養にも、芸術的感性にもいささか縁の少ないバンカー、つまり金貸し稼業に
身を置く、しがないサラリーマンにすぎない。
だから、まあまあ、そうエキサイトせずに、門外漢の戯言として堪忍してもらいたい。
決してシェイクスピア先生の名作をけなすのではないから。
シェイクスピアに敬意を表しつつ、少し距離を置いて登場人物を眺めてみよう。
それは、ある冬の日曜日の午後のことであった。
ロンドンの冬の雲は陰鬱という表現がぴったりするように、重く垂れ込める。地平の
僅か上に、ほんの申し訳程度に顔を出す太陽は、すぐ雲に隠れる。この日もハムステ
ッドの丘には灰色の雲が覆っていた。
憶良氏はフイッロイ・マックリーン先生の書かれた概説スコットランド史を読んでい
た。夏が来たら家族でドライブ旅行をしようと考えていたからである。
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「オヤオヤッ」
「あなた、どうかされましたか?」
数日遅れの邦字新聞を、隅から隅まで読んでいた美絵夫人が顔を上げた。
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- 「驚いたなあ。マクベスは悪人ではなかったと!」
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- 「嘘でしょ。だってシェイクスピアの史劇では、マクベスは魔女に唆されて、主
人だったダンカン王を殺害し、その王位を奪ったんでしょう。ダンカン王の王子
は何といいましたっけ? どこかに逃げて、後に復讐しましたよね」
「そう。王子マルコムは成人して復讐の兵を興した。マクベス王の陣に近づくた
めに兵士たちに茂った木の枝を身につけさせた。ジリッジリッと大軍が動く様は、
あたかも森が動くようであったと」
「思い出しましたわ。魔女から、森が動く時、身が破滅すると予言されていたマ
クベスは、ついに気が狂って死んだ」
「そう。マクベスは主殺しの悪人として世界に知れ渡っている。シエイクスピア
の史劇が演じられれば演じられるほど、マクベスは悪王として思いこまれている。
だが、この歴史書によれば、マクベスはたしかに1040年に、ダンカン王と戦
って殺してはいるが、その17年間の治世の間は、スコットランドに善政を敷い
た賢い良い王であったと書かれている。おまけに10年後の1050年スコットラン
ドからローマへ行くなんて、本当にすべての道はローマに通じていたんだなあ。
マクベスは立派なスコットランド王だったんだよ」
「シェイクスピア・ファンの私としましては、何か釈然としませんわね」
「でも史実は史実として理解しないとね」
「マクベスは本当は良い王であった、と知っている日本人は多いのでしょうか」
「どうだかね。悪王とされてしまったマクベスは可哀想だね。シェイクスピア先
生もいささか罪作りだよ」

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- 「こういった史実とは逆のシェイクスピア劇は外にもあるのかしら」
というわけで、憶良氏は美絵夫人におだてられ、少し調べてみることにした。
ありました。ありました。シェイクスピア史劇ではドラマチックな『ヘンリー五世』
が。
えっ憶良さん、そりゃないで。彼は史実をちゃんと調べて書いているのではないの?
と、シェイクスピア愛好家の方々はおっしゃるであろう。
(詳しくは「ロンドン憶良見聞録」をお読みください)
江戸川柳風に真似して発句してみれば、こうなろう。
シェイクスピア 見て来たような 嘘を書き
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「ヘンリー五世は名君に描かれているからまだしも、悪王とされたマクベスの方
は、史実を理解して彼の名誉を回復してあげたいね。どうもダンカン王の方が悪
政を敷いていたらしいからね」
臍曲がり憶良氏は、シェイクスピア先生の筆のすごさに敬意を表しつつも、その筆の
犠牲となったマクベス王にかなり同情したくなる。
シェイクスピア大好きという読者諸氏の、忌憚なき感想やいかに。
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