第2部 反 乱

第8章 ミッドランド制圧(1)

前頁より




 ウィリアム王がロンドンの北に所在するこれらの3都市に進軍したの
には理由があった。

 リンカーンもまた古代ローマ軍団の大駐屯地であったから、都市その
ものが要塞であった。紀元48年当時は「Lindum」という地名であった。

 南下したウィリアム軍団は、現在ニューポートと呼ばれている大通り
にさしかかった。
「ほう、この門が唯一イングランドに残る古代ローマ時代の入城門か」
 一同の感慨は深かった。
 大きくはないが典型的なローマ風の円いアーチで、がっちりした石造
建築である。ウィリアム軍団は、城門の周囲に詰め掛けた市民を見な
がら、威風堂々と市内中心部には入った。



 城門や城壁だけではない。古代ローマ帝国の道路工事能力にも驚
嘆する。この町から南西部のエクセターへは、ノッティンガムを経由し
てフォスウェイと呼ばれた直線的な軍用道路が建設されていた。

 リンカーンは交通の要衝だけではない。町には953年にサクソン風
の聖堂も建てられて、この地方の宗教都市でもあった。ミッドランド鎮
圧と人心掌握のためには重要な拠点のひとつである。

 リンカーン市民も抵抗することなく臣従した。王は、ローマ軍団の遺構
の跡にノルマン風の城を築いた。現在壮麗なリンカーン大寺院が建っ
ている西側である。

 さらに南下してハンティンドンに着いた。
 ハンティンドンは、北海に注ぐ大ウーズ川の河畔にあって、古代ロー
マ軍の時代から、水運と陸運の交叉点であった。南北に伸びるローマ
ン道路エルミンはヨークとロンドンを結び、ヴィア・デヴァナと呼ばれた
道路は北西チェスターから南東海岸のコルチェスターにと伸びていた。

 東は船で北海に接する。
 古くからデーン人の入植者の多いノーフォーク州には、ウィリアム王
は非常な警戒心を持っていた。とりわけ、デンマークに向けて大水軍
を受け容れ様と、大きな口を開いているような地形に見えるウォシュ湾
と、それに続く「フェン」と呼ばれる大湿原地帯の周辺都市には、油断
できなかった。
 ハンティンドンは小さな町ではあるが、ここにも砦を築き、守備隊を残
した。
 この最初の遠征でウィリアム王が予感したように、後に「フェン」で、大
反乱が起きる。



 ハンティンドンからケンブリッジは約15マイル(24キロ)ほどの近さ
である。
 今は学術都市として著名なケンブリッジも、紀元70年頃は「Granta」
と呼ばれたカム川を見下ろす丘に建設されたローマ軍団の拠点であ
った。
 
 その後サクソン人が定住し、「グランタケスター」「グランタブリック」
「カンタブリッジ」から現在の「ケンブリッジ」と変わったのである。

 ケンブリッジが学術都市になったのは13世紀初頭1207年頃、オ
ックスフォードの市民と折り合いが悪かった学者の一部が移住してか
らである。
 ウィリアム王が進軍した当時は、この地方の産物の集散地として商
業で栄えていた市場町であった。

 ケンブリッジの商人も臣従させ城を築き、十分な兵を残して、ロンド
ンに帰ってきた。第1次北征は、示威行進だけで成功した。
 ミッドランドもノーサンブリアも暫時落ち着いたように見えた。

「殿、エドガー・ザ・エセリング王子一家の動静が掴めました」
と、ウオルターがウィリアム王に報告に来た。
「どこに逃げているのだ?」
王は身を乗出して訊ねた。
 


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