爆弾仕掛けたよ
(前頁より)
イングランドからの独立を目指しアイルランド人は長い間抵抗と独立
運動を続け、1922年、アイルランド自由国として独立した。しかし、北
アイルランドは独立できなかった。このときプロテスタント住民が3分の
2を占める北アイルランドアルスター地方は英国の統治下に残る方を
選んだのである。
圧倒的にカトリックが多い南アイルランドが、アイルランド共和国として
真に独立したのは、第2次大戦後の1949年(昭和24年)である。
英国統治下に残ったアルスター地方では、選挙権、就職、住宅など社
会生活でカトリック教徒に差別政策がとられた。このためカトリック教徒
は独立運動を起こすことになった。
1972年(昭和47年)1月、ロンドンデリーでの英国軍によるカトリック
教徒13名の射殺事件が、IRAと英国政府との泥沼抗争に火をつけた。
血の日曜日と呼ばれる事件であった。
(憶良氏がロンドンに赴任したのは1972年9月、帰国は1977年3月、
まさにIRAの活動の激しい時期であった)

日本人には理解しにくい北アイルランドの抗争は、次のように要約さ
れよう。
プロテスタント(イングランド人・スコットランド人の地主・自作農・支配
階級)とカトリック(アイルランド人の借地農・被支配階級)の社会構造
の中で、カトリックの過激な一部がIRAを組織し、あくまでもアイルラン
ドの統一独立を目指しプロテスタントや英国政府に反抗している紛争。
すなわち宗教・民族・政治(侵略)・経済(富と貧困)の四要因が絡んで
いる複雑な抗争である。
歴史をたどれば、いちがいにIRAのみを誹謗することも出来ない。
さりとて、目的達成のためとはいえ、彼らの取っている暴力的手段は
肯定できない。
プロテスタントの比率の多い北アイルランド全部を、アイルランド共和
国に統合することは、現実の問題として不可能であろう。
政治・宗教で中立の第三者の仲介によって、一日も早く、IRAも納得
する穏やかな平和的、経済的な妥協案で、北アイルランド紛争が解決
されないものか。
ブレア新首相の手腕に期待したい。
平和な日本では、このような予告爆破の事例があってもピンと感じられ
ずに、憶良氏を臆病者と言うかもしれない。
皆さんは部下と残りますか?それとも避難しますか?
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