ロンドン憶良見聞録


爆弾仕掛けたよ


ペルーの日本大使館人質事件が解決して間がありませんが、皆様は、この物騒な題
を見て、何事ならんと驚かれたでしょう。

「こちらはシティ警察署だが、『XXビルに、時限爆弾を仕掛けた』というIRA
からの電話予告があった。爆発するといけないから、周囲のビルも全員避難するよ
うに」
との警察からの電話に、驚くどころか、動転したのは総務係長の奥谷君である。
XXビルは狭い道を挟んで斜め前である。爆発すれば、爆風は一気に支店長席後方
のガラス窓に襲い掛かるであろう。広いガラス窓を背に、悠々と書類を眺めている
支店長の少し薄くなっている後頭部は、ガラスの破片を諸に被ることになる。
「次長、大変です。どうしましょうか?」
と奥谷君が憶良氏に伺いを立てるのは、それなりの理由がある。IRAの時限爆弾
騒動に乗じて、いたずら電話も結構多いからである。



しかし本当に爆発し、何人かの死傷者がでることもあるから、判断が難しい。
「支店長、一時避難しましょう」
「避難したい者は避難すればよい。俺は動かないよ。爆弾騒ぎを恐れて仕事ができ
るか」
「万一ほんとに爆発したら大変ですから、避難していただけませんか」
「俺は命が惜しくないから、このまま仕事を続ける。どうせ偽電話に決まっとる」

邦人行員たちは、仕事をしているふりをしながら、支店長と憶良氏のやりとりに聞
き耳を立てている。
電話の内容を知った英人行員たちは、立ったり座ったりして憶良次長の避難命令を
待っている。窓辺に近寄って外を見ている者もいる。周りのビルからぞろぞろ従業
員が出て来て、爆風の来ない方に移動している。
支店長と行員の間にたって、オロオロするわけにはいかない。ましてやIRAの時
限爆弾で無駄死にはしたくはない。
現に、IRAの封書爆弾(レター・ボム)ではバンク・オブ・イングランドでも行
員の死傷者が出ていた。
「分かりました。それでは私は行員を率いて避難します」



憶良氏は若手邦人行員と現地人を連れ外へ出た。警官たちがあちこちに立って警戒
している。一同はビルの陰に集まって、XXビルが何時ドカンと爆発するかどうか
固唾を飲んで見守っていた。

しかし、爆発はなかった。警察から避難解除令が出た。
憶良氏たちはぞろぞろとオフイスへ立ち戻った。何とも間が抜けた避難であった。
支店長はジロッと軽蔑の眼で憶良氏を見た。流石に支店長の判断は正しかった。
爆発があった方がよかったのか、なかった方がよかったのか、こういう時には居心
地が悪い。
(IRAさん、イタズラ電話さん、いいかげんにしといてや。これであっしらの命
がパーになったり、仕事を寸断させられちゃかないまへんで)
と言いたいところである。



さて、IRA(アイルランド共和国軍)はどうして爆弾騒ぎを起こすのだろうか。
彼らのサイドにも視点を置いて、憶良氏流に歴史から眺めてみよう。

もともとアイルランドはケルト民族の一派であるゲール族が住む島国であった。
五世紀に聖パトリックが渡来して来てキリスト教を布教し神学や学問が栄えていた。
アイルランド人は、アングロ・サクソン民族の支配しているイングランドを侵略す
ることはなかったが、イングランドはアイルランドを支配しようとして、中世以降
争いが続いて来た。



1172年に、ヘンリー二世が、首都ダブリンを占領した。
(『われ日本のベケットたらん』で述べた、カンタベリー大寺院の大司教トーマス
べケットを暗殺した王である)

その後はアイルランド側も頑張って、侵略を防いで来たが、1534年に至りヘン
リー八世に征服され、イングランドの植民地となった。
ヘンリー八世は女好きで、王妃を6人取り替えた話は、天下に有名である。
当時はローマ・カトリック教会であったから、離婚そのものも大変であり、再婚に
つぐ再婚など許されるべくもない。そこでヘンリー八世は、自分の離婚と再婚を容
易にするためカンタベリー大寺院をローマ教皇庁から独立させ、英国国教会を作った。
古いカトリック勢力にたいする宗教改革、プロテスタント活動でもあった。

かくしてイングランドでは英国国教会が支配的となり、カトリック教は次第に圧迫
され、被支配階級の宗教となっていった。
ヘンリー八世とその子エリザベス女王(一世)が支配したアイルランドでは、ブリ
ティッシの植民者がプロテスタントとして支配階級となり、アイルランド人を借地
農民として悲惨な生活を強いた。このため政治・宗教の両面で深刻な対立が続いた。
しかしアイルランド人はカトリック信者として強いプライドを持っており、容易に
プロテスタントに改宗しなかった。



イングランドからの独立を目指しアイルランド人は長い間抵抗と独立運動を続け、
1922年、アイルランド自由国として独立した。しかし、北アイルランドは独立
できなかった。このときプロテスタント住民が3分の2を占める北アイルランド
アルスター地方は英国の統治下に残る方を選んだのである。

圧倒的にカトリックが多い南アイルランドが、アイルランド共和国として真に独立
したのは、第2次大戦後の1949年(昭和24年)である。
英国統治下に残ったアルスター地方では、選挙権、就職、住宅など社会生活でカト
リック教徒に差別政策がとられた。このためカトリック教徒は独立運動を起こすこ
とになった。

1972年(昭和47年)1月、ロンドンデリーでの英国軍によるカトリック教徒
13名の射殺事件が、IRAと英国政府との泥沼抗争に火をつけた。
血の日曜日と呼ばれる事件であった。



日本人には理解しにくい北アイルランドの抗争は、次のように要約されよう。
プロテスタント(イングランド人・スコットランド人の地主・自作農・支配階級)
とカトリック(アイルランド人の借地農・被支配階級)の社会構造の中で、カトリ
ックの過激な一部がIRAを組織し、あくまでもアイルランドの統一独立を目指し
プロテスタントや英国政府に反抗している紛争。すなわち宗教・民族・政治(侵略)
・経済(富と貧困)の四要因が絡んでいる複雑な抗争である。

歴史をたどれば、いちがいにIRAのみを誹謗することも出来ない。
さりとて、目的達成のためとはいえ、彼らの取っている暴力的手段は肯定できない。
プロテスタントの比率の多い北アイルランド全部を、アイルランド共和国に統合する
ことは、現実の問題として不可能であろう。
政治・宗教で中立の第三者の仲介によって、一日も早く、IRAも納得する穏やかな
平和的、経済的な妥協案で、北アイルランド紛争が解決されないものか。
ブレア新首相の手腕に期待したい。

平和な日本では、このような予告爆破の事例があってもピンと感じられずに、憶良氏
を臆病者と言うかもしれない。
皆さんは部下と残りますか?それとも避難しますか?

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