桔梗の通り  2010.3.31

かんづ、元気かね?

 宮澤賢治・・存在の祭りの中へ    
              見田 宗介 
                      /31
  自我の起源
  
・・愛とエゴイズムの動物社会学  
            真木 悠介
 現代社会の理論
 
 ・・情報化・消費化社会の現在と未来
 
                  見田 宗介   

 

   宮澤賢治・・存在の祭りの中へ    
              見田 宗介
 私の敬愛する多賀先生からいただいて、読んだ本。言葉とか使われている概念とか、論理の勧め方とか、私の知性のレベルではも一つわからないけれど、でも、宮澤賢治について、なにか本質的なものがあぶりだされようとしている、そんな予感がするのだ。予備運動をして、それから、も一度、読み返すつもりだ。
 
  幻想と現実、存在の肯定と否定、宮澤賢治の「世界」は外へ内へと転回し続け、未知の次元へ向かう。我々を永遠に魅了する数々の作品表現の深層に潜む、彼の意識とは身体とは自我とは何か?
 
                 ・・・・・・カバーの解説文より
第一章 自我という罪・・内容紹介   

          わたくしといふ現象は

    仮定された有機交流電燈の

    ひとつの青い照明です      『春と修羅』序 より

 自我ということが、実体のないひとつの現象であるという現代哲学の
テーゼを、賢治は一九二〇年代に明確に意識し、そして感覚していた。

・・・そしてこのように張りわたされた関係性の空間の総体こそが、詩人の(自我)であり(主体)とよばれるべきものに他ならないのだ。・・・

    いかりのにがさまた青さ

    四月の気層のひかりの底を

    唾し はぎしりゆききする

           おれはひとりの修羅なのだ      『春と修羅』より

 賢治の明晰の特質は、それが世界へと向けられているばかりではなく、さらに徹底して自己自身へも向けられていることにあった。そしてこの自己自身へ向けられた明晰はまた、自己をくりかえし矛盾として
客観化すると同時に、この矛盾を痛みとして主体化する運動でもあった。

・・・いずれにしても、賢治にとっての(修羅)という自己規定の軸となることは、なによりもまず、修羅が矛盾の存在であるということ、したがってまた、苦悩する存在であるということにあったとわたしには思われる。

 修羅の怒りが青くてにがいのは、それが単純な「正義の怒り」のように外に向かって発散することができないからである。(家業)を怒ればその怒りはまた、(全体みんな家業のお陰で出来た)みずからの身体に向けてつきささるだろう。

      そこに堕ちた人たちはみな叫びます

    わたくしがこの湖に堕ちたのだらうか

    堕ちたといふことがあるのかと。

    全くさうです、誰がはじめから信じませう。

    それでもたうたう信ずるのです。

    そして一さうかなしくなるのです。

・・・(わたくしといふ現象)はどういう現象であるのかということを、この章では問い、追跡してきた。それはひとつの関係であり、それはひとつの矛盾であり、また(それを感覚する力を持つ主体にとっては、それはひとつの(痛み)であった。
    

第二章 焼身幻想・・内容紹介

 『春と修羅』の賢治にとってZYPRESSENとは、いちめんのいちめんの諂曲模様のうちに歯ぎしりゆききするこの修羅としてのおのれの生を、一気に焼き尽くし、否定し、浄化し、聖玻璃の空に向かってその意志をもってまっすぐにつきぬけてゆくあり方の、具象化に他ならなかったはずである。
         ※   ※
 それはこれらの<死>というものが、再生を前提するものであること、あたらしい存在の仕方へと向かうものであることをよく示している。これらの<死>とは、わたしたちの存在の仕方を変革するためのひとつの浄化、存在のカタルシスともいうべきものの象徴に他ならなかった。
         ※   ※
 人間社会の諸個人の生活の相互依存の連鎖は、個のエゴイズムを絶対化する立場に立つかぎり相互収奪の連鎖であるが、エゴイズムの絶対化をはなれることができるかぎりは、人間たち相互の生の<支え合い>の連鎖でもあり、そしてまたこの他者たちのための<支え>のひとつであるということこそは、ひとが<いきがい>と呼んでみずからの生の支えとしているものの核心でもある。
         
※   ※
 
さそりは死んで宇宙の闇のほんの一隅を照らし出す光となった。それはひとつの生命の代償としてはあまりのも小さな効用であるかに見える。けれどもさそりの火が照らしたのは、生命連鎖の世界の全景の転回に他ならなかった。

 第三章 存在の祭りの中へ・・内容紹介   

       一 修羅と春 ――存在という新鮮な奇蹟――

 宮澤賢治の作品を読むという行為のなかでわたしたちが経験するのは
   ○ 雪が往き、雲が展けてつちが呼吸し、幹や芽のなかに燐光    や樹液がながれる、このようななにごとの不思議もないできご    とのひとつひとつを、あたらしく不思議なものとして感受しつづけ    る力。
   ○ 存在という奇蹟、存在という新鮮な奇蹟にたいして、これを新    鮮な奇蹟として感覚する力のようなもの
             ※     ※
 近代の理性にとっては、<自我>あるいは<人類>という孤独な光源、一切の意味の源泉が、偏在する宇宙の無意味のただ中につかのま存在し、やがてかくじつに虚無の中に没してゆくのだという、荒涼たる世界感覚だけが残される
 ・・・・・(ところが)・・・<修羅>のイメージへと集結する賢治の自我は、暗いように見える。けれどもわたしをおどろかせるのは、この修羅をとりかこむ世界、存在の地の部分のごときものの、まばゆいばかりの明るさである。
 ・・・・ここでの修羅は偏在する光の中をゆく孤独な闇としての自我である。

 ・・・・   まずもろともにかかがやく宇宙の微塵となりて無方の
       空にちらばろう  (農民芸術概論綱要) 

 わたしたちが「自我」のかなたへゆくということを、ひとつの解放として把握する思想を支えることができるのは、このような世界感覚だけである。

      二 向こうの祭り ――自我に口笛――

 修羅は春の中をゆくということを、賢治のいちばん基礎的な世界感覚としてみてきた。
 けれども賢治の自己感覚は、まさしくひとりの(修羅)として、春から疎外されたものとして、遍在する光の中をゆく闇としてあった。

    川が激しく鳴ってゐる。一月十五日の村の踊りの太鼓が向岸   から強くひびいてくる。強い透明な太鼓の音だ。

 (向こうの祭り)とでもいうべき心象は、くりかえしさまざまな変形や移調をtもないながら、賢治の作品にあらわれてくる。

      三 にんげんのこわれるとき
              ――ナワールとトナール――

 にんげんの身をつつんでいることばのカプセルは、このように自我のとりでであると同時に、またわたしたちの牢獄でもある。人間は体験することの全てを、その育てられた社会の説明様式で概念化してしまうことで、じぶんたちの生きる「世界」をつくりあげている。ほんとうの<世界>はこの「世界」の外に、真に未知なるものとして無限にひろがっているのに、「世界」に少しでも風穴があくと、わたしたちはそれを必死に(がいねん化する)ことによって、今ある「わたし」を自衛するのだ。
              ※       ※
    それらひとのせかいのゆめはうすれ
    あかつきの薔薇いろをそらにかんじ
    あたらしくさはやかな感官をかんじ

 賢治はとし子の行ったところを、このような空間としてとらえている。

 それは賢治が、<ひとつのせかいのゆめ>をとりかこむあの夜のかなたに、あたらしくあかつきの薔薇いろをかんじ、<自我>にとっての闇であるものを、そらいっぱいの光の散乱反射する空間として感覚することのできる、<あたらしくさはやかな感官>の存在することを信じていたからである。
              ※      ※

    もうぢきよるはあけるのに
    すべてあるがごとくにあり
    かがやくごとくにかがやくもの
    おまへの武器やあらゆるものは
    おまへにくらくおそろしく
    まことはたのしくあかるいのだ

 賢治ととしこ、生きているものと死んでいるもの、人間とあらゆる生命、人間とあらゆる非生命とをわけへだてている障壁をつきやぶる武器は、わたしたち自身の内にあるナワールの力であった。今ある<わたくし>のかたちに執着して自衛する力としてのトナールにとって、そのことがくらくおそろしい力にみえるだけである。それはわたしたちが<外に出る>こと、万象の同帰するあの光の中に身をさらすことの、恍惚と不安がひとつのものであるような戦慄を表現している。

注・トナール    ことばのカプセルとしての「わたし」。概念によって         世界をつくり、そのなかに「わたし」を閉じ込める。
注・ナワール    <トナール>というカプセルをかこむ大海であり、存         在の地の部分であり、他者や自然や宇宙と直接に「ま         じり合う」わたしたち自身の根源。

    四 銀河という自己――いちめんの生――

 天沢退二郎は『おきなぐさ』の宮沢賢治を、「死に魅せられたよう」と評しているけれども、反対にここにあるのは死のない世界、死のむこうにまでいちめんに生の充溢した世界であるように思う。宮沢賢治が自分の身体を<みのりに捨てる>ことを願望し、そのようにその生涯の最後の日までを生きたのは、死に魅入られていたからではなく、このようにその身体のかなたにひろがるいちめんの生に魅入られていたからだと思う。

 

 

  自我の起源
  
   ・・愛とエゴイズムの動物社会学  
                真木 悠介     
  
 
         岩波現代文庫 1000円+税
 真木悠介とは、見田宗介のことである。「宮澤賢治・・存在の祭りの中へ 」を読むための、予備運動として私が選んだのが、この本である。読み始めてびっくりした。このような考察をおこなったものがあったなんて。一通り読んで、やっぱり知的レベルについていけないから、でもどうしても知りたいから、もう一度読み返しを始めたところだ。
 
  本書は、比較社会学の視座から現代社会を考察してきた著者が、生命史における「個体」発生とその主体化の画期的意義を明らかにする。遺伝子理論・動物行動学・動物社会学の成果に向き合いつつ、動物個体の行動の秘密を探り、「自我」成立の前提を鮮やかに解明する。「人間的自我」を究明する著者ならではの野心作。
                 ・・・・・・カバーの解説文より
二度目、読み終えたところで、少しずつ紹介しよう。まずわかりやすく、解説文からの抜書き。解説者は京都大学大学院教授で、真木悠介の教え子である。

『解説』    大澤真幸 より

○「人間は世界の形成者」である」というテーゼは、本書と対応させれば、人間は、個体性と主体性を備えた自我だと言っているに等しい。

○生命以前の端的な物質から、固有の世界を有する人間までの飛躍と連続とを、短絡的な似非科学主義とも、神秘主義とも縁を切ったところで、ていねいに跡付けてみること、これが本書のねらである。

○真の主体性をテレオノミー的な主体性と呼ぶ。テレオノミー的な主体性は、脳の発達によってもたらされた学習能力やシミュレーション
能力を前提にして、とりわけ哺乳類に固有な群居性・社会性の中で獲得される、というのが本書の結論である。
 

本文・6 〈かけがえのない個〉 という感覚

○「意識が生じるのは、脳による世界のシミュレーションが完全になって、それ自体のモデルを含めねばならぬほどになった(シミュレーションそのものがシュミレートされる)ときであろう。」

○社会関係に敏感である動物は、脳が明晰化する度合いにほとんど即応するように、シミュレーションをシュミレートする能力を発達させる。

○自己意識という現象にとって一見逆説的に、〈他者〉こそがその起原と存立の機制の根拠をなす・・・他者だけが自己を形成することができる・・・自己意識が他者関係から反照的に構成される。

○〈自己意識〉は一般に、他の個体との社会的な関係において反照的に形成されるが、その文脈となる社会関係が、このように「個体識別的」である時にはじめて、それはわれわれに見るような、かけがえのないものとしての〈自我〉の感覚を形成するものとなるだろう。。

本文・7 誘惑の磁場 ― エクスタシー論 より

○生成子(遺伝子のこと)が他の個体に働きかける最もすぐれた方法は、働きかけられる他個体が歓びをもって、すなわち能動的な「熱意」をもって、利他行為を行ってくれるように形成することであった。

○わたしたちは他の個体からも、時には異種の生成子たち、動物や植物からさえ、いつも働きかけられている。

○「延長された表現型」というコンセプトの帰結は、私達の身体が、〈他者〉のためにもまたつくられてあるということである。

○我々の経験することのできる生の歓喜は、性であれ、子供の「かわいさ」であれ、花の彩色、森の喧噪に包囲されてあることであれ、いつも他者から〈作用されてあること〉の歓びである。つまり何ほどかは主体でなくなり、何ほどかは自己でなくなることである。

本文  テレオノミーの開放系―個の自己裂開的な構造

○個体を主体としてみれば、個体はその〈起原〉のゆえに、自己の欲望の核心部分に自己を裂開してしまう力を装置されている。

○けれど個体の、この自己を裂開的な構造こそは、個体を自由にする力である。個体のテレオノミー的な主体化が、自己=目的化、エゴイズムという貧相な凝固に固着してしまうことがないのは、個体のこの自己を裂開的な構造のためである。個体は個体自身ではない何かのためにあるように作られている。

補論2 性現象と宗教現象

○私たちの欲望の中心に性の欲望があるということは、個としてのわたしたちの欲望の中心部分が、あらかじめ個をこえたものの力によって先取りされてしまっているということだ。

○〈宗教〉という願望の実質として賢治がとらえていたものは何か?「じぶんとひとと万象と」共に至福にいたろうとする願いのようなものだ。

○自分の身体の境目をいつも超え出てしまう感受の資質・・
○あの烈しい分身散体願望・・
○この「自分を劃る」ことのないものに向かう烈しい欲望・・
○〈心象〉の時空の内に魂があくがれ出ること・・

○〈じぶんの子どもだけが大切〉という「愛」の連鎖をどこかで断ち切るところがなければ、人はほんとうに広い場所にも真実の場所にも立つことはできないのだと賢治は感受していた。

○〈独りであること〉への賢治の固執は、自閉への意思のようなものでなく、反対に自分を開くことへの戦略だった。

 

 

  現代社会の理論
  
   ・・情報化・消費化社会の現在と未来  
                見田 宗介     
  
 
         岩波新書 700円+税
  宮澤賢治・・存在の祭りの中へ 」を読むための、予備運動として私が選んだ本の一冊。社会学の専門書は初めてなので、決行きつかった。
  「豊かな社会」のダイナミズムと魅力の根拠とは何か。同時に、この社会の現在ある形が生み出す、環境と資源の限界、「世界の半分」の貧困といった課題をどう克服するか。現代社会の「光」と「闇」を、一貫した理論の展開で把握しながら、情報と消費の概念の透徹を通して、〈自由な社会〉の可能性を開く。社会学最新の基本書。
                 ・・・・・・カバーの解説文より

 

 

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